第四話【記憶を消すという名の功罪(2)】
記憶技工士と呼ばれる資格が誕生したのは、記憶消去方の研究が始まった十年前のことだった。
記憶消去方の実用化に先立って新設された資格であったが、心理カウンセリングを行うための専門知識も同時に身につくので、当時から比較的人気があった。
浅野の恋人だった
そんな彼女に唯一あった短所が、他人とコミュニケーションを取るのが苦手だったこと。友人が、あまり多くなかったのだという。
浅野と彼女が出会ったのは、デリバリーピザ店でアルバイトをしているときだった。義兄の店が人手不足になったことで短期のヘルパーで入っていた雪菜さんと、浅野が出会ったのだ。
大人しいけれど、実直な性格をしている雪奈さんに、浅野はすぐに惹かれた。
だがそこは、恋愛――どころか人付き合いが苦手な雪奈さんのこと。二人の仲はなかなか進展しなかった。
二人の間にあった壁を少しずつ壊していったのは、浅野の熱心なアプローチだった。
浅野の告白に彼女が応じて、二人の交際がスタートする。
しかし、二人の幸せな時間は、そんなに長くは続かなかった。
控え目な性格で優しくて、自分の容姿の良さを鼻にかけない。多くの男たちにとって阿相雪案はステレオタイプないい女だったが、その抜け目のなさが逆に女たちの反感を呼んだ。
ただそこにいるだけで、女たちから妬み嫉みを集めた。それは、二人の仲が順調に進展していくほど、拍車がかかっていった。いつの日か、雪菜さんは大学内で陰湿ないじめを受け始めた。
陰口を叩かれる。ありもしない噂が囁かれる。彼女に対する悪口が、学校裏サイトやグループチャットといったSNSの中にまで広がっていった。
「妬んでいるだけだよ。直接手出ししてくるわけでもないんだし、まずは大学に相談してみよう」
彼女を慰めつつ、浅野は大学に相談した。
しかし、大学側はなかなか本気で取り合ってくれず、目に見えない嫌がらせは日々深刻になっていくばかりだった。
もっともそれだけであれば、やがて時間が解決してくれたのかもしれない。
二人にとって不運だったのは、いじめを行っていたグループの中に、浅野の高校時代の恋人が含まれていたことか。雪菜さんと交際しているのが浅野であるのに気づき、その女の怒りが頂点に達したのだ。
かつて自分を振った男が雪奈さんと交際していることが、雪奈さんが自分以上に男たちにちやほやされているのが、とにかくその女は気に入らなかった。
女たちの間には、目に見えない階級があるもの。目立つ人間がごく自然に発言力を持つ。
――謙遜して見せているけど、絶対に自分のほうが可愛いと思ってる!
――雪奈は可愛いから、私たちとつるまなくてもおじさんに色目使っていればいくらでも遊べる。
陰口がエスカレートしていく。雪奈ウザいという空気が、大学の中で女子を中心にして広まっていく。それまで雪奈さんと普通に接していた人たちまでが、彼女のことを避け始めた。
カーストトップの人間が作った空気には誰も逆らえないのだ。
それでも女の怒りは収まらない。ついに実力行使に出た。
浅野が普段利用している沿線を調べ、彼が駅を出てきたところに偶然の再会を装って話しかけたのだ。「恋愛のことで、今ちょっと悩んでいるんだよね」と嘘の話をでっち上げ、近くのレストランに浅野を誘ったのだ。
女の傲慢さに嫌気がさして、学生時代に別れ話を切り出した浅野だったが、元彼女の相談事を無下にするほど人でなしでもない。
さして疑うこともなく、女の誘いに乗ってしまう。
そうして、ついに最悪の事態が起きた。
その様子を隠し撮りしていた女の友人が、レストランで談笑している二人の写真をSNSにアップロードした。その写真を、雪奈さんが見つけてしまったのだ。
浅野が浮気をしている、という虚偽の情報が、そのとき同時にSNSで発信されていた。
当初、その噂を信じていなかった雪菜さんだが、写真を見たことで心がゆらいでしまう。自分をいじめていた相手が、唯一の心のより所であった彼をも奪ってしまった。そう感じてしまったのだ。
最悪の結末に心を痛めた雪奈さんは、浅野との繋がりをすべて絶ち、部屋に閉じこもるようになった。
