第一話【空吹く風と、聞き流す(3)】
児童養護施設に移ってから、私は周囲にうまく馴染めずにいた。
施設にはさまざまな境遇の子どもがいた。親が病気で入院した子。親が失業し、経済的な余裕がなくて育ててもらえない子。暴力や育児放棄などの虐待が理由で、預けられている子。しかし、両親も、頼れる親戚もいない子どもは私たちだけだった。そのため私たちは、腫れ物にでも触るみたいなよそよそしい扱いを受けた。施設の子らとの付き合いは浅くて薄く、本当の意味での友達はきっといなかった。
ただ一人。高辻楓を除いて。
楓だけが違った。私より四つ年上だった楓は、十八歳になると同時に退所したので、私たちとの付き合いは二年ほどでしかなかったのだが、まるで本当の姉妹みたいに私たちの面倒を見てくれたのだ。
「ふーん。君たち双子なんだ」
「何か困ったことがあったらさ、遠慮なく私に言いな。どんな悩みもすぐ解決してやるから。もし陰口とか言う奴がいたら、私がぶっとばしてやるから」
私たちが入所すると、楓はすぐに声をかけてきた。無遠慮ともとれる強い力で私たちの背中をばしばしと叩いて、得意満面、丸い瞳を細めてニカッと笑ったのだ。
児童養護施設の消灯時間は早い。基本的に二十時で、そこから小さい子たちの寝かしつけを教諭が始める。
小学生の頃は、私もその時間に布団に入った (寝られるかどうかは別として)。中学生になると施設に戻ってくるのがそもそも遅くなるので、そんなに早く寝ることはなくなったが。
それでも、二十二時になるとほぼ全員が布団に入っていたと思う。
家からゲーム機を持ってきている子もいたが、施設の中にこれといった娯楽はない。
テレビは大広間にしかない。パソコンは専用の部屋に二台あったが、予約制となっていて自由に使えなかった。セキュリティは厳しく、メールやチャットの使用は原則禁じられていた。小遣いは、中学生で二千円。高校生で五千円。この範囲でなら自由に買い物ができたが、青少年の育成に悪影響があるもの (この規則もひどく曖昧なのだが)は厳禁なので、本や衣服をたまに買うのが精々だ。
二十二時にみんなが寝てしまうのは、娯楽が無いのときっと無関係ではなかった。
消灯すると、みんな一斉に静かになる。
話し声も物音も、しぼんで消えていく。まるで波が引いていくときのように。
暗くて静かになると、寂寥感にさいなまれるもの。時々ホームシックになる子どもが現れる。
「うちに帰りたい。お母さんに会いたいよー」
その日も、みんなが寝静まった頃に、小学校六年生の女の子が泣き出した。
「うんうん、悲しいね。でも、泣いてもお母さんの所には帰れないんだし、辛いだろうけど我慢しよ? 私も、みんなも、寂しいのはみんな一緒だから」
二段式のベッドから降りて、泣き出したその子を慰めた。その子のベッドは、私の真下だったから。
だって、とその子が泣きながら言う。
「柚乃ちゃんは、お母さんがいないから私の気持ちなんてわからないんだよ」
何気ない言葉だったのだと思う。
悪気はなかったのだと思う。
しかしその一言が、ナイフみたいな鋭さで私の胸を抉った。私だって、望んで母と死別したわけじゃない。最初から母がいなかったわけじゃない。寝たばこを止めなかったことを、今でも後悔している。平気なはずなんて、ないのに。
言い返すのも違うし、と唇をかんでいると、「やめなよ」と楓の声がした。
「柚乃だって、母親を失った辛さを抱えて生きているんだ。そういう言い方は、いくらなんでもひどいんじゃないかな?」
強めの口調で咎めたあとで、一転して優しい声を出す。今度は泣いた子のことを慰めた。
「楓ちゃんもホームシックになるの?」
「……まあね。私だって寂しいときあるよ」
楓はこの部屋で一番の年長者で、誰とでもわけ隔てなく接する人だった。当然ながら人望があって、楓の一言で場は収まった。そこからいつも通りの静かな夜が訪れる。
「ごめんね」と私が言うと、「何が?」と楓があっけらかんとした声で言う。
「私はただ、思ったことを言っただけだし、当たり前のことをしただけさ」
施設の内部には、やはりいじめがあった。ターゲットにされるのは、良くも悪くも目立つ子だった。複雑な事情を抱えていた私たちが、それでもいじめに遭わずに済んだのは、入所した当初から私たちを気にかけてくれた楓の存在があってこそ、なのかもしれない。
楓がいてくれなかったならと考えると、今でもぞっとする。
だが、前述した通り楓は年長者。それから二年ほどでいなくなってしまうのだが。
「空吹く風と聞き流す」
その言葉を残して、一陣の風を巻き起こして、あっと言う間に私たちの前から消えていったのだ。
楓がいなくなったあと、心の中心に
小学校のときもそうだったが、中学、高校と進学していくにつれ、私たちは次第に孤立を強めた。
片親の子どもなら、別に珍しくはない。しかし、両親共にいなくて、ましてや児童養護施設から登校しているとなるとまずいない。私と姉は否が応でも好奇の目で見られた。
目に見えて敵対してくる相手がいるわけではない。けれど、話をしていても、目に見えない壁を一枚立てられている感覚が常にあって、腹を割って話せる友人は一人もいなかった。
学校にも。児童養護施設にも。
生活に大きな不便はなかった。しかし、惰性で流れていく日々はどこか気だるげで、ふとした瞬間に心が暗い穴の中に落ちていく。些細なことで落ち込んでしまう。母のことを思い出してはたびたび涙した。心に付いた深い傷は、そうそう消えるものではなかった。
それでも、私がぎりぎり踏ん張っていられたのは、短い間だったとはいえ私を支えてくれた楓の存在があったからであり、唯一の肉親である姉がいてくれたからだった。
――空吹く風と聞き流す。
この言葉を復唱し、姉と一緒に空を見上げた。
そんな姉が死んだのは、私が十八歳のときだった。
*
それから一週間後。八王子駅の南口に私はいた。
立ち並んでいるビルの隙間から、初夏の太陽が顔を覗かせている。スマホで時刻を確認すると、十時五分だった。約束の時間を五分過ぎている。
乾いた喉を潤すためスポーツドリンクのペットボトルを口に含む。中身はすでに八割がた失われている。まだ六月だというのに、今年は夏の訪れが勇み足だ。
降り注いでくる日差しを恨めしそうに見上げた。
炎昼や、などと一句たしなみかけたそのとき、陽炎にゆらいだ街並みの中に、待ち人の姿が見えた。
「ごめんねえ。もしかしてだいぶ待たせちゃった?」
だいぶ急いできたのだろう。頭を下げた楓の前髪は、汗で濡れた額に貼り付いている。上は白のブラウス。下は黒のパンツ。涼し気な白のブラウスも、汗で所々が濡れている。若い男の子なら、下着が透けそう、などと色めき立つのだろうか。
「いや、十分くらい前にきたばかりだから」
ほんとは三十分待ったけど。なんて本音は胸に隠して、若草色のワンピースの胸元を軽く仰いだ。
「そっか。んじゃ、行こうか」
これから楓の車で、近場にあるデリバリーピザのチェーン店に向かうのだ。
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