第四話【連鎖する悲劇(3)】

『本州上空にマイナス四十度の寒気団が侵入しており、東北から関東地方までの全域が、今季最強となる記録的な寒波に襲われています。東京都心部でも、所によって十センチほどの積雪が予想されています――』


 カーラジオから流れてくるニュースキャスターの声が、絶望的な状況を伝えてくる。車の外の景色も絶望的で、ハンドルを握っている俺の手は寒いはずなのに汗ばんだ。


「この状況下でフルオープンにしたら、気分爽快でしょうね」

「お前は雪だるまにでもなりたいのか?」

「この車って、スタッドレスタイヤ履いていませんよね」

「当然だ」

「そこで自信たっぷりに言うかなあ……。天気予報って見てました?」

「ぎくり」

「ぎくりって、口に出して言う人初めて見ました……」


 いや、天候が荒れるとは聞いていたけれど、ここまで降るのは想定外だろう!?

 帰途につこうと車に乗ったあたりから降り始めた雪は、今ではすっかり猛吹雪だ。路面凍結はまだなさそうだが、アスファルトの表面は所々が白く染まっていた。

 東京にいてこんな雪を見れるとは思っていなかったよ。

 ヒーターの設定温度を二度上げて考える。俺の車は夏タイヤの上に後輪駆動だ。わずかばかりの積雪でも、命取りになる危険がある。やはりここは――。


「どこかで一泊していくか」


 発言したあとで、とんでもないことを口走ったと気づく。彼女はただの同居人であって恋人ではない。せめてもう少し言い方というものがだな。


「意図せず一泊旅行になっちゃいましたね。それも悪くないかな。……あ、でも。どうせなら、風情のある旅館にでも泊まりませんか?」

「どこにあるんだ。そんな洒落たものが」


 下心が見え見えです! などと罵声が飛んでくるだろうと身構えていたのだが、彼女の反応は存外に軽い。もしかして、嫌じゃないのか? それとも異性として意識されていないのか?

 まあ、どっちでもいいか。一泊できる場所を探すのがまずは先決だ。

 渋滞に捕まった車の中で、ナビを操作して周辺にあるホテルの場所を検索していく。

 しかし、あいにくこの天候だ。考えることはみな同じなのだろう。行く先々のホテルはことごとく満室だった。


「あそこなんてどうですか?」


 柚乃が指差した先にあったのは、煌びやかな電飾で彩られた建物――というか。


「ラブホテルだぞ、あれは。あれがどういう場所なのか、知っているのか?」

「記憶がないと思ってバカにしてるんでしょ? 知ってますよそのくらい。このさい、泊まれるならどこでもいいじゃないですか」

「記憶がなくなると、一緒に羞恥心とか警戒心もなくなるんだろうか」

「心の声を駄々洩れにするのやめてください。ありますから、ちゃんと」


 背に腹は代えられないって奴だ。

 そう、下心は、ない。

 三階建ての、わりと大きいホテルだった。フロントで年齢確認をされるんじゃないのか、と心配したがそんなことはなかった。そこそこの値段の部屋を選択した。一番安い部屋でもいいのだが、そこは男のプライドって奴だ。

 壁紙と家具とがマリンブルーで統一された室内は、完全に季節外れだ。センスの悪さに鳥肌が立つ。

 疲れたーと叫んで柚乃がダブルベッドにダイブする。布団に顔を埋めたまま動かなくなったので、「まだ寝るな」と無理やり起こして夕食にする。もっとも、部屋にあったカップラーメンなのだが。割高? そんなことは気にしちゃいられない。「あーあ。本来なら、懐石料理の予定だったのに」という柚乃の不満に耳を傾けてもいけない。


「そんな約束、した覚えないよ」


 柚乃が部屋の物色を始める。クローゼットや引き出しを片っ端から開ける。何も面白いものがなかったのか、今度はテレビを点けた。ピンクな映像が流れてきたので、びっくりして俺はチャンネルを変えた。大相撲初場所だった。尻が見えているのは一緒だ。

「興味ないんですか?」と柚乃がからかってきたので、「デブ専じゃないからな」と返してチャンネルをさらに変える。芸人による裸芸が披露されていた。裸つながりやめてほしい。


「大相撲の話じゃないですよ」


 柚乃のからかいを無視して窓から外を見ると、路面はすでに真っ白になっていた。行き交う車はみなトロトロ運転だ。強行せずに宿を取ったのは、やはり賢明な判断だった。


「すごーい!」


 テンション高めの声が上がる。何事かと行ってみると、柚乃が浴室を覗いていた。

 温泉、とまでは言わないが、ラブホテルには不釣り合いな豪華な浴室だ。いや、むしろラブホテルだからなのか?


