第二話【記憶の中の記憶(2)】
「混んでいるな」
到着した遊園地は、入口からしてひどい混雑だった。
年末とはいえ平日だぞ? ここまで混むものなのか? もう年末休暇に入った人が多いのか、見渡す限りの人、人、人だ。意を決してきたのはいいが、すでに帰りたい。
「やっぱり帰ろうか」
「……バカなんですか? ここまできて何を言っているんですか。むしろわくわくするでしょう」
「わくわくする要素あるか? 混んでいる場所では疲れるのが世の常だ」
「これだけ込んでいるということは、人気があるということです。きっと、わくわくするようなアトラクションがいっぱいですよ!」
「だといいな」
相容れない感性だ。物の受け取り方が真っ正直で、感受性が豊かなのは、記憶がないからこそ、なのだろうか。
園内も、家族連れやカップルで埋め尽くされていた。どのアトラクションも長い行列ができている。昼食を済ませておいて本当に良かった。なるべく待ち時間が短めのアトラクションがいいなあ、とヘタレな思考を巡らせていると、ワイシャツの袖口をくいと引かれた。
「あれがいい」
柚乃が指さした先にあったのは、絶叫系のアトラクションだ。季節を感じることのできる森の中を、最高速度一一〇キロメートルで疾走する爽快なジェットコースターで云々と宣伝されているアレだ。爽快どころか気分が悪くなるわ。第一、「待ち時間が」と反論したが彼女は意に介さない。ぐいぐい手を引かれる。
「なあ、人の話聞いてる? 待ち時間が一時間四十分もあるんだよ?」
「知っていますよ? つまり、今並んでしまえば待ち時間は一時間四十分より長くはならないってことです!」
「……?」
しばし考えて、「当たり前だよ!」と突っ込んだが暖簾に腕押しで。結局押し切られて乗ることに。一時間四十分以上待った気がするがそれはさておきジェットコースターに乗った。
最高到達点からの眺めは最高! などと言っている余裕はもちろんない。速いよ回るよ怖いようわーと散々な目に遭った。
「疲れた……」
「さあ、次はあれに乗りましょう!」
「元気だな」
次に乗ったのはフリーフォール的な乗り物だ。行きはよいよい帰りは恐い。ゆっくり上昇して、止まった、と思いきやそこからの急落下でこれまた怖い。
その次がお化け屋敷。これはこれで怖さのベクトルが違うわけだが、彼女のほうがより怖がっていたので少しだけ溜飲が下がる。ははん? お化けは苦手か?
散々体力と精神力を消耗して、最後に辿り着いたのは大観覧車だった。
「日も暮れてきましたし、最後はこれにしましょうか?」
「完全に同意」
アトラクションの待ち時間が長かったわりに時間は足早に過ぎて、気がつけば辺りは暗くなっていた。冬はやはり日没までが早い。ゆっくりとした速度で登り始めた観覧車の窓から外に目を向けると、半分だけ欠けた月が薄明の空に浮かんでいた。星屑を散りばめたみたいな夜景が眼下に広がる。ビルが光の柱となって林立し、車のヘッドライトが光の奔流となってビルの谷間を疾駆していた。この視界の中に、いくつもの人の営みがあるのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになってくる。手を伸ばせば、星屑みたいなそれはすくい取れそうだった。
「綺麗」と柚乃が感嘆の声をもらした。
「そうだな」と返して、なんだかんだと、今日一日を楽しんでいた自分を振り返る。葉子がいなくなってから、こうして羽根を伸ばしたことはなかった。
狭い空間の中に、沈黙が満ちていた。ゴトゴト、という観覧車の駆動音だけが響いていた。その中に差し込まれたのは、「そういえば」という柚乃の呟きだ。
「葉子さんの話、聞かせてもらえませんか?」
こちらに向いた端正な顔が、月明かりを浴びて白く映える。葉子とよく似た瞳の中心に、夜景が映りこんで星になっていた。
「そうだな」
こういうのを魔が差したというのだろうか。どこか葉子の面影が重なって見える少女に、俺たちの経緯を語って聞かせるのも、また一興なのかとそう思った。
「俺と葉子が出会ったのは、大学二年の頃だった」
数学が得意。パソコンをいじるのが趣味。恋愛映画が好き。恋人に求める第一要素は優しさ。休日はダラダラして過ごしたい。二人とも左利き。共通点はお互いに多く、意気投合するまでそんなに時間はかからなかった。
