第三話【違っているのは人か? 記憶か?(2)】

 浅野という男の人となりを、もっと調べる必要がある。

 翌日私が向かったのは、新宿区にある個室のある居酒屋だ。

 日が沈みかけの一八時。明るい雰囲気の店内は、比較的早い時間帯であるにもかかわらずそこそこ混んでいた。

 予約していた名前を告げると、店の最奥右側にある個室に案内される。待ち合わせをしていた人物がすでにそこで待っていた。


「久しぶり。ちょっと早くきすぎちゃった」


 そう言って、熊谷沙耶がちろりと舌を出す。私は彼女に情報提供をお願いしていたのだ。


「こんばんは。……すみません。もしかしてお待たせしてしまいましたか?」


「いやいや、全然」と手を振って見せる沙耶さんの顔色は良い。自殺未遂を起こしたあの日から、一ヶ月と少しの入院期間を経て彼女は退院した。その後の経過はどうやら順調らしい。

 ウーロン杯と焼き鳥と刺身の盛り合わせを注文し、飲み物が揃ったところで乾杯をした。


「それにしても驚いた。まさかあんな嘘をついていたなんてね」


 私は、沙耶さんに自分がついてきた嘘を包み隠さず報告していた。こちらから情報提供をお願いした手前、隠し事をしていたのでは筋が通らない。


「すみません。いろいろと、事情がありまして」

「何度も謝らなくていいよ」と沙耶さんが苦笑する。「あいにく、あいつは叩いて埃が出てくるような男じゃないよ。むしろ、もっと女にずるくなってもいいくらいだ」


 一緒にいた期間こそ短かっかたが、彼の人柄はよくわかっているつもりだ。嘘がつけるタイプじゃないのは疑うべくもない。私と違って。

 そうですね、と同意したら、沙耶さんが今度はにやりと笑った。


「あいつに気があったわけじゃないの?」

「そんなことないですよ。微塵も」


 ふうん、と呟いた沙耶さんはどこか不満げだった。彼女がポケットから煙草を出して火を点ける。なぜかはわからないが、薫さんの周辺は煙草を吸う人が多いな、と思ってからかぶりを振った。

 そう、ないんだ。未練なんか。

 焼き鳥と、刺身の盛り合わせが配膳された。


「柚乃ちゃんは釣りとかする?」

「釣りですか? いえ、したことないですね」

「そっか。まあ、そうだよねえ」


 唐突な話題の転換に一瞬聞き違いかと耳を疑う。刺身を前にしているからこの話題なのか。女の子で釣りをする人はあまり多くないと思うんだ。


「東京の海で魚が採れるイメージはあんまないかもしれないけれど、東京湾でもね、アジとかクロダイは結構釣れるんだってさ」


 沙耶さんが、鯛の刺身を指差した。つまり、その隣にある光ものの刺身がアジなのだろう。


「お詳しいんですね。沙耶さんは趣味で釣りとかやられるんです?」

「いや? 私はやらないんだけれどさ、つい先日別れた彼がね、釣りが趣味だったんだよ。それで、時々そんな話をされていたんだ」

「ああ……」


 これには思わず口ごもった。自殺未遂をした直後に失恋の話をあえてすることで、健在ぶりをアピールしているのだろうか。事実、彼女の表情は存外に明るい。


「ああ、気遣わなくていいよ。ま、実際嫌な記憶ではあるんだけどさ、こうしてぶちまけてしまったほうが、むしろせいせいするものなんだよ。腹の中に溜め込んでばかりじゃさ、しんどいでしょ?」

「それはまあ、そうですよね」


 私も、楓にたびたび愚痴を聞いてもらっている。それが心の支えになってきたことは言うまでもない。

 そこから、釣りが趣味だった彼の思い出話が続いた。

 一度目の大失恋の記憶を沙耶さんはすべて消している。だから、二番目の彼の話ばかりだ。


「ごめんね。つまらない話、長々と聞かせちゃって」

「いえ。調べ物をお願いしたのはこちらなのですし、これくらいは」


 これじゃ暗に迷惑ですって言っているようなものだと、気の効かない自分に頭を抱えそうになる。だが、沙耶さんに気にした様子はない。たまっていた鬱憤を吐き出せたのか、むしろ憑き物が落ちたみたいな顔をしていた、


「んじゃ、本題に入ろっか」


 脇に置いていた大き目の鞄から、沙耶さんが厚めの冊子を出して机の上に置く。沙耶さんと薫さんが通っていた大学の卒業アルバムだ。中学高校と違い、大学の卒業アルバムは購入しない人が多い。彼女が持っていて本当に助かった。


「もう一度確認をします。沙耶さんは、浅野貴さんのことを?知らない?んですよね?」

「うん。それは間違いないよ。この間言ったことに嘘はないし、なんならそこに答えがあるんじゃない?」


 沙耶さんの視線が卒業アルバムに落ちた。

 アルバムを開いて、卒業生の名簿に目を通していく。絶対に見逃してはならないと、ページの隅々まで目を光らせる。


「……」


 紙面を目で追っていく。パラパラとページをめくり、やがて名簿の確認をすべて終えた。

 ――やっぱりそうか。

『浅野貴』の名前はどこにもなかった。中途退学である可能性は残されているが、これまでの浅野さんや薫さんの言動を思い起こす限り、その可能性は薄い。

 浅野さんと沙耶さんはお互いのことを認知していない。

 浅野さんの名前は大学の卒業アルバムに載っていない。

 しかしながら、薫さんは浅野さんのことを大学の同期であり親友であると認知している。

 どういうことだ? まさか虚構の記憶だとでもいうの?


