辺鄙な土地(OUTSIDE WORLD)
孔田多紀
本文
――She can't hear what's going on In the outside world(XTC「OUTSIDE WORLD」)
1
高校生だった当時、わたしはまだ鷹番を「たかつがい」と呼ぶのだと思っていた。
その日、わたしは学校からの帰り道を歩いていた。
鞄には、頼まれて図書館から借りた大きな本が二冊も入っているので、重たいことこの上ない。
一冊は小説で、トレーシングペーパーのカバーにうっすらと下の地が透けている。女性の顔の上に「L'offrande au néant」という文字が浮かび、金で箔押しされた文字が夕暮の日射しを浴びてきらきらと光を返す。
もう一冊は詩集で、岩肌のような箱にオレンジ色の表紙の固い一冊が納まっている。
この二冊の内容はどういうものか? それぞれの帯に書いてある言葉を、ここに引用してみよう。
〈――二十世紀文学の一大金字塔(……)一八四一年、エドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」により幕を上げた近代ミステリーの歴史は、一九六四年、わが国の一冊の書物によって本質的にその終焉を告げた。スタイルを探偵小説に借りて時代に捧げられた一冊の供物。絶対主義から全体主義、二つの世界大戦、アウシュヴィッツ、広島・長崎を経験した激動の二十世紀は、ステファヌ・マラルメの「世界は一冊の書物に到達するために存在する」という悲願を、本書によって実現したのであろうか……。〉
〈――過ぎ行く一筋の風ならで誰が泣くのか、いやはての金剛石と共に独りある、この一刻に?……だが誰が泣くのか、その泣く時にかくもわが身に近く。20世紀の金字塔の画期的訳業!〉
わたしの鞄の中には、どうやら「二十世紀の金字塔」が二つも入っているらしい。出版社がつけるキャッチコピーというのは、どうも大げさでいけない。
「金字塔」という形容は紋切り型だが、要するにピラミッドだ。
――ご覧あれ、これが二十世紀のピラミッド!
褒めているんだかなんだか、よくわからない。まるで、自分を絶大な権力を持つ王の末裔だと思い込んでいる頭のおかしな人物がいて、しかし民主化が進んで国民を何十年も思うように使役することができないから、せめて本の中にでも架空の建造物を創造するのだ、と言い張っているようではないか。そう思うと、いじらしい感じさえする。たぶん、二十二世紀や二十三世紀になっても、こうして無数の「金字塔」が建てられ続けるのだろう。
するとわたしの頭に、不思議なイメージが浮かんだ。
サイバー・シティの夜空にビカビカと金色の光を放って、巨大な塔がそびえ立っている。
建物の周辺には、建設作業員の格好をして日に焼けた若い王族たちが互いに不機嫌そうな顔で何やらせっせと手を動かしていて、そのうちの一人がぶつぶつとフランス語を呟いている。
――Quel être a quatre pattes le matin, deux le midi et trois le soir ?
