第3話
ザッカスは一家の住む街で聞き込みから始めることにした。
崩れかけの建物や人が住まなくなって荒れた家、人の気配がする場所は落書きで埋まっていたり、壁が剥がれたり、屋根が窪んでいるこの一帯は、淀んだ空気が流れている。ごみが無造作に道端に散らばり、じっとりと張り付くように臭気がする。軽い情報なら相談者であるチャールズから聞いていた。一家の夫婦は共働きであること。一人息子がいること。暮らしぶりが巧くいっていないこと。とはいえ、今の人間暮らしぶりは巧くいっていないことがほとんどだ。一部の富裕層と成功者は獣人社会へうまく転換したが、実際の人間たちは躓いたり変化に馴染めないままうだつの上がらぬ暮らしぶりをしている。そんなものだから、獣人への恨みつらみを口に出す者も少なくない。
たった数十年で労働の基盤も社会の基盤も逆転したのだ。使うものから使われるものへ。見下す側から見下される側へ。
人間の住む土地はいつも薄暗い気配が漂っている。絶望や諦観というより、ザッカスには疲弊に感じる。静寂。
この先、明るい未来は自分達にあるのだろうか?この暮らしは一体どこまで続くのか?
「あの一家のことを聞いてどうすんだい、あんた、借金の取り立て屋か?」
ザッカスは近隣の雑貨屋の店主に声をかけてみた。店主は警戒し、怪訝そうな顔をする。ザッカスはデモアに用意されたスーツと下ろし立ての靴を身に付けている。どちらも上等なものだった。そういった人間はこの辺りじゃ珍しい。
「あー、まあ、そんなところです」
「そんなところってどんなところなんだい」
「あー」
不審な視線が突き刺さる。
「犬の、スモモのことで」
「あんた、環境健康委員か」
「の、使いっぱしりです」
環境健康委員会は、人間に飼われているペットの暮らしを見守る団体の名前だ。あながち嘘ではない。
「大方、あの狼のやつに言われたんだろう!」
店主はしかめっ面をした。
「あんたも人間なら分かるだろ、犬を大事にしたくても今のわたしらじゃ無理だよ」
「……………」
「あの一家だって、ほんとは犬好きなんだ、でもわたしらは必死に働かなきゃいけない。そうだろ?」
ザッカスは言葉を選び、選んだ挙げ句、率直に尋ねた。
「そちらのお宅で、実はペットの犬を虐待しているということは?」
「いい加減にしろ!出てけ!」
店主が怒ってザッカスを叩き出した。ザッカスは謝ってその場を立ち去る。
ほかにも聞き込みをしてみたが、おおむね似たような話だった。
「仕方ないだろ、貧乏なんだから」
「あの犬は可愛がられているよ」
「気取った狼野郎め!余計なことばかりしやがって!」
いや待て、とザッカスは立ち止まる。スモモが虐待されているかどうかを知りたいのではないのだ。殺せとお願いされたことに対して結果を出さなきゃいけないのであって、しかし、デモアに告げた通り、ザッカスにスモモを殺すという選択肢はなかった。
「おじさん、スモモを連れていくの?」
他に聞き込みできないかと歩き回っていると声をかけられた。振り向くと十歳頃の少年だ。痩せていて、顔も服も薄汚れており、靴もボロボロで靴先に穴が空いている。暮らしぶりは一目瞭然だった。
「あー、…………」
ザッカスはかぶりを振った。
「分からない。必要ならそうするかもしれない」
「やめてよっ!」
声は大きかった。悲鳴のような声に、周囲の人たちの目がこちらを向いた。
「スモモはうちの犬だ!!」
少年の叫びに伺っていた周囲の人たちが、ぞろりと怒気を孕んでザッカスに足を向ける。
ザッカスは、取り繕うように肩を竦めて、その場から急いで逃げた。
「お疲れさま!」
デモアの事務所は日当たりがいい。それで少し呼吸がしやすくなる。ここは懐かしい。ザッカスは自虐する。ここは、人間が取り上げられた世界だ。
マーサがお茶を淹れてくれる。ザッカスはスーツの上着を脱いだ。
デモアもロイもいなかった。
「どうです!解決しそうですか?」
「……………」
マーサは人間だ。
「あー、あの、ちょっと聞いてもいいですか」
「なんですか?どうぞ!」
「マーサさんはどうしてデモアさんに雇われたんですか?」
「あはは、気になりますか?」
「まあ、……気になります」
マーサはその質問に慣れているようだった。
「あたしね!前にも獣人に雇われてたんですよ」
お茶をどうぞ!とマーサが勧める。疲れたザッカスを労ってミルクと砂糖のたっぷり入ったミルクティーだ。
