阿良々木ひまりは探偵をやってみました

@popurinn

第1話

 ギーコ、ギーコ。

 壁に貼られたトタンが剥がれ、風に揺れている。

 

 建物は古びていた。

 重たげな屋根瓦の二階建て木造家屋。

 建物の右側は毒々しいピンク色のビルだった。看板にはソープランドとある。

左側も同じようなビルだ。ただし、こちらはラブホテル。休憩二時間四千円と看板に文字が踊っている。


 レンガ積みされた妙に立派な門柱を、阿良々木ひまりは恨めしく見つめた。「竜文旅館」名前も古めかしい。

 二つの非日常ビルに挟まれた竜文旅館は、地上げ屋に売るのを拒んで、そのまま忘れられたような風情だった。せめてもの救いは広い庭かもしれない。こんもりとした生垣と大きな木が何本かある。

 

 ここはJRの岐阜駅の裏側。

 多分、裏側なんだろうと思う。反対の出口のほうが新しいビルが目立ったから。ここまでの道には昭和っぽい非日常系のビルが立ち並んでいた。その脇を抜けてやって来たのだが。

 ネット検索でこの宿を見つけたときの、紹介文が蘇る。

 

~昭和の趣きを残した老舗旅館。建物は古いものの、ゆったりとした静かな時間をお過ごしいただけます~

 

 ため息が出た。紹介文を信じてこの宿を予約したのではなかった。そして、必要以上の期待も寄せていなかったし、むろん、夢を描いたわけでもない。

 一泊素泊まり三千円。駅から徒歩五分。ただ、この条件に惹かれただけだ。

 朝八時とはいえ、予約は取れているのだから、門柱をくぐっても何の問題はない。チェックインの時間には早すぎるだろうけれど、この二泊三日分の着替えが入ったスーツケースは預かってくれるだろう。

 だが、どうしても、ひまりはあと一歩を踏み出せなかった。この外見から察するに、部屋の畳なんか、じゅくっと湿っているかもしれない。外壁のトタンの剥がれ具合からして、想像するに余りある。ネットでは、宿の写真は掲載されていなかった。

 

 写真が掲載されていない宿に予約を入れた自分の浅はかさが、悔やまれた。少しでも経費を浮かせようとした自分を呪った。浮いた経費で、何かおいしいものでも食べようと目論んでいた自分に、激しく後悔する。

 と、そのとき、どこからか音楽が流れてきた。ボサノバというのかもしれない。軽快で、ほんのり悲しげで。アコースティックギターの柔らかな音色だ。思わず足が向く。

 

 庭を奥へ進んで行くと、立派な枝ぶりの木が二本あった。桜のようだ。すっかり葉桜となっている。

 と、木と木の間に、網が見えた。

 ハンモック?

 男が寝ていた。朝日を浴びて、気持ちよさそうに。お腹の上には、読みかけらしき文庫本が伏せられている。

 木漏れ日が、シャワーみたいに降り注いでいた。頭上の葉が揺れるたびに、木漏れ日はキラキラと輝く。文庫本の上で、男のジーンズの上で、青いチェックのシャツの上で。

 至福の場所。そう思った。


「わっ」

 ハンモックに寝ていた男が叫び、体を起こした。その拍子に、男の細くて長い手足が動いて、ハンモックがぐらりと揺れ、あっと思った瞬間、地面に落ちてしまった。

「すみません」

 なぜ自分が謝らなければわからないが、つい謝罪が口をついて出た。

「ひどいなあ。突然現れるなんて」

「すみません」

 ふたたび謝ってしまう。でも、ここは旅館のはずだ。客がやって来るのは当たり前じゃないか。

 不満が顔に出たのだろう。相手はじっとひまりを見つめている。これからひまりが口にする言葉を、余裕で待っているような目つきだ。


――言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。

 前の職場の店長に、いつも言われていたセリフ。そのたび、何も言い返せなかった。胸の中には、ラインにしたら文字だらけの画面になってしまうほど、言いたいことがあったというのに。

 やっぱり今朝も、ひまりは何も言い返せずに、呆然と立ちすくんだ。

「なんか、用ですかね」

 男はジーンズに付いた葉っぱを、パンパンと音を立てて払った。短い頭髪、髪全体と不釣合いな長い前髪。その前髪の向こうから、大きくて丸い目が覗く。

 年齢はおそらくひまりよりも年上だろう。といっても、おそらく、三十前だ。


「――あの、ここに、予約を」

「へ? ああ、お客さん」

 スーツケースを見ればわかるでしょ。そう言いたいのをぐっとこらえて返事を待っていると、男は、ハンモックの網に引っかかっていた丸い眼鏡をかけた。

「もしかして、今日から宿泊のなんとかひまりさん?」

「阿良々木です」

 覚えにくい苗字だからなあと失礼なことを呟きながら、男は歩き出し、

「宿帳に記入していただけますか」

と、のたまわった。

 ひまりは立ちすくんで、宿に向かう男の痩せた背中を見つめた。この男は、宿の従業員のくせに、朝からハンモックで寝ていたというのか!

「部屋は二階でいいですかねえ」

 続けて男が言う。

「いちばんいい部屋ですよ。虫も出ないし、雨漏りもしない」

 ざわっとひまりの背中に悪寒が走った。やはり、予想どおりの宿だ。駄目。耐えられない。即座に踵を返す。


「あれ、ちょっと、お客さん」

 ひまりは振り返らなかった。庭の石に躓きながら、出口へ向かう。

 気がついたときは、駅から歩いてきた道に戻っていた。

 


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