第9話

 昭和十五年は皇紀二千六百年に当たり、元旦早々から、ラジオは橿原神宮の初詣を中継し、国民は宮城を遙拝し、大阪湾に集合した連合艦隊は『皇礼砲』を打ち、東京の七か所のデパートでは『皇紀二千六百年奉祝展覧会』を開くなど、祝賀ムード一色で盛り上がっておりました。皇紀二千六百年と申し上げても、ピンと来ない方も多いのではないでしょうか? 記紀によれば、昭和十五年が神武天皇が橿原宮で即位されて二千六百年目にあたると言う次第なのです。東京オリンピックや万国博覧会も予定されました。ただ、長引く支邦事変の影響でそれは実現しませんでした。

 さて十五歳になられた衣都子先生は、高等女学校三年生にご進級なさっていらっしゃいました。高等女学校の東洋史・西洋史の時間では、イギリス・フランス・オランダ・アメリカなどが悪辣極まりない方法でアジア諸国を侵略し搾取(さくしゅ)を行っている、と教えられました。事実、インド・マレー半島はイギリスの、インドシナはフランスの、インドネシアはオランダの、フィリピンはアメリカの植民地でした。アジア各国の民族独立の動きは、欧米の宗主国にねじ伏せられていました。そして、日清・日露・第一次大戦と勝ち続けていた大日本帝国が、東アジアで台頭し始めると、卑怯な事に欧米列強は、ニ度の軍縮会議を開き、日本の海軍力を米英に劣るよう制限をつけてきた、とも教わっておられました。

 昭和十五年七月、第二次近衛内閣によって『東亜新秩序』が打ち出されました。『東亜新秩序』とは、植民地支配されているアジア諸国を欧米列強から開放し、同じ東洋の大日本帝国と共存共栄しようと言う構想でした。イギリスやフランスが、ポンドやフランでブロック経済圏を囲ったように、東洋の開放と言う名目で、円のブロック経済圏を作ろうとしたのです。と同時に、この『東亜新秩序』が後の太平洋戦争の大義名分になっていきます。

 話は前後いたしますが昭和十五年五月には、マッチや砂糖が切符配給制になりました。『ガソリンの一滴は血の一滴』は有名な標語ですが、揮発油は昭和十三年から、地下足袋や軍手などの綿製品は昭和十四年から、すでに切符配給制でした。そしていよいよ、日用品もその対象となり始めたのです。切符配給制と申し上げても、これもピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。昭和十二年四月に『国家総動員法』が施行された事は前述しております。『国家総動員法』は日本のモノとカネとヒトを遠慮会釈なく国が召し上げる事が出来る法律でした。農家は決められた自家保有以外の農産物を、工場は製造物を、安い値段で国に供出しました。すべては戦っている兵隊さん優先にしなければならなかったからです。軍に優先されたあとの品物が国民に分配されました。米だけは無償で配給されました。それ以外の物品は、状況に応じて配分された切符の点数を、各家庭が工夫して、有償で購入するようになったのです。砂糖・マッチ・米・味噌・醤油・塩・木炭・煙草・酒……、様々な物品がその対象となりました。時代が経過するに従って品目が増えました。先生のお母様が扱っていらっしゃった衣類も対象になってまいります。多くの日本人は、「あれっ?」と思い始めました。『腹が減っては戦は出来ぬ』でございますから、何事も兵隊さんに優先されるのは当然ですが、ここまで規制されるのかと、少し不安を感じ始めました。ただ昭和十五年は、配給制が始まったばかりでございました。ですから多くの国民は、『今が辛抱のしどころ、もう少しの我慢で全ては良い方に傾く』と、高をくくっておりました。