そういえばこのあいだ、スフィンクスとオイディプスは実は兄妹だという話を何かで読んだ。
2
母と話すのはいつも少し苦手だった。
父でさえ、時に扱いかねているような気がする。
母と正面から向かい合う。すると、二人の視線がかたちづくる一本の線から横へ半歩ずれたところに本当の母がいて、見えないその部分からじっと観察されているような、そんな印象を受ける。
両親は家の中で時折、巷で起こる事件について話していた。未解決の謎を父が持ち帰ってきて、苦々しげに語る。そんな時、母は鋭い推理を見せた。
いつだったか、連続自殺幇助事件というものがあった。一人で死ぬ勇気がない自殺志願者たちに近づき、その背中を押してあげるという悪趣味な行動を、十年以上に渡って大規模にくりかえしていた人物がいたのだ。その解決の糸口を作ったのが、母だった。
「あの時は」と母がいった。「アリバイトリックが複雑で難しかったな。おかげで、東北の路線には詳しくなったけど」
「僕なんか」と父がいった。「ぜんぜん土地勘のないところを何日も駆けずり回らされて大変だった。私立探偵だとかいう変な中年男と中国人の二人組には追いかけられるし。それに、アリバイ物は苦手なんだ」
そもそも、二人が知りあったきっかけは推理小説だという。詳しく聞こうとすると、ミャンマーにシャーロック・ホームズの翻案物があるとかなんとか、そんなことをいって言葉をにごすから、よくわからない。まあ、両親の馴れ初めなど、こっちだって話されても仕方がない。
最近の父は、小説を読むそぶりなどまったくない。「忙しさには勝てんわ」としょっちゅうこぼしている。蔵書も仕事関係のものを除けばいたって少ない。
反対に、母の書斎は広い。自分の母親は書斎を持っているというと、驚かれることが多い。わたしは中学生になるまで、世間ではそれが普通なのだと思っていた。
級友が驚いたということを話すと、
「その年頃で、もうそんな偏見を持っているのか」
と母はいった。
「人が自分のうちをどう使おうと、勝手だろう。まあ、トモカも気にすることはないさ。どうせ」と嘲笑うような口元になって、「その中学生諸君じゃ、中井英夫と中井久夫の区別もつかないんだろうからね」。
そんな時、母の口調はどことなく、別人のようになる。
3
「ただいま」
といいながら玄関を開けても、返事がないのはいつものことだ。
「お母さん、いるの?」
わたしが書斎のドアを開くと、
「ああ」
振り向きもせず机の前で何やらカタカタとやっていた。
このところ、珍しく書き物に没頭している様子だった。蔵書は多くても、それまで、自分から何かを集中して書くということはなかった。
若い頃は出版社にいたらしい。出会ってすぐ父と結婚しても勤めていたけれど、出産を機にリタイアしてしまった。以来、熱心に家庭を守るというふうでもなく、たまに短期間働きに出ては、すぐに辞めたりぶらぶらしたりしている。
「どうしてしょっちゅうあんな馬鹿ばっかりに出会うんだろうなあ」頭のうしろに両手を組んで母はいった。「よっぽど運が悪いのかな」。
「君が鋭すぎるんだ」と父はいった。それからわたしに向かって、気まぐれな母を擁護するように、「お母さんはなあ、本気を出したらすごいんだから」。
でも「本気」とは何だろう。両親のそういう姿を見せるのは、娘の教育上どうなのかと思うが、父がたまに自分が抱えた事件の謎の解明を母に求めたのは、うちのなかで燻ぶっていた母の気をまぎらせ、その才を活かしたかったということもあるのかもしれない。
わたしは、母に頼まれて借りた二冊の本をさしだした。
「はい、これ。借りてきたよ」
母はそこでようやく顔をあげて、
「ありがとう。重かったろうね」
ふだんは近所の図書館を利用するのだが、どちらも所蔵がなかったらしい。
「あの高校の図書館は優秀だな。入学させてよかった」
まるで自分の手柄のようにいう。
「何に使うの、その本」
わたしは母に訊ねた。
すると奇妙なことに、母は何かいいにくそうに口籠った。信じられないことだが、どうも恥ずかしがっているようなのだ。
彼女のそんな表情は、今まで見たことがなかった。
「小説だよ」と少し低い声で母はいった。「ぶらぶらしているのもだんだん飽きてきたからね。むかし自分が巻き込まれた事件を基に、推理小説を書こうとしているのさ」
