第二話【違っているのは時間か? 記録か?(2)】

「ピザの宅配員がマンションに入ったのが十八時五分。葉子さんの死体が発見されたのが十八時四十分。宅配員がマンションを出たのが十八時三十分。葉子さんが飛び降りた瞬間を見た人はいないので――宅配員が葉子さんの死体を見ていたかどうかは不明……っと」


 マンションの前に倒れていた葉子さんを発見し、救急と警察に通報したのはマンションの住人だ。

 その十分前にマンションを出た宅配員は、『葉子さんの姿を見てはいない』と証言しているらしい。なぜ、配達時間の記録が間違っているのかはわからないが、映像で記録が残っている以上、ピザが届いたのは十八時前後で間違いないだろう。

 もちろん、虚言である可能性はある。宅配員が犯人であった場合に限って。とはいえ、時間を三十分ずらしたところで何が変わる?

 いずれにしてもはっきりとしているのは、警察が現場に到着したとき、ピザの宅配員はそこにいなかった。通報者は、マンションの住人であった。この二点なんだ。


「ふう」


 ここまで考えて、頭を振った。

 推理にバイアスがかかっている。私は葉子さんの一件を他殺にしたがっている。もう少しフラットな視点で物事を見るべきだ。

 それもこれも、葉子さんの死が不自然なせいだ。

 遺書はない。自殺に至った背景がいまひとつ明確じゃない。

 かと言って、容疑者は今のところいない。

 姉の死の裏に何か秘密があるとしたら、誰かがそれを隠そうとする。秘密を知っていたのが葉子さんだとしたら、彼女を殺した人物が真犯人だ。

 誰か、いると思うんだ。

 何か、あると思うんだ。

 記憶消去方にまつわる秘密を葉子さんが握っていたとして、殺す動機がある人物はいるか? 。二人だけ。


「やれやれ」


 それこそ、誰かを犯人に仕立て上げたい私の妄想だ。

 証拠は、いっさいないのだ。証拠がないばかりか二人ともアリバイが完璧にそろっている。しかも、怪しい人物の筆頭である我妻教授はすでにこの世界にいない。

 そして、彼の死にしても不審な点はある。

 あの日何があったのか。葉子さんは、本当に自殺なのか。

 つまるところ、物的証拠が何もないからここで推理は行き詰まってしまうのだ。

 薫さんの部屋から、葉子さんが残した日記か遺書でも出てきたら話は違うのだが、どんなに探しても見つからなかったしなあ……。

 知りたい。あの日、何が起きていたのかを。姉の死の裏に、何か秘密があるのかを。


「まずは、浅野さんの周辺でも探ってみるか」


   *


 あれからもう、一年近くが経過した。

 忘れたくても、忘れられない記憶がある。忘れてはならない記憶がある。

 姉の死の真相を、この手で突き止めるその日まで。姉が無念の死を遂げた本当の理由を突き止めるその日まで、これは忘れてはならない記憶なのだ。

 絶対に――!


 昨年の晩夏。あの日私は単身我妻教授の家に向かっていた。

 姉の死について何度問い詰めても、『あれは事故だった』という曖昧な説明に教授は終始していた。

 研究の中で何か問題はなかったか? 当日、姉の様子はどうだったのか? どの質問に対する返答もあやふやで、真相の行方は五里霧中だった。

 完全に業を煮やしていた。どんなことをしてでも吐かせる。手荒な真似をするのもいとわない覚悟があった。

 手荷物の中に護身用の果物ナイフを忍ばせて、全身に緊張感をみなぎらせて教授の家を目指していた。

 突然の来訪だ。にべもなく拒絶されるものと思いきや、意外にもすんなりと家に上げてもらえる。我妻教授は初老の男性といった風貌で、この日は落ち着いた色の部屋着姿だった。