昭和十五年七月七日は、お母様の洋裁店に暗い影を落とした日でした。『奢侈品等製造販売制制限規則』、通称『七・七禁令』が発動されたのでした。贅沢品に対する白眼視は、出口が見えない日中戦争の中で、『七・七禁令』発動の前からありました。しかし反面、軍需成金も多数生まれ、奢侈品を嗜好する層も増えておりました。お母様の洋裁店は、そんな富裕層を相手になさっていました。そうして陰に誹謗中傷はあったものの、お母様のお店は販売助手も含めて常時十人ほどの若い女性従業員を抱え、小川町の一等地で繁盛していらっしゃったのです。しかし『七・七禁令』が発動、いえ正確には禁令が発令されると噂に立ち始めた頃から、お店の雲行きは怪しくなってまいりました。第一、数年前から高級な絹織物や舶来の綿織物毛織物は、もう仕入れる事は困難になっていらっしゃいました。特に綿は、英領インドとアメリカに依存していました。綿は貴重品となり、昭和十三年には一般への供給は規制された事は、既に申しあげたとおりです。綿に代わりスフが出回るようになり、お母様のお店にも並んでいました。小川町には高級時計やカメラを扱うお店もございました。呉服や貴金属のお店もございました。『七・七禁令』の災難を被ったのは、お母様のお店だけではございませんでした。お母様のご実家の陽清堂も、砂糖と米粉が配給切符制となり、菓子製造がままならなくなっておりました。とにかく軍用の日常品、軍用の衣類、軍用の食糧、軍用のお菓子と、すべて軍に優先・独占されていたのでございます。国民が干上がっても、軍への優先・独占には拍車がかかり、歯止めはかかりませんでした。

お母様の洋裁店にも『七・七禁令』に違反しない商品だけが並び、いい筋のお客様を満足させる事が難しくなってきておりました。それにお客様の方も『七・七禁令』を憚り、足が遠のいていました。お母様のお店は暇になってまいりました。従業員も一人欠け二人欠け、昭和十五年末には、女中のミサさんと二人のお針子さんが残るのみとなりました。その二人のお針子さんも昭和十六年の夏には、女子挺身隊として、横浜の軍服工場に動員されました。

昭和十五年十月十二日には第二次近衛内閣が、ドイツ・ナチス党のような『大政翼賛会』と言う政治結社を発足させました。日本中の国民を、この『大政翼賛会』に組みいれて戦争遂行に協力させようとしたのです。町内会の下に隣組と言う『大政翼賛会』の末端組織が作られました。こうして上意下達が、日本の隅々まで徹底していきました。隣組にはまた、互いを牽制し監視し合うと言った面がありました。世間体に敏感な日本人には、隣組は絶大な効き目を発揮しました。

昭和十五年十一月十四日の朝、つまり『大政翼賛会』が発足してから一か月後の朝。先生がご朝食を召し上がっていらっしゃったところへ、

「こんなものが、貼ってあったの」とお母様が卓袱台に一枚の紙を広げられました。その紙には、『ぜいたくは敵だ!』と書いてありました。この有名な標語は、その年の夏に国民精神総動員本部が流布したものでございます。

「いやねぇ……」。お母様は溜息をつかれました。女中のミサさんが、目ざとく茶の間に入って来ました。

「嫌がらせですか、奥様」

「ウインドウの硝子に貼ってあったのよ」

ミサさんは、手を噴きながら卓袱台を覗きました。

「ミサさん、上から覗き込むのは、お行儀が悪いわよ」。お母様は、ミサさんに窘(たしな)まれました。

「すみません」と言ってミサさんは座り、

「隣組の組長の奥さんが、山口の奥さんや安田の奥さんと、熱心にウインドウを覗いていたって、昨日、関根さん(洋裁店の従業員の名前)が言っていました」と続けました。

「丸山の奥さんが……」

「はい……、ひょっとすると、組長の奥さんの仕業と違いますか……」

先生のお家の裏口は、庭の黑塀を介して住宅街に繋がっておりました。裏木戸を開けますと、正面に隣組組長宅の門が見えました。組長は丸山と言う苗字で、子供がいなかったので、夫婦ふたりで暮らしていました。丸山組長は秋田の佐竹家中の江戸詰めの子孫だとかで、その父親は陸軍大佐にまで昇りつめ、日清日露の役で指揮を執っていたらしいのです。組長は三男で日露戦争では少尉として旅順で軍刀を振った、とよく自慢話をしていました。ワシントン軍縮会議後は予備役(えき)になり、区の仕事をしました。区を退職してからは、暇を託って町内の世話役をやり、『大政翼賛会』の結成で隣組の組長になりました。組長の奥さんは後妻で愛国婦人会神田支部の幹部でした。奥さんは陸軍中将の三女。中将と大佐では天と地ほどの差がありましたが、中将の三女と大佐の三男の夫婦も、奥さんの方が立派に見えました。「何事も気の緩みから……」で始まる組長の奥さんのお小言は有名でした。また丸山組長管轄の地域は、掃き清められたように清潔で、組長の奥さんの目が行き届いているからだと、夙に人の口に上(のぼ)っておりました。ただ近所同士は、近所同士の噂をするのが大好きです。「丸山の奥さんは、〇〇陸軍中将の三女らしいが、妾の腹だって。だから、負けん気から、立派に振舞っているようだぜ」と、どこで聴いて来たのか、ずいぶん深入りした話をする人もいました。

