第2話 一ノ谷の戦い 💀1

 寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いおよび篠原の戦いで源義仲に敗れた平家は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。義仲は後白河法皇の命で平家追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう(法住寺合戦)。


 情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平家へ和平を申し出るが、平家はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼、義経率いる鎌倉軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。


 この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平家は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平家は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平家は同年2月には京奪回の軍を起こすことを予定していた。


 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平家が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平家の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。


 寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉軍は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平家は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。


 同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。


 2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平家一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平家一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。


 迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越ひよどりごえで安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。


『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきた。猟師が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介した。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。


 難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平家は山側を全く警戒していなかった。


 2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平家は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。


 午前6時、知盛、重衡ら平家軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平家は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平家軍も雨のように矢を射かけて応じ鎌倉軍をひるませる。平家軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。


 義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。


 生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平家は激しく抵抗して、鎌倉軍は容易には突破できなかった。


 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。


『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町(218メートル)ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。


 崖を駆け下った義経らは平家の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平家の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。


 鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平家は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。


 九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。


 一ノ谷の戦いの様子が目まぐるしく展開する中、アレックスは源氏方に加わり、平家の邪武という魔法使いと対峙することになった。戦場は煙と鼓動の中に埋もれ、魔法と剣が交錯する。


 平家の邪武:「アレックス、源氏に身を投じる愚か者よ。我が魔法の力を前にして、汝の命を捧げよう!」


 アレックス:「邪武、お前の魔法に負けるつもりはない。私はこの源氏のために戦う」


 平家の邪武は魔法の杖を高く掲げ、暗黒の霧が戦場を包み込む。その瞬間、アレックスは時空シールを手にし、力を集める。


 アレックス:「時空よ、我に力を貸せ!」


 時空が歪み、アレックスの身に未知の力が宿る。彼の姿が輝き、戦場の注目を集める。


 アレックス:「この力で、邪武と戦おう!」


 邪武の魔法とアレックスの力が激しくぶつかり合う。火と光と闇が交錯し、空中に爆発的なエネルギーが溢れる。


 アレックスが放火をする度に、死んだ源氏の兵が蘇った。


 アレックス:「これで終わりだ!」


 剣を掲げ、アレックスは邪武に向かって突進する。その一撃は魔法の障壁を突き破り、邪武を葬る。


 邪武:「くっ…この力…どうして!」


 アレックス:「平家の支配は終わりだ。源氏の勝利を告げよう!」


 アレックスの勝利の叫びが戦場に響き渡り、源氏の兵士たちの士気が高まる。


 一ノ谷の戦いは激しさを増し、アレックスの勇気と力が源氏の運命を変えることとなった。



 

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