第26話

 雨は小ぶりになっていたが、目的の元はんこ屋は、雨のせいでずいぶん陰気臭く見えた。

 看板がはずされて、ペンキの剥げ痕が雨で滲んでいる。入口の硝子戸は、今どきめずらしい摺硝子だ。


 おばさんたち四人とひまりの計五人が立つと、元彫美堂の店先は身動きができないほどだった。はんこ屋を開業していた頃の名残はなく、自転車、椅子型マッサージ器、古いタイプの掃除機が置いてある。物置として使用しているのだろう。

 店の奥の部屋に、おじいさんは暮らしているようだった。店と居住スペースを分ける引き戸の前に、万年青(おもと)の鉢植えが三つも並んでいる。その鉢植えを倒さないよう注意しながら、多恵さんが引き戸を開けた。


「おじいちゃん、入ってええか?」

「誰や?」

 軋んだゴムのような声が返ってきた。

「さっき洋一さんに電話した多恵や」

 洋一というのは、おじいさんの息子で、隣で学習塾を開いている、多恵さんの同級生だ。

「誰や?」

 聞こえていないのかもしれない。多恵さんは後ろを振り返ってみんなを見てから、

「入ろ」

と言った。


 八畳ほどの和室には、コタツが置かれてあった。年を取ると、季節に関係なく、コタツに入るものなのか。ひまりは川名さんのおじいさんの部屋を思い出している。

 そのコタツの一部のように、おじいさんが座っていた。コタツテーブルの上から、小さくて赤黒い顔が覗いている。

「あのな、洋一さんから聞いたと思うけど、ちょっとな、吉祥庵について訊きに来たんや」

 おじいさんは、ぽかんとした表情で、順番に訪問者を見ていった。それから、ふたたび、誰や?と言う。

「鶴田町に吉祥庵ていう蕎麦屋があったこと、覚えとるかね」

 多恵さんが、おじいさんの近くにしゃがみこんで言った。

「吉祥庵? 蕎麦屋のか」

「その蕎麦屋の従業員やった橋本いう夫婦もんのこと、おじいちゃん、憶えとらんかね」

「――橋本」

 おじいさんはそう呟いてから、口をパクパクさせた。

 ひまりは慌てた。おじいさんは呼吸困難に陥ったんじゃ? 

 澤田さんはじめ、おばさんたちは動ずる風はない。

 ひまりの動揺に、美代子さんが、

「入れ歯の位置を直しとるんよ」

と教えてくれる。


「憶えとらんかね、交通事故で亡くなったらしいんやけど」

 やっぱりおじいさんは、口をパクパクさせるばかりだ。無駄足だったのでないかと思ったとき、ふいに、おじいさんの声が響いた。

「幸夫には、儲けさせたもんや」

「知り合いやったんやな?」

 多恵さんがみんなを振り返って、親指を立てる。

「あれもなかなか見る目はあったんやが、儂のほうが上や。儂が買えと薦めた切手ははずれなしでな」

「幸夫さんも切手が趣味やったんか」

 おじいさんは、じろりと多恵さんを睨みつけた。

「趣味なんてもんやない。狂っておったわ。切手を数えるときにな、い~ちまい、に~まいと、まるで札束みたいに数えて、胸糞悪い」

 ひまりは部屋に上がり込んで、コタツの前に座った。

「おじいさん。その橋本さんの息子さんのこと、憶えてませんか?」

「息子?」

「そうです。当時、小学生ぐらいの息子さんがいたはずなんですが、その人を探してるんです。名前は、裕之といいます」

「裕之……」

 期待を込めた目で見つめたが、おじいさんはそれきり黙り込んでしまった。


「これぐらいにしとこ」

 首を振りながら、多恵さんが立ち上がった。

 ぞろぞろと元はんこ屋を出た。いつのまにか、雨がやんでいる。


「あたし、もう、時間ないわ。うちのおじいちゃん、帰ってくる時間やから」

 澤田さんの挨拶で、ここで別れることになった。

「明日も調べるんか?」

 澤田さんを見送りながら多恵さんに訊かれたが、ひまりは答えることができなかった。

 


 やっぱり無理だなあ。

 おばさんたちと別れて、ひまりは駅へ続く大通りを歩いている。通りにはデパートも見えるが、人通りはあまりない。

 知り合いに会う恐れもないから、しょんぼりした顔を取り繕う必要もなく、口をへの字にしたまま歩く。

 