「丸山の奥さんが貼ったかどうかは分からないけど、万が一そうだったとしたら、残念だわ。お上に逆らった生地は、もう扱っていないのに、分かってもらえないのかしらね」

そうなのです。お母様は『奢侈品等製造販売制制限規則』に従って、特上の生地は奥に仕舞われ、赤字覚悟で規則以下に値段に落とした洋服地しかお店に並べていらっしゃらなかったからです。お母様は貼り紙を丁寧に折りながら、

「でも、丸山の奥さんは、嫌がらせするような、底意地の悪い人じゃあないわ。真面目だから、責任感で貼ったのよ。いつもなら遠慮なく苦言を言える人だから……。商売のことだから、直接口では言えなかったのよ」とおっしゃいました。

先生も丸山の奥さんの真面目さをよくご存じで、お嫌いではごさいませんでした。「何事も気の緩みから……」で始まるお小言も、生一本な心情を吐露するものと介していらっしゃいました。以心伝心と申しますか丸山の奥さんも、先生を気に入っていました。丸山の奥さんは子供がいなかったせいもあり、幼い頃から先生を「可愛い。可愛い」といとおしがり、女学校に上がられ愛国少女ぶりを発揮されはじめると、「ご立派な大和なでしこにおなり遊ばして……」と、目を細めていたのです。そして、二人してお調子者で、気が合っていました。

「彩子、今日の常会(隣組の定期的な会合のことです)は、お母さんの代わりに行ってくれないかしら。お母さん、決まりが悪いわ。お願いしていい」

「ええ、いいわよ」。先生はお調子者らしくご返事なさいました。

 先生は、常会で作る慰問袋に入れるお菓子の代金一円を受け取られ、裏木戸から女学校に向かわられました。そして貼り紙があったウインドウをご確認しようと、表通りに回られました。マネキンが、ツゥイードのオーヴァーコートを羽織って、すまし顔で立っていました。マネキンの日本人離れした顔をご覧になると、これじゃあ丸山のおばさんの逆鱗に触れるのも仕方ないわ……、などとお思いになられました。その時、お母様のご実家でお飼になっていらっしゃった猫のタマが、少しよろけながら先生の方に歩いて来ました。お母様のご実家は先生宅と同じ小川町二丁目にあり、五十米と離れておりませんでした。タマはその間を、見回りのように行き来するのが日課となっていました。タマは先生が物心お付きになった前から飼われており、人間で言えば相当のおばあちゃんでした。

「タマ!」

先生はお屈みになり、優しくお声をお掛けになられました。

タマは尻尾を少しピクリとさせ、拭いても拭いても出てくる目ヤニの顔を、面倒くさげに先生に向けました。

「タマ!」

タマは「ニャー」とも鳴かず、かがまれた先生の横を素通りしました。ほんの数か月前までは、先生の姿を見ると纏わりついていたタマ。タマは何事にも無関心の老境に入っているようでした。先生はタマのよろける足取りを見送られながら、少し悲しいお気持ちになられました。

 先生がお通いになっていらっしゃった女学校は、近所の神田猿楽町にございました。創始者を儒家とした私立の女学校で、校訓を『恕』とし、良妻賢母の育成を旨とする校風で広く知られておりました。お母様もこの女学校を出ていらっしゃいました。

まず先生は、校門を潜ると御真影のある奉安殿に向かって最敬礼をなさらなければなりませんでした。授業が始まる前には宮城に遙拝をされ、教育勅語を奉(たてまつ)られなければなりませんでした。これらの儀式は日本中の学校で行われていました。この頃、学校では『精神』がしきりに喧伝(けんでん)されていました。『国家総動員法』の煽りを受けたのです。大正ロマンは夢のかなた、昭和モダンは昔日にかすみ、国と皇室に対する従順と奉仕が強調されていました。また『精神』は、掘れども尽きぬ資源でした。資源に乏しい日本は、この『精神』を拠りどころにしました。

