55. 葡萄の涙

 この頃は、はぁっと息を吐いても、呼吸の存在がわからなくなってきた。


 朝晩は縮こまってしまうような寒さで、ベッドの中で体温の高いリュカとずっと微睡んでいたいくらいだけど、日中は雲間を割って、陽が燦々さんさんと降り注いだ。



 僕はいつもの通り、毛皮のコートを着込んで、葡萄畑を足早に歩いていた。

 畑の斜面は陽に照らされてぽかぽかで、動いていると少し暑い。

 たまらず、帽子とマフラーを脱ぎ、コートのボタンを外してしまった。


 ほうと息を吐いた僕は、葡萄の段々畑の中腹で立ち止まって、町をぐるっと見下ろす。

 枯れた剥き出しの地面には、所々雪が残っていた。

 その雪も、この陽にゆっくりと溶け、静かに地脈に染み入っていくのだろう。


 白の山脈から、風がびゅぅと僕の頬を撫で、通り抜けていく。

 立ち昇る、土と、湿った水の匂い。

 鳥がさえずる声も、虫の音も、まだ聞こえないけれど。



 もう冬が終わる。

 そんな予感がしていた。






 僕は今日、ヌーヌおばさんに誘われて、昼過ぎから畑の点検に来ていた。

 雪が溶けて暖かくなってきたので、いつ葡萄の樹が冬眠から目覚めても良いように、様子を見守るのだそうだ。


 葡萄の樹が目覚めると、農作業の始まりの合図らしい。


 そのヌーヌおばさんは、「よっこいせ」と腰を落として、土の様子を見ている。

 少し掘り返して、硬い土を手に握り、崩しながらぽろぽろと自然に返していた。



「おや、まあっ。ルイ、見ておくれっ」



 ふと、ヌーヌおばさんが何かに気づいたようで、そう言って葡萄の樹を指差した。

 僕も近寄って、よく見てみる。一見すると、枯れたようにしか見えない樹だ。

 その樹が、露をつーっと溢している。



(ん?露?朝でも夜でもない、この昼日中に?)



「ヌーヌおばさん、これは……?」

「あたしたちは『葡萄の涙』と呼んでるよっ。ほらっ、ここ」



 ヌーヌおばさんが、冬支度で剪定した枝の切り口を見せる。

 透き通った葡萄の涙は、確かにそこから滴っていた。



「これが、葡萄の樹が目覚め出した合図だねっ」

「へえ、これが……」


「根が雪解けの水をたっぷりと吸い上げて、こうやって幹や枝に残っていた古い水を追い出しているのさっ。そうして、まっさらで綺麗な水で満ちたら、新しい芽や葉を出し始めるんだよっ」

「そうなんだ……!」



 こんなにも、朽ちているように見えるのに、しっかりと生きている。

 凍るほどの厳しい冬をじっと耐え忍び、温存していた生命力を、今やっと巡らせているのだ。



「ただねえ、まだまだヴァレーは、冷え込むことがあるのさっ。新しい芽は、霜にあたっちまうと凍って死んじまう。これから世話が大変になるよっ」



(そういえば、そんな話を随分前に聞いたな……)



「確か、霜が降りたら、発熱ヒート発火ファイアで焚き火をつけて回るんだっけ」

「そうさね。あとは、夕方にわざと水を撒いて凍らせて、風から樹を守ったりもするねっ」

「うわ〜、それは大変だ」



 急に冷え込んだ日の夕方に、この広大な葡萄畑全てに焚き火をつけ、水を撒いていく。

 その労力は、いかほどのものだろうか。想像するだけでも、つらい。



 そんな話をヌーヌおばさんとしながら、僕はミトンを外し、未だ流れている葡萄の涙をそっと手のひらで受け止めてみる。

 ぽたぽたと、冷たい水が溜まり、手のひらに小さな湖を作っていく。



 この時、僕はなぜそうしようと思ったのかはわからない。

 ただ、この葡萄の涙がとても神秘的で、不思議で、ただの水のように思えなくて。

 何気なく、鑑定をしてみようと思っただけなのだ。



(鑑定)



 ーーー


 名前:葡萄の涙

 状態:優

 説明:飲用可。葡萄の樹の古い樹液。長く樹に蓄えられていたため、神の加護を受けた樹と大地の力が溶け出している。無味無臭無刺激。天然の美肌水で、肌に染み込む。保湿力が高い。


 ーーー



「!?」


(え?天然の美肌水……?)



 その思いもしなかった結果に、僕は静かに息を飲んだ。

 周囲を見ると、いくつもの枝が静かに涙を流している。

 中には、地面に水たまりを作っている枝さえあった。


 この全てが……?美肌水?



(も、もしかして、僕、とんでもないものを見つけちゃったんじゃ……!?)



 女性の美へのあくなき探求は、実に怖いと聞く。

 こんなこと、ヌーヌおばさんには話せない。

 目の色が変わってしまいそうで、空恐ろしかった。



(だ、誰に……。そうだ、レミー!)



 この時、僕の脳裏に浮かんだのは、仏頂面をした、けれども頼りになる白皙の麗人だった。

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