「二人で入りますか?」

「入るわけがないだろう」

「冗談ですよ。今日はさすがに疲れましたし、さっさと風呂に入ってしまいましょう」

「完全に同意」


 湯船にお湯をはって、俺、柚乃の順で入った。

 柚乃が入っている間、なんとなく落ち着かなかった。

 すりガラス越しに見える人影。滴る水の音。これとよく似たシチュエーションはマンションでも普通にあるのに、それでも心がさざめいてしまうのは環境のせいか。

 いたたまれなくなって、テレビの前に座る。チャンネルをドラマ番組に変える。

 浴室のドアが開いて、ナイトウェア一枚だけを羽織った柚乃が出てくる。

 濡れた髪が張り付いている頬は、ほんのりと上気していて色っぽい。艶かしい湯上り姿に不覚にも色香を感じて、そっと視線をそらした。

 ドライヤーで髪を乾かしたあと、柚乃が俺の隣に座る。このソファは二人がけなので、どうしても体の距離が近くなる。

 彼我の間を満たす沈黙に、緊張が高まってくる。テレビのドラマは、主人公とヒロインのラブシーンになっていた。ヒロインの肩を抱き寄せて、愛の囁きをする主人公。今にもキスしそうでめっちゃ気まずい。

 チャンネルを変えようか。しかし、このタイミングで変えたのでは、柚乃のことを俺が意識しているみたいだ。

 雑念によって攪拌かくはんされ続ける思考の中に、「薫さんは」という柚乃の声が差し込まれた。


「新しい恋に、踏み出してみようとは思わないのですか?」


 目を背け続けてきた事柄だった。同じようなことをこの間も言われた。沙耶だったか。

「新しい恋?」と惚けたように言う。

 なんとはなしに、テレビの画面を見た。ドラマの主人公は刑事だ。恋人を、とある事件によって亡くしており、いまだ捕まらない犯人の手がかりを追い続けている。捜査を進めていく過程で、しかし、同僚の女刑事に対してもうっすらとした恋心を抱いてしまう。そのようなストーリーらしい。

 亡くなった恋人への深い愛情を、彼は忘れてなどいない。だからこそ自分の心に嘘をつき、必死に自分を抑えようとする。

 ここで、新しい恋に溺れてしまうのは不誠実なのだろうか。

 俺はそうは思わない。

 恋人を想う気持ちは大事だが、彼女はもういないのだ。思い出を大切にするのは美談だが、しばられてばかりでは前に進めない。道は、前にしかないのだから。

 ドラマの内容が皮肉にも今の自分と重なる。

 ならば、俺は?


「今はまだ、考えられないかな」


 悩みながら、そう答えた。

 私のことなんて、さっさと忘れてしまえばいいのに、と葉子なら言うかもしれない。それでも。


「俺は、今もまだ葉子のことを愛しているんだ」


 柚乃の眉尻と口元が下がる。落胆と安堵が混じり合ったような、複雑な笑みだった。「ふ」と小さく声をもらした。


「そんなに思われていたのだから、葉子さんはきっと幸せだったんでしょうね」

「どうかな。なら、どうして彼女は死んだんだろう」


 今もまだ、答えが見つからない問い。めぼしい答えがどこにもないから、ずっと俺をしばり付ける鎖になっている。鎖を解こうと足を動かせば動かすほど、がんじがらめになって身動きが取れなくなる。

 忘れなくてはならないことは、わかっているんだけどな。

 柚乃は目を細めた。


「そうやって、一生悩み続けていそうですね」

「ああ……そうかもしれないな」

「私は、恋をしたことがないから、残念ながらよくわかりませんけどね。ん……ちょっと違うのかな。正しくは、恋をしたことがないかどうかも、わからないのか」


 恋に落ちるときの感覚がよくわからない、という人は案外多い。今の俺も、似たようなものかもしれない。どんな感情を抱いても、それを見ている自分の心はどこか俯瞰的で、次の恋に向かっていくタイミングがわからない。

『恋』という枠の中に感情を嵌めようとしても、その形はどこか歪で、うまく嵌ってくれないのだ。

 俺は、なぜ柚乃を側に置いている?