その日の一時限目は修身(今で申します道徳の時間でございます)でした。修身は、いつも『国体の本義』から始まっておりました。修身の女教師は、雑誌『アララギ』に歌を寄せる才媛でした。

「申すまでもありませんが、日本人には大和魂がございます。ですから戦争をしても、万世一系で万古不易の大君の領(し)ろしめす神州大日本帝国は、負けたことがないのでございます」

先生は涙が出る程に感極まり、その場で胸を張って足踏みしたくなられました。オリンピックなどで日本選手が金メダルをもらい、『君が代』が流れる中、『日の丸』が掲揚されると、どうのこうのと言いながら、皆さんもお胸が熱くなるかと思います。それと似ております。

「大和魂が、どういうものかと申しますと、すなわち忠孝仁義礼智信でございます」

女教師が凛々と張り詰めた声でこう言った時、先生は、それは違うと思われました。儒学を基(もと)とした女学校でしたので、大和魂を忠孝仁義礼智信に結び付けた事は理解しようとはされました。しかし、大和魂は支邦の道徳の延長にあるものではない、とお思いでございました。

先生はつい最近、斜め読みされた『葉隠』で、次のような本居宣長の詩歌に出会われました。

『敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山ざくら花』

(切れ味の良い秋水(しゅうすい)で、肩から背中にかけて切りつけられたようだ。気迫の詩だ。致命の傷でも痛みを感じず、散る桜花の一片を拾い上げた時、そこではっと息絶えらせる切れ味がある。いい)

先生は更に思われました。

(大和魂も、同じだ。正義大義のためなら、どんな痛みも全身を貫く快感とさせる気迫が、大和魂だ。そんな思いにお浸りになっていた時、かつてお母様がお口にされたダンマツマの事を思い出されました。ダンマツマ。断末魔……。確かに恐ろしい漢字。身体を切られる快感だなんて、そんな馬鹿な事はない。わたしは、なんて下らない夢想に酔っているのだろう)

先生はグッと顎をお引きになりました。

「皆様は、何のために生きるのでしょう。それは、立派な母となり、お国に尽くす強く賢い子供を産み育てるためです。そのためには、よく学び、親孝行を尽くし、家庭を守る術(すべ)を会得し、節約に勤め……」

女教師は歌を詠むように言いました。ご本を人より多く読まれていた先生には、この言葉は物足りなく感じられました。

男子の通う中学校では、陸軍将校が配属され軍事教練とともに、『軍人勅語』が唱和されていました。「義ハ山岳ヨリモ重ク死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ」。そして、「お国のため、軍旗の下に命を捧げろ」「大君のため、盾となれ」と教えられていました。そこには思春期の少年が夢中になりそうな、恰好がいい響きがございました。格好がいい。これは、男子の浪漫なのかもしれません。同時に、生きる意味を、こんなにうっとりするロマンで語られ、押し付けられ、決めつけられる事は、それは非常に楽なものとも言えました。

 (わたしは、何のために生きるのだろう)

女子である先生はまた深く悩まれました。愛国心の強い先生は、

(男子と同じように「国と大君のために死ぬ」ことが、わたしの生きる意味であってもいいではないか)と思われました。それは、うっとりするような恍惚でした。男子の格好がいい浪漫とは違った、少女趣味の恍惚でした。その恍惚は、『涙ごっこ』の陶酔と近いものがありました。

そこへまた、お母様の言葉が聴こえて参りました。

「決して『死』を、見くびってはいけませんよ」。

先生の瞼の裏の、ふわふわした『死』の舞台の書割は、剃刀でズバッと切り裂かれました。(わたしは何度、下らない夢想に耽っているのだろう。断末魔。断末魔。『死』は恐ろしいものだ。『死』の瞬間は苦しいのだ。安っぽい恍惚に浸る相手ではない。もっと真剣に考えなければならない相手なのだ。男子が恰好いいと思う「国と大君のために死ぬ」なんて言う浪漫は、安っぽい催涙劇なのだ)

そしてまた、

(わたしは、何のために生きるのだろう)と思い沈まれました。

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