第5話
店を出て駅を越え、大通りを進んでいくと、山が見えてきた。
案外山が迫っているのがわかる。平野の端っこにある町。そんな印象を抱く。
吉祥庵があった場所という町名は、すぐに見つかった。
町名は鶴田町。市内の中心部からちょっと離れた場所で、スマホの地図によると、金華山という名の山の麓になっている。
タクシーやバスを使うほどの距離でもなかったので、ひまりは喫茶ルナから歩いて目的地に向かうことにした。
閑散とした地方都市の中心部を、スマホの地図をチラ見しながら進む。
五分も歩くと、なんだかわけがわからなくなってきた。
ずっと前、地図が読めない女とかいう題名の本が流行ったのを覚えているが、まさに自分がそうかもしれないと思う。二次元と三次元を組み合わせるのが、どうしてもうまくいかないのだ。本では、読めない女がどうなったのか忘れてしまったけれど、今この場合、ひまりは道に迷ってしまった。
「困ったなあ。今はない蕎麦屋の名前を人に言ってもわかんないだろうしなあ」
思わず声に出して、ひまりは大きくため息をついた。朝はおだやかだった日の光が、きつくなっている。
たしか、去年、日本全国で、最も気温が上がった町は岐阜県にあったんじゃ。
ぞっとした。このままあてもなく歩いて、熱中症にでもなったら大変だ。まだ六月になったばかりだが、最近の日本は急に真夏がやってくる。
とりあえず日陰に沿って歩こう。そう決めて、建物の軒下を目指したとき、ミャアとか細い声がした。
振り向いて声のした方へ目をやると、ぷーと膨れたような体つきのトラ猫が、道路に植えられた銀杏の木の下にいる。なんだか不審そうな目つきだ。
「なあに?」
近寄って、ひまりは片手を差し出した。赤茶色の毛並みは、あまりきれいじゃないけれど、それに、かなりデブ猫だけれど、コロンを彷彿させる何かを感じる。
ウウー!
デブ猫は唸り声を上げた。
「やだ、怒ってるの?」
それでも指先を顔の近くへ持っていくと、デブ猫は鼻先をひまりの指に押し付けてきた。
赤い首輪をしている。首輪には鈴と名札が付いていた。
「あんた、ノリスケっていうのね」
変な名前ねえと付け足してから、ひまりは歩き出した。もっと遊んでやりたいけれど、猫に構っている暇はない。
いくつも道を曲がっていくと、こんもりとした木々が目に入ってきた。どうやら、町のはずれに来たようだ。住宅街を貫いているいる道のどんづまりに、山が迫っている。
「これが金華山ですかね」
呟きながら足を進めた。家は徐々に少なくなり、はずれっぽい風情がただよう。
何の木かわからないが、大ぶりの枝が長く道にはみ出したところまで来て、ひまりは傍らの電信柱を見た。貼られたプレートに住所と番地がある。鶴田町八番地九。ここだ。電信柱は、スマホの地図なんかよりも、ずっと役に立つ。
だが、住所の示す場所を見つめて、ひまりは途方に暮れた。
草ぼうぼう。セイタカアワダチソウだか、ススキの親戚だかわからないけれど、どこでも見かける雑草が、わさっと生えている。それが山の影に覆われて、なんだか不気味な雰囲気。
どれぐらいの広さだろう。百坪はあるんじゃないだろうか。
まるで草の森。草で森なんておかしな言い方だとは思うけれど、そう思えてしまうほど、草の勢いが強い。
忘れられたような場所だった。右隣の建物はシャッターが下りた三階建ての倉庫。
左隣は人の気配がしない鉄工所。
これじゃあ、どうやって、吉祥庵を調べればいいのか。
考えが甘かったなあと思う。
田舎町のことだから、隣近所の人は皆親切で、古い住人もすぐに見つかるだろうと思っていた。それが、どうだ。味も素っ気もない町が広がっているだけで、とっかかりなど見つけられそうにない。
空き地を呆然と眺めたあと、ひまりは気を取り直してスマホを構えた。これが現実なんだから、とにかく写真に収めるしかない。
スマホのファインダーを覗き込んだとき、草の間にある石の塊のようなものに気づいた。目を凝らしてみた。
井戸?
時代劇やなんかで出てくる、井戸の形に似ている。
お蕎麦屋のあった場所だから、井戸があってもおかしくない。だって、お蕎麦って、お水が大事じゃない?
近づいてみた。どうせ写真を撮るなら、草ばかりより井戸のほうがいい。
草の中へ足を踏み入れたとき、チリリンとベルの音がして、ひまりの横を、太めのおばさんが乗った自転車が通り過ぎた。
と、その自転車が、引き返してくる。
カシャッとシャッターを押したとき、自転車にまたがったおばさんが、声を上げた。
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