 柚乃は記憶がないから。住む場所がないから。葉子と、どこか似ているから――。

 理由はさまざま思いつく。だが、こうも思ってしまうのだ。葉子とよく似た他人を近くに置くことで、傷だらけの自分の心を慰めようとしているんじゃないか、と。

 柚乃は実際よくやってくれている。掃除も洗濯も手抜かりはない。時々申し訳なくなって、俺が手伝ってしまうくらいには料理だってしてくれる。

 だからこそ後ろめたく感じてしまう。この関係は共依存なのではないかと。あるいは、共依存を装ったただの偽善ではないのかと。

 このままではダメだとわかっているが、何より自分の身の振り方がわからないのだ。


「新しい恋なんて、できるのかな、俺は」

「あはは。私は対象外ですか」


 からかいの中に、傷心が垣間見える笑みだった。


「ごめん。そういう意味じゃないんだけど」

「わかってますよ。私だって、身の程はわきまえています」


 テレビの画面は、気がつけば夜の報道番組に変わっていた。


「私のことを好きになってくれる人なんて、現れるのかなあ?」


 しんみりとしたその声に、返す言葉がない。少なくとも、自分がその『誰か』になる未来が予想できなかったから。

 恋をしたことがない(かもしれない)彼女と、恋の仕方を忘れた俺とがこうしてラブホテルで二人。なんとも滑稽なものだ。

 バラエティにでもチャンネルを変えようか、とテレビのリモコンを持ったそのとき、ベッドの隅に置いてあったスマホが震える。電話の主は沙耶だ。

 電話とは珍しい。彼女からの連絡はだいたいメールで、用件はだいたい仕事絡み。それだけに、奇妙な胸騒ぎがした。

 けれど、電話口から聞こえた声は、いつもと同じ溌剌としたものだ。


「もしもし」

『もしもし、薫? 今どこにいる?』

「どうしたんだ藪から棒に。どこっていうか、吉祥寺きちじょうじのラブ……じゃなくてビジネスホテル」


 危ない。いきなり失言するところだった。柚乃がちょっとニヤけた顔でこっちを見ている。


『吉祥寺? あれ? 私の実家の近くじゃん』

「え? 沙耶の実家ってこの辺りなのか?」

「そうだよー……って、教えたことないもんね。そういや」

「まあね」


 で、本題はなんだよ、と思い始めた頃合いに、沙耶が俺の心を読んだみたいに言った。


『SNS、見たよ』

「ああ、そっか」

『何あれ? 私の気のせいかもしれないけど――葉子にどこか似ていない?』


 鋭い、というか案の定の指摘に、数秒沈黙してしまう。流れ始めた気まずい空気を振り払うように。「やっぱり、そう見えるか」と同意した。


『まあね。で、どういうこと? まさか、その子を葉子の身代わりにするつもりじゃないよね? そんなに器用な奴だとは思っていないけど』

「そんなんじゃないよ」


 とは言ったものの、柚乃に葉子の面影を時々重ねてしまうのは本当だ。それだけに後ろめたい。ほったらかされているからか、柚乃は不機嫌そうだ。なんで、そんな顔をするんだよ。


『ま、それはいいんだけど。実は今、私実家にいるんだよね。それで、明日その子と会えないかな?』

「えっ」


 思ってもいない言葉が出てきて、柚乃の顔を見た。


「私は別に構いませんよ?」


 不機嫌そうに見えていた顔は、いつの間にか晴れやかに。女心と秋の空、とはよく言うが本当に掴みどころがない。


「本人が今ここにいるんだけどさ、別に構わないと言ってる。だから――」

『へ? 今その子そこにいるの? 二人でホテルに泊まっているの?』

「そう。そうなんだけど。やましいことなんて何もないから!」

『ふーん』


 これ、絶対に信用していない声だろ。今日の天候不順によって帰れなくなったこと。それでやむなく、ここで一拍することになった旨を筋道を立てて説明していった。


『そっか。まあ、やましいことがあっても別に私はいいと思うんだけどさ』

「からかわないでくれよ」

『ふふ。……それじゃあ、明日の十時に駅前の喫茶店で。それでいいかな?』

「わかった。それでいいよ」


 そこで電話は切れた。沙耶が、何を思って柚乃に会いたいと言い出したのか、少し気になった。明日になればわかるだろうか。湿っぽくなっていた空気が和んだのだから、とりあえず良しとしておくか。


「じゃあ、寝ましょうか。明日は早く出ないとですし」


 部屋の灯りを全部消して、柚乃が布団にもぐり込んだ。

 ベッドはひとつしかないのだから、当然隣で寝るしかない。恐る恐る、背を向けあうかたちで布団に体を滑り込ませた。

 おやすみ、と声がしたので、異口同音に返した。

 石鹸の良い匂いがした。

 背中から衣擦れの音がした。

 不覚にも、精神がたかぶりそうになったけれど、明日も早いのだからと、煩悩を断ち切るように視覚をシャットダウンした。

 そうして、背を向け合ったまま俺たちは眠りについた。


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