「それからまもなくして、雪奈は自宅アパートの中で手首を切って自殺した。元カノだったから。困っているように見えたから。まさか、雪奈をいじめていた張本人だとは思っていなかったから。言い訳ならいくらでもできる。だが結果として、俺が雪奈を追い詰めてしまったことに変わりはない」
この事件はテレビでも繰り返し報道され、おおいに話題になった。
大学側に警察の立ち入り調査が入って、イジメがあったことそのものは、大学側も認めた。
「だが、イジメがあった事実は認めた一方で、自殺といじめの関連性については否定した。自殺につながるほどの陰湿ないじめはなかった。大学側の対応には問題がなかった、と最終的にそう結論が出た」
それは俺も知っていた。大学側の対応に問題があったんじゃないかと、各所で非難の声が上がっていたことも。
「まさに死人に口なしだよ。あれだけ雪奈に対する罵詈雑言が描き込まれていた裏サイトは、いつの間にか全部削除されてしまっていた。誰かの削除依頼が通った結果なのか、学校側が証拠をもみ消そうとしたのかは定かじゃないけどな。いじめがあったことを匂わせる噂話はいくつかでてきたがそれだけだ。学校側からは、当たり障りのない調査結果しか結局出てこなかった。そんなはずないだろう? SNSのことは学校側も把握していたんだ。知らぬ存ぜぬで通せる話じゃない。しかし、確たる証拠がなければ罪に問えない」
大学は義務教育でなければ慈善事業でもない。自らの不利益につながる情報を、積極的に出すはずがない。たとえ、情報を掴んでいたとしてもだ。皮肉な話だが、逃げの一手に終始するのはよくあることだ。
「ついでに言うと、あの女の父親は、記憶消去方の研究の、出資者になってくれている企業の重役だった。我妻教授が、事件を隠蔽したがったのは頷ける。あのタイミングで真相が公になって、支援を打ち切られたら研究が頓挫してしまうからね」
あのとき、大学側が組織していたハラスメント調査委員会の委員長が我妻教授だった。隠蔽がもし本当にあったなら、その全責任は教授にあるといって差し支えない。
「雪奈の気持ちがお前らにわかるか? わかるはずないよな? 身近にいた俺でさえ、完全に理解できていなかったのだし」
浅野はおおいに悔やんだ。
もっと、雪奈さんの側にいてやるべきだったと。もっと悩みを聞いてやれば良かったと。彼女が不安を抱えていたときに、昔の女の悩みを聞いている場合じゃなかっただろうと。
「これは、弔い合戦なんだよ」
我妻教授と昔の女。二人への復讐を浅野は誓う。
ところが、今さらのように自責の念にかられたのか、女のほうは勝手に潰れた。自宅に引きこもるようになり、大学を自主退学した。
残ったターゲットは教授のみ。
教授に接近するため。雪菜さんの意思を継ぐため。浅野は記憶技工士になることにした。懸命に勉強を重ねて、無事、教授の右腕たるポジションに収まった。
それから間もなくして、神崎美優の自殺騒動が起こる。被験者に対するメンタルケアが十分ではなかったのでは、と葉子を非難する声が上がると、表向き責任を取るというかたちで葉子は研究室を去った。
「神崎美優に対するメンタルケアに不備があった。彼女の自殺を止められなかった責任のすべては葉子にある。話の筋は一見通っている。しかしどこかきな臭い。あれだけ研究に熱心だった葉子が、なぜあっさり身を引いた? 葉子の名前はネットに一部載った。多少なりとも、研究のイメージダウンにつながっていた。それなのに、教授は葉子が退室した理由についていっさい語ることはなかった。おかしい、と調べた結果、ひとつの真実が浮かび上がってきた」
ここで浅野が一度言葉を切る。
「筧葉子は、記憶消去方の転覆を狙っているのだと。そのためのデータをそろえている最中なのだと」
「そんなものが、本当にあるの?」
柚乃がすう、と息を呑んだ。
「あるんだよ。実際」
浅野の声に呼応して、「これでしょ?」とここまで沈黙していた松橋さんがメモリースティックをチラつかせた。俺が手荷物に忍ばせていた物だ。
「そうだ。その中に、葉子が残したデータがある。記憶消去方の問題点についてまとめたデータが、それに入っているんだよ」
「そっか……! 薫さんにそのデータを持ってこさせるために、私を殺さずにおいたってことなのね」
浅野が頷くことで肯定する。
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