「黙れ」といつもの声で母はいった。「そんなたいそうなものじゃない。人が何をしようが、どうだっていいだろう」
「ずいぶん自意識過剰じゃないか。たかが推理小説ごときにね。気づいているか? ここ最近の君の様子は変だ。トモカとイソベは君のことを心配しているんだよ」
まただ、とわたしは思う。幼い頃から、わたしはこういう瞬間が苦手だった。まるで、母の中に女性と男性の二人の人間がいるように、互い違いに会話をしている。その二人の会話を前にして、わたしは置き去りになり、……。
「――おいおい、大丈夫か?」
そこでハッと意識を戻された。
「いま、書かれつつあるのはね、推理小説なんだ。まあ、メインの叙述トリックはちょっと古くさいけれど、全体としてはそれを補って余りあるから、なかなかいい線までいっているんじゃないかな」
他人事のような口ぶりだった。
「二〇二〇年にもなって男女逆転トリックというのは、やはり時代遅れだと思うね。どうせなら、女男逆転トリックとか、女だと思っていたら実は女だったとか、もっと難しい可能性に挑戦するべきなんじゃないか」
「いったい何の話だ」
「可能性は八つある。すなわち、
(一)読者は語り手を男だと思っていた。そして語り手は男だった。だから読者は語り手を愛した。
(二)読者は語り手を女だと思っていた。そして語り手は女だった。だから読者は語り手を愛した。
(三)読者は語り手を男だと思っていた。しかし語り手は女だった。だから読者は語り手を愛した。
(四)読者は語り手を女だと思っていた。しかし語り手は男だった。だから読者は語り手を愛した。
(五)読者は語り手を男だと思っていた。そして語り手は男だった。だから読者は語り手を愛せなかった。
(六)読者は語り手を女だと思っていた。そして語り手は女だった。だから読者は語り手を愛せなかった。
(七)読者は語り手を男だと思っていた。しかし語り手は女だった。だから読者は語り手を愛せなかった。
(八)読者は語り手を女だと思っていた。しかし語り手は男だった。だから読者は語り手を愛せなかった。
この八つの組み合わせのなかから、もっとも好きなものを選べばいい。もっとも面白いと思うものをね」
「ふざけるな。今更変えられるわけがないじゃないか」
「早とちりするなよ。ぼくは男だとか女だとかいう、単純極まりない区別には興味がない。そんなことで驚かせようという発想自体が、もうどうしようもなく浅はかじゃないか。ぼくはただ、君が語りはじめたことに関心をひかれているだけでね。といっても、君は自分が何を語ろうとしているのか、まったくわかっていないだろうけれど」
何の話をしているのか、わたしにもまったくわからなかった。
「そうだ。ここにいいモニターがいるじゃないか。細かい部分を除けば、おおよそは完成しているんだから、ざっと読んでもらったらいいんじゃないかな」
奇妙な様子の母に促されて、わたしは机の上のディスプレイを覗きこんだ。
〈ハサミ男の三番目の犠牲者は、目黒区鷹番に住んでいた。
ところで、わたしはこれまで鷹番という町名を見たことも聞いたこともなかったので、いったい目黒区のどのあたりにあるのか、最寄りの駅は何線のどこなのか、まったく見当がつかなかった。
第一、この町名は「たかつがい」と読むとばかり思い込んでいた。もちろん「蝶番」からの連想で、二羽の鷹が仲むつまじく青空を飛んでいく、江戸時代の屏風絵のような光景が頭に浮かんだ。……〉
わたしは驚いた。
「鷹番は『たかつがい』と読むんじゃなかったの?」
すると母はまた例の口調で、
「当たり前だろう。君はいったい何年、東京に住んでるんだ? ……まったく、そそっかしいのはこの母にしてこの娘ありだなあ」
と、皮肉げに笑った。そして、
「そろそろぼくは失礼するよ。その方がいいだろうからね。ぼくはもう、若い女の子が悲しい顔をするのはこりごりなんだ」
……その時一瞬、わたしは見たような気がした。
痩身で、純白の短髪に丸い黒眼鏡をかけ、白衣を着た一人の男が立ち去る姿を。
それから、わたしは持っていた本を放り出し、プリントアウトされた原稿を読み始めた。
とても面白そうな内容だった。
「これ、題名はなんていうの?」
と、わたしは母に訊ねた。
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