第52話 あなたの人生に自分の存在を含めて欲しい
それから背後から抱かれる形で語り始めた私達だけれども、背中から伝わる体温や耳の辺りに当たる吐息に身体が変な期待を覚え始めていた。
壱嵩さんと出逢って、もうすぐで一年が経とうとしているけれど、未だこの状況に慣れない自分がいる。幸せ過ぎて、自分にとって都合のいい夢を見続けているんじゃないかと思うほどだ。
「一応、明日はホテルのディナーを予約しているんだけど、それでよかったかな? 海鮮メインのフルコース」
「そ、そんな良いものを? 私なんて手料理だったのに……恐れ多い」
「いやいや、これでも俺は正社員で明日花さんはパートだからいいんだよ。いつもは出来ないけど、祝い事の時くらいは贅沢させてよ」
壱嵩さんの中で、特別な存在になれていることが素直に嬉しかった。
単身赴任で遠くに住んでいる父は、当日休むのは難しく、その週の土日に祝ってくれたりしていたし、誕生日を覚えて祝ってくれる友達もいなかった。
すでにたくさんの幸せをもらっているのに、これ以上は贅沢な気がする。
「私は……壱嵩さんが傍にいてくれるだけで幸せなのに」
頬擦りをしながら猫のように甘えていると、彼の唇が耳に触れて熱くなった。
「俺もだよ。明日花さんと出逢ってから、俺の人生は一転したんだから。今更明日花さんのいない人生なんて考えられないし、手放したくもない。——いや、それだけじゃない。これから先、あなたの笑顔を一番近くで見るのは俺でありたいし、俺が……たくさん笑わせたい」
壱嵩さんの手が、私の左手を包んで、しきりに薬指の付け根を擦り出した。
二人の心音が重なる——……。
ベッドの端に隠していた箱を取り出して、ゆっくりと開いた。中に入っていたのは、キラキラと輝くダイヤの指輪。
ドラマや映画にありがちな、少女マンガな展開に声が出なかった。こんな夢のような出来事、一生自分には訪れないと思っていた。
「明日花さん、俺と家族になってください。これからは俺があなたの一番近い存在になって、あなたを支え続けます。だからあなたの人生に俺という存在を入れてください」
壱嵩さんは優しい人だから……酷いことは言わないだろうと思っていたけれど、心のどこかでずっと不安を抱えていた。
「私は他の人と違って、生まれながら障害を抱えていて……。私は仕方ないの、自分のことだから。一生付き合っていかないといけないものだって諦めていたから。でも壱嵩さんは違う。あえて私のような重荷を背負わなくてもいいのに」
彼の言葉は嬉しかったけれど、彼の人生を考えると素直に喜べなかった。好きだからこそ、愛しているからこそ、苦労かけたくなかった。
だが彼の手は離れることなく、しっかりと掴みながら言葉を紡いでくれた。
「俺は多動症という
子供のように無垢に笑う彼の表情に、涙が込み上がった。とめどなく溢れる幸せを止められなかった。
「壱嵩さ……っ、私……、私ィ……」
何度も頷き、この幸せを噛み締めた。この幸せがこれから先もずっと続くなんて、夢のようだった。
「死が二人を別つまで。ずっと明日花さんのことだけを愛し続けるよ」
「私も……、ずっとずっと、壱嵩さんのことだけを愛してる」
左の薬指にはめた指輪が、これから先の未来を照らしているようだ。私は涙を拭って、彼に抱き付いた。
「——っていっても、今までと対して変わらないんだけどね。変わるのは安心感と、明日花さんの名前くらいか」
「幸山明日花になるんだね。ふふっ、嬉し過ぎて頬が緩んじゃう」
「くっ、可愛過ぎか! ——けど、入籍届を出す前に、一つだけ伝えておかないといけないことがあるんだ」
さっきまでの柔らかい空気が一変して、真剣な雰囲気が漂い出す。
壱嵩さんの表情が曇り、影を落とし始めた。
「少しだけ話したことがあるかもしれないけど、俺の母親は——俺が働いている系列の施設に入所しているんだ。お金も掛かるし、決して裕福とは言えない状況で……」
「あ、それなら私も家にお金を入れるよ。今まで家賃や光熱費、壱嵩さんに甘えっぱなしだったし。障害年金やパートのお金とか、少しは足しになると思うから」
「いや、その件に関してはこれまで同様、俺に担わせてもらいたいんだ。贅沢はできないけれど、生活できないわけじゃないから。それくらいの甲斐性は果たさせてもらいたいんだ」
申し訳ないと思いつつ、彼に根負けして渋々頷いた。
「ただ——……俺の母に会わせたいと思って。気は進まないけれど、これでも俺の唯一の肉親だから」
彼の眉間に皺が刻まれた。
苦しそうに顔を顰める彼の頬に手を添えて、ゆっくりと微笑んだ。
「壱嵩さんのご家族なら、私も会いたい」
優しい壱嵩さんがここまで苦渋を浮かべるなんて、よっぽどなのだろう。私も……彼が背負っているものを半分背負いたい。愛する人に幸せに笑ってもらいたいと思っているのは、壱嵩さんだけではないのだ。
そんな私の気持ちが伝わったのか、彼は甘えるように私を抱き締めて、涙混じりの声で「ありがとう……」と伝えてきた。
———……★
「これがきっと、私達のスタート」
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