ザッカスは一口飲んで促す。
「それも、猿の獣人にね」
ザッカスの喉が鳴った。
マーサは笑う。笑うしかないようだった。猿の獣人の立場は、人間と同じくらい、あるいはそれ以上にこじれている。
「まあ、そんなわけで!デモアさんが拾ってくれたんです。あの人なんでも拾うから!世話を焼くのが下手なのにね」
マーサが言う。
ザッカスは付け加えた。
「不器用だしね」
「そう、ほんと、そう!!」
マーサが笑ってくれたので、ザッカスはほっとした。マーサが気を遣ってくれたのかもしれなかったし、これ以上ザッカスが質問を重ねることを拒否したようにも思えた。
猿の獣人は、人間に重宝されてきた過去がある。器用だったし、親しみもあったし、人間の不完全なものとして、足りなさを愛され侮蔑されてきた。獣人社会となってからは猿の獣人は人間に近しいものとして、他の獣人からは距離を置かれている。明確な差別はない。獣人社会はそういったことを嫌う。人間たちが行ってきた明確な間違いを恐れているからだ。ただ、実際に暮らす獣人たちは様々だ。猿の獣人の一部は人間たちを積極的に雇用し、友愛の印のように振る舞うがその裏では奴隷のように死ぬまで働かせたり、暴力や暴言など日常茶飯事だという。給料が破格にいい仕事は大抵猿の獣人の仕事だから気を付けろ、と人間達の間で囁かれている程だ。
ザッカスは正直、ほんとーに働きたくなかったから、いい加減なことをしながら借金を重ねて重ねて生きてきた。
果てにウインナーになる道があったのは、完全なる自業自得だ。それでいて、運良くデモアに助けられ、今、日当たりのいい場所でお茶を飲んでいる。
マーサは仕事に戻っていった。大量の紙の束を見ながらひとつひとつなにかを確認しているようだった。監査の仕事かもしれない。暫し呆けたようにザッカスはそんなマーサを眺めていた。
日が暮れてから、あの一家の様子を見るためにザッカスはあの街に舞い戻った。
灯りがついている場所は少ない。昼間、働いてなんとか保てている雰囲気が夜になるとまざまざと身に染みて降りてくるように、疲れの気配が一層濃厚だ。時々酔っぱらいの声がした。自暴自棄になる歌声が聞こえた。犬の声がする。スモモかもしれない。ザッカスは警戒しながら一家の様子を見に行く。
ぽつんと小さな灯りが見えた。少年の身なりからして分かるように一家の住む場所も困窮していた。割れた窓ガラスから人の話す声が聞こえる。資金繰りに困っているようだったが、ザッカスが聞き取れたのはそこまでだ。
――犬が吠えた。スモモだ。唸りと強い警戒の声に、ぱっと家全体の電気がついた。眩しい。
ザッカスは急いで逃げた。遠くから離れてもスモモは吠えていた。物陰に隠れて、落ち着くまで待ち、懲りずに距離を置いて様子を伺う。
「また借金取りかもしれない」
父親だろう声がした。
「大丈夫?」
不安げな母親の声がした。
「大丈夫。うちには優秀な番犬がいるからね」
よくやったスモモ、と誉める声がした。子供の声がする。応じる親の声。
ザッカスは息を吐く。
息を押し殺したまま、寝床として与えられている事務所に帰った。
「お疲れ様です」
デモアがいた。
デモアの事務所だから当然だ。
「ーー祖父はあんたに何をしたんだ?」
「どうかされましたか」
デモアのゴーグルに光が走った。
ザッカスはうんざりした気分で肩を竦める。
「別にどうもしないさ」
部屋にいこうとすると、デモアが引き止めるように尋ねた。
「なにか進展がありましたか?」
ザッカスは笑った。
「バルルダ・トライは極悪人だな」
「……理由をお伺いしても?」
「こんな世界、終わってもよかったんだ」
デモアがザッカスを見詰めている。そんな気配がした。
デモアの眼差しはゴーグルに覆われていてよく分からないのに、いつも真っ直ぐザッカスを捉えている気がする。
「あー、すいません、それじゃまた、明日頑張るんで」
「私にとって」
「え?」
「ジョージ・プライズは英雄ですよ」
ザッカスは顔をしかめた。
「それはどうも」
「ザッカスさんの好きなようになさってください。私があなたに依頼したのですから、すべてのことは私が責任を持ちます」
ザッカスはなにも答えなかった。
何もかもにうんざりしていた。
くだらない相談ごとやこの世界のこと、デモアのこと、そして自分自身にさえも。
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