俺は幼い頃に母を病気で亡くしていて、いわゆる父子家庭で育った。
片親の子どもには、いくつか特徴が出るのだという。甘えるのが苦手。我慢強い。自立心がある。自分の気持ちが言えない、等々。
ところが俺の場合、良くないほうの特徴ばかりが出ていた。一人で問題を抱え込んで、人に甘えるのが苦手で、身の回りのこと、とりわけ家事全般が苦手だった。
仕事からいったん離れてしまうと、とにかくだらしなくなるのだ。長い休暇があっても外出せずに引きこもって寝てばかりなので、突然やってきた葉子に叩き起こされたりしたものだ。葉子とてそこまで家事が好きなわけでも几帳面でもなかったが、それでも俺よりは勤勉だった。少しだけ。ほんの少しだけ。それがきっと、ちょうどいいバランスだった。
『おふとんの魔力に屈しちゃダメだー』
笑いながら葉子が俺の布団をはがす。
『これから夢の国(ワンダーランド)に行くよ』
『なら、もう一回寝なくちゃ』
『違うわよ。本物の夢の国よ』
そうして半ば強制的に連行されてきたのが、奇しくもこの遊園地だった。
親からあまり愛情を受けられずに育った俺は、世話焼きな葉子に、自分が思う理想の母親像を重ねていたのかもしれない。知らず知らずのうちに、彼女にどっぷりと依存してしまっていたのだ。
お互いの足りない部分を埋めあうような関係だと思っていたが、本当にそうだったのだろうか。明らかに、俺のほうが依存度が高かった気がする。
「私の提案に乗ったのは、そんな過去があったからですか」
「そういうつもりはなかったが……もしかしたらそうかもしれないな」
俺も葉子も絶叫マシーンが苦手だったのに、あのときはなぜか意地を張り合って二人で乗った。二人そろって具合が悪くなって、今日と同じように日が沈んでから観覧車に乗った。
何を話したのかは覚えていない。心地よい空気が二人の間に流れていたのだけはよく覚えている。
「それなのに、葉子は死んでしまった。……なあ、記憶消去方って知っているか? あ、いや……知っているはずはなかったな」
柚乃が記憶喪失なのを失念していた。すぐに発言を差し替えたのだが、意外にも彼女は「知っていますよ」と答えた。
「知っているのか?」
「この間、テレビでCMが流れていましたし」
「ああ、それもそうか」
記憶がないのだし、情報収集のためかもしれないが、柚乃は毎日かじりつくようにしてテレビを観ている。そりゃCMくらいは目にするか。
「その、記憶消去方を実用化するための研究を進めていたのが、葉子なんだよ」
「え? それって本当なんですか? めちゃめちゃすごい人じゃないですか!」
「ああ、本当だ。実際、葉子はすごい人だったよ。ところが、実用化まで秒読みとなったある日、彼女は自主的に研究チームから外れたんだ」
「え……? どうしてですか?」
「さあな……。実のところ、俺もよくわかっていない。ただこれだけは言える。研究の被検者として協力してくれていた人物が何人かいたのだが、そのうちの一人がある日自殺をしたんだ。それが、おそらく引き金となった。あれは……本当に突然のことだった。自殺騒ぎがあったのは研究が大詰めに差し掛かった頃で、自殺をした理由は、今もよくわかっていない。研究に何か問題があったのか? それとも、その女性のプライベートで何かあったのか? まったく、何も」
我妻教授と葉子の他にも、多くのエンジシアが研究に携わっていた。同時に、多くの被験者――誤解を恐れずに言うなら――実験体だ。
そのうちの一人が、ある日研究施設がある建物の三階から飛び降り自殺をしたのだ。
その女性の名は
葉子は、被験者たちとの交流を積極的に行っていた。その過程で神崎さんとも仲良くなったのだろう。葉子から時々彼女の話を聞かされていた。
研究は極めて順調に進んでいて、被験者の脳神経細胞へのアクセスが何度も行われていたが、問題は何も起きていなかった。神崎さんの体調も、精神状態も良好だったのだ。
それなのに――神崎さんはある日突然自殺してしまう。それから間もなくして、葉子は研究から降りた。
「神崎さんの死に事件性はなかった。だが、自殺だったのか事故だったのか、そこからしてよくわかっていない。それでもこれだけは言える。被験者たちのメンタルケアを主に行っていたのは葉子なんだ。神崎さんが自殺をしたことで、葉子は自分を責めていたんじゃないのかと」