「すみません。ありがとうございました。やっぱり、浅野さんの名前はありませんね」

「でしょ? ……ほんと薫の奴、いったい誰と勘違いしているのやら」


 勘違いなのか。それとも。


「あはは、話がなにやら湿っぽくなってしまいましたね。飲み直しましょう」


 努めて明るい声を出して、追加オーダーをするべく店員を呼んだ。

 ようやく尻尾が見えてきたぞと思いながら、この日は夜遅くまで二人で飲み明かした。


   *


 月日は流れる。暦は七月になっていた。

 夏になるとしばしば話題になるのが、「昔と比べて夏は暑くなっているのか」という話だ。気象庁が公表したデータによると、過去百年間で日本の気温は確実に上がっており、中でも特に、東京などの都心部で温暖化の影響が顕著なのだという。

 なんて、糞難しいデータをテレビのニュースキャスターが語っているが、糞ほどどうでもいいのである。


「あちい……」


 本日の最高気温は三十七度。俗に言う真夏日である。

 着ているキャミソールの裾をはしたなく仰ぐ。履いているショートパンツを脱いでしまいたい衝動に駆られるが、それでは痴女と変わらないぞ、と心にリミッターをかけて冷蔵庫に向かった。


「アイス、残り一個しかないじゃん」


 これを食べてしまったら、喉をうるおす物が水しかなくなる。東京の水はまずいんだよな。一瞬だけためらうも、背に腹は代えられない。袋を破いてアイスキャンディーを口に咥えた。


「お、アイス美味しそう。私の分は?」


 パソコンの前に座った直後に背中からした声。不意打ちだったがもはやこの程度では驚かない。


「ごめんね楓。これが最後の一本なんだ」


 肩越しに、こちらを覗き込んでいる楓の顔が見えた。

 外と変わらない、いや、もしかしたら外以上の熱気が充満しているアパートの一室は、エアコンがないので蒸し暑い。窓を開けてはいるが、無風状態なのか換気は一向にはかどらない。もっとも、今日の気温で外気と循環することにどれほどの意味があるのかは疑問だが。

 薫さんの部屋はエアコンがあったので、今思うと恨めしい。


「缶チューハイ買ってきたけど、飲む?」

「うわっ、マジで? ありがとう。もらうもらう」


 思えば、薫さんとはもう四ヶ月会っていない。

 隣のチェアに座った楓から、三五〇ミリリットルの缶を受け取った。

 真昼間から良い身分だが、今抱えている案件が片付いたなら就活しますので! ということでどうか許してほしい。


「で、情報はまとまってきた?」

「そうだねえ……」


 筧葉子。仁平薫。熊谷沙耶。浅野貴。四人は同じ大学の同期生。しかし、この中で熊谷沙耶と浅野貴はお互いに面識がなく、卒業アルバムに浅野貴の名前は載っていない。もっとも、個人情報保護の観点から、本人が希望するなら情報掲載を拒絶することはできる。

 沙耶さんが忘れているだけなのか。それとも薫さんの記憶違いか。いずれにしても、結論を出せるだけの情報はそろっていない。

 葉子さんがもし生きていたなら、有力な情報が得られたのかもしれないが。


「死人に口なし、でもないけど、どうしようもないね」

「そうだね」


 楓の声に頷いた。

 筧葉子は自殺であったのか。それとも他殺か。

 事故が起きたあの日、薫さんの部屋には鍵がかかっていた。一方で、バルコニーに通じる窓の鍵はかかっていなかった。

 屋上に通ずる扉は施錠されていた。上階の住人である浅野さんは会社にいたため不在だった。アリバイもある。薫さん部屋の二階下の住人は在宅していたが、葉子さんとの接点がいっさいない。葉子さんがその部屋から突き落とされたとしたとしても、高さが足りなくて死に至るとは思えない。

 これらの情報を鑑みて、葉子さんはやはり自室の窓から落ちたのだろう、との結論になる。


「だがしかし、遺書は見つかっていない。そして、一応だけど動機はある」

「そうだね。彼女は研究から降りたことを悔いていたようだし、私の姉が亡くなったことを強く気にかけていた」


 次に、他殺であった可能性について考える。

 葉子さんが亡くなったあの日、マンションに出入りした人物は三人。それぞれがマンションに入った時間は、十五時、十七時三十分、十八時五分だ。このうち先の二人は、葉子さんが生きているうちに(これは、薫さんとの通話履歴から見て間違いない)マンションを出ているのだから完全にシロだ。

 怪しいのは三人目であるピザの宅配員だが、彼には葉子さんを殺害する動機がないし、密室を作り上げる手法がない。

 わからないなあ。

 八方塞がりなんだよな。何かを見落としている気はするんだけど。

 藁にも縋る思いで、デリバリーピザ店のホームページに接続する。

 制服のデザインを改めて確認しているとき、画面の右下にあるニュースリリースの一文が目に留まった。

 ――全従業員が私服。『カジュアルデー』導入へ。


「あれ?」


 クリックして記事の全文を表示させる。

 全従業員が私服で勤務する『カジュアルデー』を六月から導入すると発表した。月に一日程度、従業員が私服で店内の接客業務や宅配業務に当たる。働き方改革の一環として、従業員の私服勤務を認める動きがさまざまな企業で広がっているが、飲食チェーン店としては珍しい。

 記事が書かれた日時は昨年の五月。実施は同年の六月から。


「これだ……!」

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