 白髪混じりの後ろ頭をかきむしり、しぶしぶといった体で応接室らしき部屋に通される。

 観葉植物の鉢がいくつか並び、壁には高そうな絵画がかかっていた。いかにも金持ちの家といった風情だが、見渡している暇はない。薦められた緑茶を一口含み、すぐに本題を切り出した。

 死ぬ三日前に、姉が送ってきたメールの文面を見せる。

 このような、前向きなメッセーシを送ってきた人が、死ぬはずないじゃないですか、と主張した。


「本当は……研究に何か問題があったんじゃないですか? あるいは、事故が起きる要因が何かあったんじゃないんですか?」

「君もしつこい人だな。……あれは自殺だったと何度も言っているだろう?」


 当日の彼女の行動に不審な点はなかった。どうして突然自殺をしたのか、こちらが教えてほしいくらいだよ、とこれまでと同じ主張を教授は繰り返した。


「でも、おかしいじゃないですか! ……何か。いつもと違う動きを察知していた人とかいなかったんですか?」


 この質問をしたとき、教授の眉がぴくりと動いた、ような気がした。


「……やっぱり、何か隠しているんですね?」


 ついに綻びを見せた?

 そう直感して攻勢に出るも、教授の表情はすぐ元に戻る。平静を装うみたいに、口元に笑みを形作った。


「そんな動きは、特になかったと思うがね」


 あくまでも自殺だったと、そう言い張るつもりらしかった。

 その頑なな様子に、苛立ちが募った。私は興奮気味に語気を強める。


「じゃあ、どうして姉は死んだんですか……!」


 怒りに任せて机を叩いた。湯呑に入った緑茶がこぼれそうになった。

 誰も何も知らないだなんて、それで納得できるはずがない。


「なんだ。あれか。経済支援がほしいのか?」

「はあ?」


 唐突に話題を変えられて、意図せず変な声が出る。


「姉が死んだ背景に、何か後ろ暗いことでもあれば、俺をゆすることができるからな」

「違います! そういうわけじゃないです。私はただ純粋に、姉が死んだ理由が知りたいだけなの!」

「生活が苦しいのだろう? 金が欲しいのだと最初から下手に出てくれれば、考えてやらんこともなかったのに」


 下卑た目で私を見つめ、おもむろに教授が立ち上がる。


「金なら出してやってもいいぞ。もちろん、『タダで』とは言わんがな。君も年頃の女だ。この言葉の意味くらいわかるだろう?」


 私の隣に教授が座る。色欲をあらわにした彼の表情と声音に、全身が総毛だった。もしかして――姉にもこうやって手を出したのか? それが元で、姉は自死したのか? と思うと同時に、頭に血が昇る感覚があった。


「触らないでください!」


 教授の指先が私の顎に触れると、背筋に悪寒が走った。気づけば彼を突き飛ばしていた。

 脇に置いてあった荷物を引っ掴んで、急いで部屋を出ようとした。

 ……ところが、追ってくると踏んでいた教授は動かない。

 これはおかしい、とこわごわ振り返って、驚愕の光景を私は見た。

 教授が、仰向けの体勢で洋間の床に倒れている。瞳孔が開いていて、後頭部からは血が滲んでいた。

 私に押されて転んだ弾みで、テーブルの角にでも頭を打ったらしい。

 慌てて手首を取って確かめると、脈はちゃんとあった。自発呼吸もあるようで、胸がかすかに上下している。良かった。どうやら気絶しているだけみたい。

 救急車を呼ぶべきか、としばし悩むも、そのまま家を抜け出した。これ以上関わり合いになりたくなかった。

 夜道を歩きながら考える。

 姉の死の裏に何があるのか。なんとしてでも突き止める。教授が口を割らないのであれば――とこの日私は決意したのだ。真相を知っているかもしれない最後の人物、仁平薫への接近を。

 秋の始まりを予感させる、冷たい夜の風が吹いた。


 我妻教授の家が全焼し、焼け跡から彼の遺体が見つかったと知ったのは、翌朝のことだった。

 持っていたコーヒーカップを、床に落とした。


   *

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