第二話【葉子からの遺書(1)】
かっくんへ。
お誕生日おめでとう。これで君も二十六歳ですね。私は早生まれなので、歳がひとつ離れてしまいましたね。
さて、この文章を君が読んでいるということは、もしかしたら私はもう隣にいないのかもしれないね? そうならないのが理想ですが、そうなってしまったとしても困らないように、今この文章を書いています。
今の日時は、七月七日の十七三十分です。
――俺のところに電話を寄越す三十分前だ。あの日の光景が脳裏を過り、胸が痛んだ。
ひとつ、謝らなければならないことがあります。
我妻研究室から私が離れたとき、理由をいっさい話しませんでした。話せない理由が、あったんです。
それをこれから記します。
――息が詰まる。やっぱり何かあったんだと、今さらのように悟る。
私が研究から外れたのは、記憶消去方にいくつかの脆弱性――というか、問題点が見つかったからなの。それについて、順に説明していくね。
まずひとつ目。
この技術を使うことによって、記憶の書き換えができてしまうの。
他人の記憶をネットワーク上に展開しているとき、抽出した記憶を別の物に置き換えることが可能だった。
誰でもできるわけじゃない。この技術に、深く精通していないと難しいとは思うけれど。
たとえば、記憶の中にある特定の人物の名前を書き換えられる。
山田という名の知人がいたとする。この人物の名を山本に書き換えてしまえる。山田という人物はその人の中でいなかったことになり、記憶のすべが山本という人物との交流に置き換えられる。
この技術が悪用されたら、特定の人物を社会的に抹殺できることになる。たとえば、ある政治家とつながりのある大企業の社員がいたとする。このつながりを、別の誰かのものに書き換えることで、手柄を第三者が横取りしてしまえるの。
これはまずい。
こんなことをされてしまったら、人、あるいは企業間で、信頼関係を築くことに意味がなくなってしまう。絶対に許されないことだよ。
もっとも、これは明白な犯罪行為になるため、法整備が進めば防ぐことは可能だろうけれど。
消した記憶を、どのようにして管理、保管するかの手順については、我妻教授を始めとした研究チームの面々が、慎重に協議しているのだしね。
そんなわけで、本当に問題なのは次のふたつ目かもしれない。
神崎美優さんのことを覚えているのよね? ふたつ目は、彼女の死にまつわることなの。
――柚乃の、双子の姉の話だ。やはり、あのとき何かがあったんだ。
彼女の死は、本当に突然だった。
それは、記憶消去方の実用化まであと一歩、と迫っている最中でのことで、研究所の中はすごく騒ぎになったわ。
警察の現場検証では、これといって不審な点は見つからず、事故か自殺で間違いないだろう、との結論が出された。
私も、それに対して異を唱えるつもりはない。実際、彼女の死に事件性はなさそうだったから。
記憶を消す実験を受けたあとの、美優の経過はきわめて順調だった。脳波、血圧、心電図等々、計測していた範囲でこれといって異常値は出ていなかった。精神的にも安定している様子だったし、表情も、肌の艶も、記憶を消す前よりいいね、とみんなが太鼓判を押していたほどだったのよ。
それなのに、彼女は突然命を絶った。
研究棟の部屋の窓から転落して、打ち所が悪くてそのまま亡くなってしまった。
そのことで、さまざまな憶測が飛び交った。辛い記憶を消したことで安定しているように見えてはいたものの、その実、根本的な改善はなされていなかったのだろうかと。あるいは、ただの事故だったのではないか、等々。
けれど、彼女の死因を特定できる決定的な何かは見つからなかった。
それ以上、突っ込んだ調査がされることもなかった。
自殺者を減らすために始まった研究なのだから、今さら止めたくないとの思いがみんなの中にあったんだろうね。臭い物に蓋をする。誰でも、そうしたくなるものだから。
でもね、私は気づいてしまった。
美優が自殺をする一週間ほど前から、脳波に微細な乱れが時折出ていたことに。
もっとも、この脳波の乱れが、記憶を消したことに由来する、という確実な証拠は得られていなかった。もっとデータが必要だった。
そこで、研究をいったん止めてしっかり検証するべきだと教授に進言したの。
だけど、聞き入れてはもらえなかった。だから私は、研究室を離れることにしたんだよ。真逆の動きをする人が、チームの中にいてはいけない。
ひとつの疑惑から始めた調査だ。やっぱりすごく難航したわ。
でも、先日ようやく見つけたの。
記憶を消したとき、ニューロンのネットワークが一時的に切断される。このとき、脳から異常な波長が出ている被験者の例をいくつか見つけたの。もっとも、波長の乱れはとても小さく、また一定期間で収束していた。
ただ一人、美優を除いて。
彼女だけは、脳波の乱れが収束していかなかった。落ち着いては、また乱れが出て、と似たような動きを繰り返していた。まるで、欠損部分を埋めてくれる何かを求めるみたいに。手を、差し出すみたいに。そして、あの日の自殺に至った。
――まるで、欠損部分を埋めてくれる何かを求めるみたいに。
もしかしたらこれが、記憶の癒着が起こるメカニズムなのかもしれない。
かっくん。ジェンガって知っているよね?
――突飛な話題の転換に、一瞬頭がついていかなくなる。ジェンガとは、微妙なバランスのもと積み上げられた積み木を順番に抜いていって、崩した者が負けになるゲームのことだ。
イメージとしては、あれと同じなんだよ。
美優はね、児童養護施設の出身だったの。母親を不幸な事故で亡くしてしまい、それから施設で暮らしていたんだって。散々苦労してきた人生なのだから、悪い記憶は消すべきなのだと、心の痛みを和らげるべきだと、私はそう信じて疑わなかった。
もちろん、それは間違いではない。それで結果が出ている人だっているのだし。
けれど、完全に正しくもなかった。
辛い記憶も、楽しい記憶も、それらすべてが礎となって、一人の人間を構成しているんだよね。さまざまな記憶が微妙にバランスを取り合うことで、人の心を形成しているんだよ。
腐った蜜柑だからといって、安直に記憶を抜き取ったらダメだったんだよ。
それが、たとえ痛ましい記憶であったとしても、その人にとって重要なパーツだった場合、ジェンガと同じで人の心は不安定になってしまうの。
――この言葉にハッとなった。
美優。沙耶。遊園地の帰り道で自殺した男。全員が記憶消去方を利用している。
やはり、記憶消去方と自殺の間に関連性はあったんだ。とはいえ、完全に不要な記憶を消した人間ばかりではないはず。自殺に至った人間と、そうじゃない人との違いはなんだ?
これが、私が志半ばで研究室から離れた理由です。研究が世に出るのを止めることはできなかったけれど、自殺者が出る前に、なんとかしてこの調査結果を発表しなくちゃならない。
『記憶消去方』と、『美優の死』に関連性があると証明できる論文が、先日完成したの。これがあれば、きっとあの人も納得してくれる。
さて、ここで少し自分の話をします。
この事実に気づかなければ、私が美優にここまで執心することもなかったかもしれないね。
ここまできて回りくどい話をする必要はないので、単刀直入に言うね。
美優は、おそらく私の妹です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます