第27話 幼少期の思い出

「明日花、車は本当に危ないの。急に飛び出したら大怪我をしたり、死んじゃったりするんだからね?」


 道路を歩く度に口を酸っぱくして言っていたお父さんとお母さん。

 そんなに何度も言わなくても分かっているのに。


「分かったって。道路は飛び出さない」



 でも、頭では分かっていても興奮して忘れて走ってしまうことがある。

 その日は久々に会った友達と遊んで、つい走り回ってしまった。大声で奇声を上げて、無我夢中に走り回っていたのだ。


「明日花、危ないよ? 転んじゃうから走らないで」


 そんな母の忠告も聞こえないくらいテンションが上がって、私はそのままの勢いで道路へと飛び出してしまった。


 縁石を飛び出して、ハッとみた時にはもう車が目の前に遭って——瞬間的に運転手のおじさんと目が合った気がした。


 恐くて身体が動かない。


 強く目を瞑って全身を強張らせたその時、大きく身体が揺れて、気付いたらお母さんに抱き締められていた。


 ——すごく身体が痛い。


 あまりの恐怖に涙が溢れて、私はボロボロと泣き喚いた。


「お母さん、お母さん! わぁぁぁぁー……」


 だけど何かおかしい。

 いつもならすぐに心配してくれる声が聞こえない。

 ぐったりと、力尽きたように横たわる母の様子に、私はただただ恐ろしくなった。


「大丈夫ですか! 誰か、誰か救急車を!」

「母親が轢かれたぞ! 酷い、頭から血が出てる」

「お嬢ちゃん、大丈夫か⁉︎ 怪我はないか⁉︎」


 見たことのない光景が広がっていた。

 きっとこういう情景を地獄絵図というのだろう。


 動かなくなったお母さんを見て、やっと危ないということを理解した。


 だけど、もう遅い。

 今更理解したところで、手遅れなのだ。


「嫌だ、いやぁぁぁぁぁあああああああ‼︎」


 お母さん、お母さん!

 お母さんお母さんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさん!


「死なないで、死んじゃ嫌だぁ! やだ、やだ、お願いだからヤダぁ……っ!」


 もう、二度と抱き締めてくれないお母さん。


 私はもう、お母さんに愛してもらえないんだ………。


 ———……★


「君が明日花の彼氏の壱嵩くんだね。明日花から話は聞いているよ」


 大柄で男らしい顔立ちの男性だった。

 笑った時の顔が明日花に似ていて、やっぱり親子なんだと実感した。


 久しぶりに下ろしたスーツ姿で、菓子折りを持って挨拶に伺ったのだが、酷く緊張して足がガタガタ震えてしまう。

 だが、嬉しそうな顔の明日花さんを見るとそんな言ってる場合じゃないと思い直し、強く手を握った。


「明日花さんとお付き合いさせて頂いております、幸山壱嵩です。よろしくお願いいします」


 明日花さんからあまり父親の話を聞かないのでどんな人かと不安だったが、見た感じでは親子仲は悪くなさそうだった。


「——申し訳ないね、壱嵩くん。明日花はいい彼女でいるかな?」

「ちゃんと……と、言いますと?」


 親と言えど、失礼な聞き方に小さく眉を顰めた。そんな聞き方をしなくても、良い彼女だから交際を続けているのだ。


「言い方が悪かったね。いや、君は明日花のことを、どれだけ知っているのかと思ってね」

「あ——……それは」


 彼女の前で話して良いのか戸惑ったが、これから先のことを考えると腹を割って話すべきなのだろう。


 正直に言うと、しっかりと明日花さんから障害のことで話されたのは最近、それも世間話程度だ。


 日常生活に支障が出るほどではないけれど、生きづらさを患っている、そんな状況だということは見ていて察していた。


「明日花はね、三歳検診の時に指摘されて、ずっと療育に通っていたんだ。正直、少し落ち着きがないくらいで大したことないと思っていたんだけどね。妻が事故で亡くなってから一気に症状が悪化したんだ。情緒不安定になって、少しのことでパニックになりやすくなった」


 聴覚過敏だとは思っていたが、それは障害だけが理由じゃなかったようだ。

 パニック障害、鬱病、発達障害に起こりやすい二次障害。


「色々と手は尽くしたんだけどね。無力だったよ。結局、うまくやっているつもりだったけど、それは妻が用意してくれた土台の上のことだったんだ。妻がいなければ私は何もできないダメな父親だったんだよ」

「いや、そんなことは。自分の場合は介護職についているっていうのもあるんですが、何よりも身内に……母が精神を病んでいたので、人よりも知識があっただけなんです」


 対処法を知っていたことと、出会ったのが互いに成長していただけで、もしお父さんの立場だったらうまく出来たかの自信はない。


「——ダメだね、私は。娘のと思い出といえば叱ったことしか思い出せないんだよ。他にも良い思い出はたくさんあったはずなのに。こんな父親だったから、娘は私について来てくれなかったんだと嘆いたものだよ」

「それは——……」


 途中まで言いかけて、俺は口をつむんだ。

 おそらく明日花さんの状況を考えると、環境を変えることが怖かったのと、康介さん好きだった人と離れたくなかったのが理由だろう。


 幼馴染だと言っていたので、知っている可能性があると思い、あえて伏せておいた。

 娘の不貞セフレなんて知りたくもないだろう。


「しかし、こうして君のような青年に出逢えて、明日花は幸せだったな。何かと迷惑をかけるかもしれないが、どうか……娘のことをよろしく頼むよ」


 椅子から立ち上がって深々と頭を下げるお父さんに、自分も慌てて頭を下げた。


「それは自分にも言えることです。私は明日花さんと出逢えて、やっと生きる意味を知りました。身内のことを悪く言うのはよくないと思うんですが……小学生の頃から母の介護をさせられていて。いわゆるヤングケアラーだったんです。なんで俺ばかりって、母親がいなければ俺の人生はもっと違ったんじゃないかって……。自殺未遂を繰り返す母親を見て、俺が二人で楽になろうかと考えたこともありました」


 今まで誰にも打ち明けたことのない自分の黒い闇の部分。

 だけどこの人になら、いや……この人には打ち明けなければならないと思ったのだ。


「けれどその苦悩も、全部明日花さんとの未来に繋がったのだと思ったら俺は……生きていて良かったと心から思えるんです。あの時の地獄に比べたら、明日花さんとの毎日は幸せで……いっぱいです」


 もしかしたら今、うまくいっているだけの可能性もある。俺の発達障害への対処法がうまくいかなくて衝突することもあるかもしれない。


 それでももう、彼女との幸せを知ってしまったから、今更手放すことなんてできやしない。


「だから安心してください。俺は死んでも明日花さんのことを守ります」


 その言葉に、明日花さんのお父さんは小さく首を振って、苦虫を噛んだように笑った。


「ダメだよ、死んだら。君にはずっと……明日花のそばにいてもらって、支え続けてもらいたいんだ。私と妻が愛せなかった分まで明日花のことを愛し続けてくれ」


 彼女のお母さんのことを気付かされた俺は、熱くなる目頭を抑えながら何度も頷いて返した。


「約束します。俺は——この先ずっと、明日花さんを支え続けます」


 隣で黙って聞いていた明日花さんも、涙で潤んだ瞳を向けて手を重ねてきた。

 俺達はまた、未来に向けて一歩を踏み出すことができたのだ。



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