三 たくさんの世界
乾いた風が強く吹いた。夏の湿り気を帯びた空気が鳴りを潜め、肌をなでる空気を心地よく感じる頃。
「【アルファズ】ってもう買った?」
サティが言った。
「買ってない」
セヴラはポケットから出した飴玉の小袋を開けながら言った。
「いる?」
「いらない」
「そう」
口に入れた飴玉が歯に当たってコロコロと鳴った。
【アルファズ】とは
「【バー】も買わなかったよね?」
「うん」
サティは大げさに溜息を吐いた。
「セヴラのそういう態度、感じ悪いよ」
セブラは愕然とした表情を浮かべ、サティを見た。
「えっ……どういう事?」
セヴラの声が震える。
「自分に自信があるのかもしれないけど、みんあなが自分を変えたいって頑張っている気持ちを、冷めた目で見てるみたいな態度で感じ悪い」
「な、何でそう思うの……」
「そういう態度が批判してるみたいに感じるの」
「え……な、んで……よ」
セヴラは思わず「よく分かんない」という言葉を飲み込んだ。
「セヴラはコフィのことだって、差別して見てるんでしょっ」
何でここでコフィの話が出てくるんだ、とセヴラは思ったが黙っていた。
「本当にそういうのどうかと思うよ。私自身、普通じゃない、少数派になる事が多いから、そういう人達を否定したくないって思ってる」
セブラは思わず眉を顰めた。そのことに気づいたサティが、かっとして顔色を変えた。
「本当に他人の気持ちが解らないんだねっ」
「……うん、解らない」
感情もなく呟くようにそう言ったセヴラに、サティはまた大げさな溜息を吐いた。
「だからさ、そういう……」
セヴラは口の中で小さくなっていく飴玉の歯触りに集中し、サティの言葉を聞き流すよう努めた。
サティと別れ、セヴラの心はこれでもかというほどどん底まで沈んでいた。海底にお尻を付けて沈んだままでは家には帰れないと思い、セヴラはお気に入りのパン屋に行き、パンを眺めた。棚に並んだ売れ残りの数少ないパン達。彼らは自分と同じだと思った。普通の皆に好かれるパン達は買われて行ってしまい、普通じゃない売れ残りのパン達がここにいる。
「でも、まだ買われていく可能性があるんだから、全く同じってわけじゃないよね」
思わず零れた言葉にはっとして、手で口を抑える。
「どれか買うの?」
背後から声がして、振り向くとイオリがいた。
「どれか買いたいと思っているけど……」
「ごはん?」
「……にしようかなぁ」
「じゃあ、上にあるカフェで一緒に食べようよ。どれにする?」
いつも通りの態度でいるイオリを見て、真っ暗な海底にいるセブラの心に明かりが届いた気がした。二人はぺストリーといくつかの総菜パンを選んだ。
「私ってさ、自分に自信がありそうに見えるの?」
「うん、見えるね」
「私って、周りの人を馬鹿にしているように見えるの?」
「馬鹿にしているっていうか、興味が無いように見えるね」
「そうなんだ」
「う~ん。ちょっと壁があるように感じる人がいるんだよね、セブラに対して。でもその人たちは、セブラが自分達にそう感じるよう仕向けているって思っちゃってるんだよね。感じ悪~いってさ」
「しょうがないじゃん、何言ってんだか分かんないんだもん。興味の無い高度な話をされても、理解なんてできないよ」
「その人達にとって、その話題は高度な話じゃなくて、逆に誰でも気楽に話せるフランクな話題なんだよ」
「んなわけあるかっ。今の流行りだとかファッションだとか、今を時めく有名人だとか全然分からん!もっと昔の文学だとかロングセラーな本とか古語とかの方がよっぽどフランクだわ!」
「そういう感覚が面白くないんだろうね」
セヴラの顔の穴という穴が大きく広がった。
「ひどい顔してるよ」
イオリの顔にギュッと力が入る。困ったような眉と笑いをこらえる口が微かに震える。
「ひどい顔をしてるの」
「早く仕舞って。恥ずかしいから」
セヴラはパンに齧り付いた。甘いクリームに癒され、海底に密接していたお尻が少しだけ浮く。
「何で放っておいてくれないの?何でわざわざ批判するの?何で自分が正しいって言って私を傷つけるの?」
「向こうもセヴラに同じことを感じてるよ」
「何で、私何も言ってない!」
「その態度が気に入らないんだってば」
そう言ってイオリが笑った。
「分かったよ、私は差別主義者ですよ、もう放っておいてよ」
「そういう態度だから放っておいてもらえないんだよ」
イオリは心底おかしそうに笑う。
「知ってる?僕だって、そういうセヴラと同じような評価を受けていることがあるんだよ」
嚙り付こうとした口を開けたまま、セヴラはぽかんとした顔でイオリを見た。
「イオリは違うでしょ」
「いいかい、正義なんて見る立場によって違うんだよ。マジョリティっていう立場だって、どこでどのように評価するかで全然違うんだから」
「そういう統計マジックは、知識として知ってるよ」
「そうじゃない。一番怖いのは、自分の傷ついた経験を、他の誰かの「自分が傷ついた経験」と重ねて同一視して、自分を弱い者を守る正義の味方だと信じて他の誰かに強いることだよ」
「私もあなたも誰かに強いる事なんてしてないでしょう?」
「そうだと思うよ。でもね、そういう人達の中には、自分達の味方じゃなければ全員敵だと見做す人もいるんだよ」
「そんな……、それじゃあ逃げ場なんてないじゃない」
「そういう事」
イオリはそう言ってペストリーを齧った。シナモンとコーヒーの甘い香りが微かに香る。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「いいかい、本来は自分が大事にしている居場所で、自分の考えや生き方が許容されているって感じられれば、それでオッケーなんだよ。だから必要なのは親しい人からの理解」
「私には、イオリがいるからオッケーってこと?」
「そう思えたらいいんじゃない?」
そう思えるかしら?とセヴラは考えた。確かにサティは私の本当にくつろげる友人ではない。でも、そうだとしてもあんな風に私を傷つけて良いわけではないとも思う。じゃあ、理解してもらえるまで話し合う?そんな言葉が通じる相手ではないという確信のようなものを感じた気がした。
「そう、ね。今はイオリがいいるから良いやって、思うことにしておくわ」
「そう、今はそれで良いんじゃない?」
イオリがフフッと笑った。その声に反応して、セヴラは海底でうずくまっていた自分の心が上を見上げたのを感じ、ホッとして目の前のパンを頬張った。
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