研究から離れたあとも、葉子は何か調べものをしているようだったが、何を調べていたのかはわからない。葉子は何も記録を残していなかったし、チームを離れた理由について、俺に語ってくれることはなかったから。
とりつくろったような笑みを浮かべていることが多かったように思うが、元来、葉子はあまり本音を語らないタイプだ。それは、葉子の長所でもあり短所でもあった。だから、俺は心のどこかで安心してしまって、あまり突っ込んで聞こうとしなかった。今となっては、問題を先送りにしてしまったことを後悔している。それから一年と少しして、葉子は自殺をしてしまったのだから。
何か悩みを抱えていたのではないかと、今は思っている。後悔、先に立たずだ。
「悪い。暗い話になっちまったな」
「それでいいんですか?」
「へ?」
ひどく真面目な声が飛んできて、まぬけな声がもれてしまう。
「それでいいんですか? 今の話を聞いている限りでは、どこかきな臭いです。何か秘密を知ってしまったことで、葉子さんは追放されたんじゃないんですか? そういった事実が、何かあるんじゃないですか?」
なかなか鋭いところをついてくる。今の話だけでそこまで――いや、それだけ、誰の目から見てもきな臭い顛末だということか。
わかっている。わかっているさ。
「俺にも、そう考えていた時期があった。だからこそ、葉子が遺書を残してはいないか、彼女のパソコンの中に何か秘密が眠っているんじゃないか、彼女と研究チームの間に、何かいざこざがなかったのかと、多方面から調べてみたんだ」
けれど、と俺は続ける。
「何もなかったんだ。彼女のパソコンの中に残っていたのは、趣味で書いたと思われる日記のような記事と、プライベートで撮った写真だけ。彼女の退職理由は一身上の都合としかなっていないし、研究チームのメンバーとの間に不仲はなかった。じゃあ、どうしようもないじゃないか? 研究は無事完成して、事業として順調に成長を遂げている。なら、それでいいじゃないか」
忘れるほか、ないんだよ。
それからしばらく、柚乃は沈黙した。
「そうだったんですね。……出過ぎた真似をしてすみません」
続いた謝罪の声は、どこか儚げだった。
ゴトゴト……と、ゴンドラがきしむ音がする。月が眼前に迫っていた。頂上はもうすぐだ。今乗っている観覧車と同じで、人生の中にも、もしどこかに頂上があるのだとしたら、俺の場合は葉子と暮らしていたあの数年間だったのだろうな。ここから先は、下っていくだけの人生だ。
大した目的もなく、惰性で過ごす日々。
「観覧車が頂上まできたところで、俺と葉子はキスをしたんだ」
言ってすぐ口を塞いだ。いったい俺は何を口走っているのだろう。彼女は葉子じゃない。それを言ったところでどうなる。
「その日も、夜景が綺麗でしたか?」
表情ひとつ崩すことなく、柚乃がそう言った。
おもむろに立ち上がって、俺の隣に移動してくる。重心が寄ったことで、ゴンドラがわずかに傾いた気がした。
「ああ。月が綺麗な夜だった。今日と違って、満月だった」
ゴンドラが頂上に達したタイミングでは、他のゴンドラからこちらの様子が見えなくなる。キスをするには絶好のタイミングだと、俺は、いや、俺だけではなく葉子もきっとそう思っていた。
だからあの日、キスだけでは止まらなかったのだ。
今、月が半分になっているのは、葉子が欠けてしまったからか。
空と地上の双方に、星屑が広がっていた。今も、あのときも。
「もし、私が葉子さんの生まれ変わりだとしたら」
柚乃が俺の手を握る。
「欠けてしまった薫さんの半分を、埋めることができるのにね」
握られた手が、柚乃の膝の上に導かれた。ほんのりと温かくて柔らかい。透明感のある白い肌と、スカートの裾が自然と目に入る。
柚乃の、まつ毛の長い瞳は伏せられていた。あの日、葉子と二人で乗ったゴンドラに、彼女とよく似た少女と乗っている。見ず知らずの少女が、葉子が着ていた衣服に身を包み、俺の手を握って自分の膝に触れされている。
あの日、葉子は瞳を閉じて、
ここにいるのは、少し似ているだけの他人だ。
「すまない」
何に謝ったのか、自分でもわからなかった。握られていた手を解き、体の横できつく握った。
ゴンドラは、次第に下降を始めていた。
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