第四話【連鎖する悲劇(5)】
それからすぐ、柚乃が千葉県出身である可能性をそえて、情報提供を呼びかける投稿を再びSNSで行った。しかし、目ぼしい情報が入ってくることはなかった。
警察でも、千葉県から届け出のあった捜索願の中に、柚乃らしき人物がいないかどうか調べてもらったのだが、こちらも空振りに終わった。
なぜだ? あれは柚乃の制服じゃないのか? 彼女に家族はいないのか?
進展があったのは一点。浅野の店の顧客リストの中から、気になる名前が見つかったのだ。それは、とある人物と柚乃とのつながりを匂わせる名前だった。このふたつがつながれば、柚乃の正体に一歩近づけるかもしれない。だが同時に、ひとつの疑念が生まれた。
なぜ柚乃は、あの日俺の前に現れたのか、と。
部屋の日めくりカレンダーが、十枚めくれた。日めくりカレンダーが好きだったのは陽子だった。
今日の分の仕事を終えて一息ついた。十六時四十分。オフィスでのことだ。
上司である
「仁平君。ちょっといいかしら?」
「はい。なんでしょう?」
松橋さんは俺よりも少し年上の女性だ。眼鏡の奥で光る瞳は理知的で、常に先を読んでいるような鋭さがある。ただ、どこかとらえどころのない面もあり、なんとなく底の知れない印象を周囲に抱かせる人物だった。
普段、向こうから話しかけてくることはあまりない。どうしたのだろう。
「最近、熊谷さんと連絡を取り合ってる?」
「いえ、まったく取ってないですね。というか、どうして俺に聞くんです?」
俺と沙耶が比較的仲が良いのは確かだが、親友というほどではない。もちろん恋仲でもない。用が何もなければ、基本的に連絡は取り合わない。
「ほら。君たち、出身大学が同じだったでしょ?」
「そりゃそうですが。だからといって、マメに連絡を取るわけじゃないですよ。……何かあったんですか?」
「それがわかっていたら、訊いたりしないわよ」
謎かけみたいな上司の話に、俺はゆっくりと首をかしげた。
沙耶と喫茶店で会ったあの日から数日がすぎた頃、彼女は風邪で会社を休んだ。「三十八度の熱がある」と会社に電話があって、それから今日までずっと休んでいる。
沙耶が会社を休んでから、丁度一週間か。こんなに長期間休むのは珍しい。一度くらいは見舞いに行ってやるべきだっただろうか。親友というほどではないが、知らない仲でもないのだし。
「これはちょっとまずいかな」
松橋さんの真剣な物言いに、巡らしていた思考を止めた。
隣の空席に松橋さんが座った。濡れ羽色の短い頭髪をかきむしって、パンツスーツの足を組んだ。落ち着いた雰囲気があるので、年齢以上の威厳を感じる。
「あの子。火曜日からずっと無断欠勤をしているのよ」
「え?」
思わず間抜けな声が出た。松橋さんの顔は窓の外に向いていて目が合わない。
「沙耶は、あれでも礼儀正しい奴です。どうして?」
「でしょう? だからおかしいと言っているのよ」
瞳を眇めて松橋さんが数秒思案する。
「……ちょっと、彼女の家まで案内してくれる?」
チェスターコートを羽織って松橋さんが歩き出すのと、終業のチャイムが鳴るのは同時だった。
これは言っても聞かないやつだ。諦めて松橋さんのあとを追う。「あと任せたわよ」と近くの社員に声をかけ、彼女はオフィスを出ていった。
外はすでに宵闇だ。会社を飛び出すと、
「お客さん。行き先は?」
「行き先?」と松橋さんが俺の顔を見た。
「
「了解」
「ごめんね」と小さく松橋さんの声がした。
「いいえ」
沙耶の家の住所も聞かずに、松橋さんは会社を飛び出した。冷静沈着な彼女にしてはらしくないその行動に、狼狽ぶりが現れていた。
車内は重苦しい空気に包まれている。車窓のネオンだけが、ただ静かに流れていく。大丈夫だ。ただの風邪に違いない、と自分に言い聞かせるが、心中は、静かに確実に波立っていった。
「この通りを右に曲がってください」
路地に車が入る。洋風レストランや雑居ビルが並んでいる通りを、俺たちを乗せたタクシーが走っていく。
「……あれ? 次どこを曲がるんだったかな?」
細い通りに入ったら、とたんに記憶が怪しくなった。沙耶の家に行ったのは思えば一度きりだ。
酒好きなわりに酒に大して強くない沙耶が、昨年の忘年会の席で酔いつぶれた。そこで同期の俺が、彼女を自宅マンションまで送っていく羽目になったのだ。記憶を頼りに運転手に指示を出していく。
「そこです。そこの角を左に曲がってください」
車が角を曲がった瞬間に、赤い光が見えた。回転する赤色灯の光が、辺りを照らしていた。
「ここです。車を停めてください」
救急車が止まっていたのは、沙耶の自宅があるマンションの前だった。嫌な予感が頭をよぎり、松橋さんと顔を見合わせる。
タクシーを降りて、マンションの外壁を見上げた。傍から見た感じでは、中で何かが起きているとは思えないほど静かだ。
「何階?」
「三階です」
マンションに入ってエレベーターの前まで行く。上階に留まったままなのを見て、俺たちは迷わず階段を選んだ。
コツコツと、ヒールと革靴の足音が肌寒い空間の中響く。三階に上がったとたんに、つんとした刺激臭がした。なんだろうこれは、と再び松橋さんと顔を見合わせる。廊下に人だかりができていて、そのまた奥に救急隊員が三人いた。隊員らの中央にストレッチャーが置いてあって、そこに沙耶が乗せられていた。
「沙耶!」
上下スウェットという彼女らしくない飾り気のない服装で、眠っているみたいに目は閉じられている。
俺が叫ぶと救急隊員の一人が、無線通話を中断してこちらに目を向けた。
「お知り合いの方ですか?」
「そうです。会社の同僚です」
俺が答えると、隊員の顔が見る間に安堵したそれになる。
「良かった。いやね、マンションのオーナーから連絡を受けてきてみたはいいものの、住人の緊急連絡先が全然わからなくて困っていたのですよ。彼女の人となりとか、多少はご存じで?」
緊急連絡先か、と口ごもると、松橋さんが助け舟を出してくれた。
「ええ。実家の電話番号でいいのなら、私が知っています」
「そうですか。今、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
そうこうしている間に、沙耶を乗せたストレッチャーが運ばれていく。隊員の問いかけが、『一緒にきてほしい』という意味だと察した松橋さんが頷き、次に彼女は俺を見た。
「ありがとう仁平君。ここからは、私一人で大丈夫だから」
俺は首を横に振った。沙耶は友人だし、乗りかかった舟だ。ここで帰る気にはなれなかった。
「いえ、いいです。俺も一緒に行きますよ」
「そう……わかったわ」
ごめんね、という小さな謝罪が、踵を返した松橋さんの背中越しに聞こえた。
沙耶の部屋の扉が開いていた。立ち去る間際にちらりと見えた部屋の中は、足の踏み場のない散らかりようだった。
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