第三話【恋は刹那的な輝きで(1)】
「もしもし」
『仁平薫だな?』
変声機を通して声を変えているのだろう。男か女かわからなかった。声のトーンは、少し高いが。
「ああ、そうだけど」
『手元のパソコンの中にあるデータを、メモリースティックに移してこれから指定する場所にこい』
なぜ、このデータのことを知っている? 俺だって今日知ったばかりなのに。
さりげなく、部屋中に目を配りつつ沈黙していると、声の主がさらに続けた。
『なぜそれを知っている、と考えているな? 残念ながら、お前の行動はすべて筒抜けなんだ。盗聴器を全部除去できたと思っているのだろうが、詰めが甘かったようだね』
「なるほど、盗聴器」
納得した体で頷くが、たぶん盗聴器だけじゃない。パソコンを閲覧しているとき俺はほとんど声を発していない。音声のみで、パソコンの中にデータがあると特定できるのは不自然だ。
間違いなく、どこかに盗撮用のカメラがある。
「データを入手して、どうするつもりだ?」
何のデータとはあえて言わない。これで話が通ずるなら、電話の主は葉子が残したデータの内容に目星が付いていることになる。
「それに、俺には持っていくメリットがない」
『そうだな。お前にはメリットがないだろうな』
お前に〝は〟ときたか。語るに落ちるとはこのことだ。やはりこいつは、葉子がどんなデータを残したのかを知っていて、かつ欲しがっている。そういうことだ。
緊張で、手汗がひどくなってきた。
『だが、持ってこないと後悔することになるぞ?』
「後悔? なんの話だ?」
『善意で持ってきてほしい、と言っているわけじゃない。取り引きをしよう、と言っているんだ』
「取り引きだって? それは、俺の側に得るものがあって初めて成立する言葉だぞ?」
葉子を失ったあの日から、俺は守るべきものを失った。もう何もない抜け殻みたいな人生なんだよ。今さら欲しいものなんてないし、失って困るものだってない。
そう、何も――。
それなのに。何もないはずなのに。頭の中に一人の少女の姿が浮かんできた。
笑うとえくぼができて、屈託のない笑い方で。
なんでだよ。どうして今頃になってお前の顔が浮かんでくるんだよ。
「まさか」
『どうやら目星がついたようだな。ご明察。とある女を預かっている。そいつの命と引き換えにしようってことだ』
柚乃――。
「卑怯者め……」
『狡猾とでも言ってほしいかな。それから、このことを警察に通報したり、データを渡したりしようなどと考えるなよ? お前の動きはすべて把握できている。妙な動きを見せたら、女の命はないと思え。お前に取れる選択肢は、女を生かすかそれとも見殺しにするか。それだけだ』
「自信たっぷりなことで……」
ハッタリではなさそうだ。カメラがあるのはまず確定だしな。さて、どうするか……。
考えを巡らせる。この半年ほどの出来事が、走馬燈のように去来する。
俺にはなんのメリットもない。
俺がこいつの要求を無視しても、死ぬのは若い女が一人だけ。
しかも、俺を騙した性悪な女だ。
身寄りのない、天涯孤独の女。
八十億人に達したと言われる地球の人口が一人減るだけだ。
誰一人として悲しむ身内はいない。
それよりも、このデータを世に出すほうが有益なんだ。
それによって救われる人命は、もっと多いのだから。
トロッコ問題だよ。迷う必要ないじゃないか。
くたばっちまえ、俺の煩悩。
世界と女と、どっちを取るかと問われるならば、
そんなもん、目の前の女一人に決まってるじゃないか。
「場所教えろ」
『は?』
「どこに向かえばいい。場所教えろって言ってるんだ」
『急に素直になったな? 何か悪だくみでも思いついたのか? さきほども警告したが、下手な手を打つんじゃないぞ? 怪しい動きを何か見せたら、女の命はないと思え』
「わかっている」
”くだらない抵抗”など、元よりするつもりはない。
伝えられた場所の名を、口に出して確かめる。そこは、都内にある辺鄙な神社だった。夜の神社とかまたなんともベタな。
もう一度ここに戻ってこられるだろうか。
戻ってくるとしたら、葉子のデータが必要になったときだろうか。
データが入ったメモリースティックと、財布とスマホだけを持って部屋を飛び出した。
――ねえ、かっくん。美優の双子の妹の名前は、柚乃というの。私も、名前だけしか知らないんだけれどもね。
ああ、知っているさ。嫌というほどね。
地下駐車場に行き、自分の車を見て絶望した。
「パンクしてやがる……」
すべてのタイヤが完全にひしゃげていた。
誰かのイタズラか? それとも電話の主の妨害か? 後者だとしたらわけがわからない。来いと行ってみたり妨害してみたり、いったいどうしたいんだ。
動転しながらも財布を持って出た、自分の先見の明を称賛したい。
――両親が亡くなってから、美優は、おそらく柚乃も、とっても苦労してきたの。それはとても辛い記憶であると同時に、二人で
これでは手詰まりだ。
駐車場を出ると、マンションの前の道でタクシーを探す。ちょうど通りがかったタクシーは、しかし定員乗車だった。肝心な場面で使えない。スマホを見ると、時刻は十九時三十分だった。
――だから、安易に消すべきではなかったのかな、とそう思ったの。苦しいけれども、同時に温かい記憶でもあったのだから。どんなに悔やんでも過去は変わらない。どんなに心配しても未来がどうなるわけでもない。大切なのは、今を懸命に生きることなんだという、神様からのメッセージであり戒めなのかもしれないなって、今回そう思ったの。
戒め、か。
葉子が死んだあの日の痛みを抱えて生き続ける今も、ある種の試練なのだろうか。この先大きく羽ばたくための、助走期間とでもいうか。
――そうは言っても、自分の足ではうまく歩けない人だっているよね。過去は、今を縛る鎖になってはならない。時として、清算することも必要なんだと思う。そういった人の一助に、私の研究がなってくれればいい。
本当にそうだな。あとは俺に任せておけ。
お前の思いを無駄になどしない。
――被検者の書類審査をしているとき、美優を選んだのは私だった。そのことを今でも後悔している。
ああ、わかるよその辛さ。お前がどんな悩みを抱えて生きていたのか、気づいてあげられなかったと悔いている今の俺にならな。
そのとき、車のクラクションが闇夜を裂いた。青色のフォルクスワーゲンが俺の前に停車して運転席の窓が開いた。
運転していたのは松橋さんだ。
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