 やっぱり、探偵業なんて向いてないのだ。駿介さんにおだてられて始めてしまった仕事だけれど、もし、おばさんたちがいなかったらどうなっていたことか。

 多分だけれど、調査をする仕事というのは、カンがいい人間のするものなんだ。その上、粘り強くなくちゃいけないだろう。その二つとも、自分にはないと思う。

 しかも、今回は自腹を切っての調査をするはめになっている。こんな有様では、貯金がすぐに底をついてしまう。

 

 明日の予定はたっていない。これ以上、どうやって調べればいいのかわからないのだ。

 調査もせずにこの町にいるわけにはいかない。依頼人の三本さんには、わかりませんでしたと正直に言うしかない。この結果を、駿介さんだって納得してくれるだろう。なんたって、自腹なんだから。

 ようやく駅に着いて、裏駅側へ渡る通路にさしかかったところで、夕食を買って帰ろうと思いついた。勿体ないから今夜もコンビニ弁当だ。

 

 いちばん安い海苔弁を買って、ふと、竜文旅館のひそかさんを思い出した。昨夜はロールケーキをごちそうになった。お礼に、何か買っていこう。

 

 奮発してプリンアラモードを買い、宿に戻ると、ひそかさんは昨夜と同じように、カウンターの向こうに座っていた。何やら今夜も熱心に机に向かっている。

 

 こんばんはと声をかけると、やあおかえりなさいと、笑顔が還つてきた。

 ひそかさんは、ピンセットを持った手で前髪を払い、カウンターの硝子を開けた。

「また、切手の整理ですか」

 ちょっとだけ身を乗り出して、机の上を覗いた。切手シートが広げられている。

「暇なときはね、眺めていると落ち着くから」

 今夜もお客さんは少ないようだった。廊下の奥でテレビの音がするから、一人はいるようだが。


「調査のほうはどうでした?」

 今夜もしょんぼりしているように見えるのだろうか。

「駄目でした。なかなか難しいです。わたし、やっぱりこういう仕事は向いてないみたい」

「そんなことないですよ!」

 突然ひそかさんが叫んだので、ひまりはびっくりしてしまった。

「阿良々木さんは、二階の部屋の謎を解いてくれたじゃないですか。立派な探偵ですよ」

「でも、あれは偶然が重なっただけで、推理したわけでもなんでもないし」

「その偶然を呼び寄せる力があるのが、探偵だと、僕は思いますよ。情報を集める力って、偶然を呼び寄せる力じゃありませんか。あなたに協力してくれたおばさんたちだって、偶然知り合ったわけでしょう? それはあなたの力だと僕は思います」

 

 駿介さんと同じことを言う。

 

 ひまりは胸が熱くなった。肯定してくれているのだ。自然体の自分を、そのまま受け入れてくれる。

 

 作業に戻ったひそかさんの手元を、ひまりは見つめた。

 ひそかさんもただ黙々と続ける。

 静かな時間が流れていった。黙っていても、ひそかさんの優しさが伝わってくる。


「そういえば、今日会ったおじいさんも、切手を集めてました」

 ようやく作業が一息ついたとき、ひまりは声をかけた。

「昔はすごく高い切手を持ってたんだって言ってました。彫美堂っていうはんこ屋さんをやってたおじいさんなんですけど、ひそかさんみたいに、ピンセットで切手を」

 そこまで言ったとき、ひそかさんが、

「ええっ?」

と顔を上げた。

「彫美堂のおじいさんって、嘉助さんのことですか?」

「へ?」

 ひまりは目を丸くした。

「知ってるんですか」

「知ってるも何も。あの人はコレクターの間では有名な人なんですよ。あの人のコレクションはマニアが欲しがるものばかりで」

「そういえば、わたしの探してる人を儲けさせてやったなんて言ってました。昔の話らしいですけど」

「へえ。あなたの探している人というのも、切手マニアだったんですか」

「そうみたいです。橋本さんという方なんですけど」

「橋本?」

「ええ。昔、鶴田町に吉祥庵というお蕎麦屋さんがあったんですけど、そこの従業員の人で」

「……橋本。彫美堂と橋本……」

「まさか、ご存知だとか?」

 視線を泳がせて名前を呟いていたひそかさんは、ちょっと待っててくださいと立ち上がった。


 事務所の奥で何やら探し始めたひそかさんは、やがて、数冊のアルバムらしきものを抱えて戻ってきた。



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