59:すふれが教えてくれたこと

 冷たい冬の空気が頬を撫でる。ようやく会える高揚感に白い吐息を弾ませながら、私は待ち合わせ場所である桜葉公園へと向かった。

 朝の公園内は閑散としているものの、ジョギングをしている人や犬の散歩をしている人と時折すれ違う。沿道に立つ木々のほとんどは葉を落とし、道沿いに束ねられた銀杏は所々に雪の名残を留めていた。

 春や夏と比べると咲いている花も少ないが、シクラメンやクレマチス、ノースポールなど冬に咲く花々を見かける度に心が和む。

 ここへ来るのも随分と久しぶりだ。晴見くんがスイスへ行った後に何度か一人で訪れたが、受験シーズンに入ってからは訪れることもなくなってしまった。


 園内を歩きながら、もうすぐ会える彼のことを想い返す。私たちが出会った時のこと、ほとんど話したこともないのに一緒にパンケーキを食べに行ったこと、小春ちゃんと三人でイベントへ行ったこと、この公園で好きだと言われた時のこと、学園祭の時のこと。

 全ての思い出が愛おしく、かけがえのない日々だ。

 晴見くんは、私の青春そのものだ。彼と出会っていなければ、私は今ここにいない。


 高校二年生の夏、晴見くんに連れられて訪れた水連の池へやって来た。

 橋の上から池を見渡してみたが、冬場ということもあり、当然のことながら水連の花は咲いていない。水面には丸形の浮葉と枯葉が浮かび、どこか物寂しい雰囲気を醸している。

 どこからともなく水面に二羽のカルガモが現れて、私の視界をのんびりと泳いでいった。水の中は寒かろうに、鳥たちは意にも介さずといった様子で浮葉の上を横切っていく。


 鳥たちを眺めていたら、背後に近付く気配に気が付かなかった。

「梓」

 名前を呼ばれて、声の聞こえた方を振り返る。

 そこには、最後に姿を見た高校二年生の時とほとんど変わらない彼の姿があった。

 

 寒さからか、晴見くんの頬はほんのりと赤く上気し、吐く息は白く染まっている。会えなくなってから、私を見て嬉しそうに笑うその顔を何度夢に見ただろう。

 愛しさや再会の喜びでこれほどまでに胸が苦しくなることがあるのか。

 言葉がうまく出てこない。代わりに目には涙が滲み、冷え切った頬の上を音もなく流れ落ちた。


「晴見くん……」

 その直後、私は彼の腕の中にいた。互いの身体が一つに溶け合ってしまいそうなほど、私たちは強く、もう決して離れることのないように強く、強く抱きしめ合った。

「ただいま、梓」

「おかえりなさい、晴見くん」

 互いの背中に腕を回したまま、私たちは顔を見合わせて笑い合った。なんだか気恥ずかしいけれど、目を逸らそうにも逸らせない。晴見くんがあまりにも愛おしそうに、長い間じっと私のことを見つめているから。

  

 

「その……帰ってくるのが遅くなってごめん」

 晴見くんは申し訳なさそうな顔をして言った。

「大丈夫よ。まあ、寂しくなかったと言えば噓になるけど」

 私が笑うと、どこか安心したように晴見くんも小さく笑った。

 やがて私たちの間を静けさが包み込み、決して気不味いわけではないけれど、これまでどんな話をしてきたのか、何を話したかったのか、途端にわからなくなってしまう。

「……梓、ちょっと痩せたんじゃないか?」

「えっ、そうかしら?」

「うん、絶対痩せた。前よりも更に」

 ロングコートを身に着けた状態で、痩せたかどうかなんてはっきりとわかるものなのだろうか。そんな疑問が浮かんだけれど、晴見くんの不安げな視線は私の身体ではなく顔に注がれており、それで納得がいった。

「大丈夫よ。ちゃんと食べてるから」

 そうは言ったものの、数日前までのろくでもない食生活が頭の中を過る。

「ほんとに……?」

「ほんとよ。少なくとも今は」

 

 真白すふれの炎上をきっかけに、私は少しの間──と言っても一週間程度だが──動画の配信やSNSの更新を休止している。

 いつ復帰するのかなんてまだ分からないけれど、それまでに現実世界の生活をまずは立て直す必要があると思ったのだ。

 体調が良くなってからは部屋を整理したり、スーパーで買った食材で自炊をしたりなど、これまで後回しにしてきたことを一つずつ行っていった。

 一週間もすれば、修復困難だと思われた世界が逆再生を始めたかのように、バラバラになったパズルのピースが一つずつ所定の位置へ戻っていった。

 

「あのさ、梓。すふれのことなんだけど……」

 晴見くんが腫れ物にでも触れるかのような口調で切り出す。

「もちろん、配信を続けるのもやめるのも梓の自由だと思う。だけど、無理だけはしてほしくないんだ。……なんて、これまでの梓の大変さをわかっているつもりで、何も出来なかった俺が言えることじゃないんだけどさ……」

 晴見くんは水面に視線を落とし、申し訳なさそうに唇を噛み締める。

 冷たいその手を取ると、彼は少し驚いた顔でこちらを見た。


「大丈夫。配信は続ける。だけど、もうしばらくは休むつもりでいるの。

 実は、大学に入って一人暮らしを始めたタイミングですふれの知名度が上がり始めて……私は私の動画を見てくれる人たちを楽しませるために必死だった。

 もちろん、それは良いことなんだろうけど、あまりに必死になり過ぎて、現実世界とのバランスが上手く保てなくなっていたの。

 情けない話だけど、部屋も散らかりっぱなしで勉強も疎かになって……ひどい生活をしてた」

 今にも泣き出しそうなほど、不安げな目をした晴見くんの手を私はぎゅっと握りしめる。

「でも、もう大丈夫。あの配信で、言いたいことを思いっ切り言えてすっきりしたの。あの瞬間は、私はすふれではなかった。氷見谷梓という現実世界を生きる一人の人間だった。私は言い方を間違えたかもしれない。だけど、言ったことそのものを後悔はしていないの」

 

 バーチャルの世界を生きるVTuber──真白すふれという存在。そして、そのキャラクターを演じる私。

 真白すふれは「私」であって私じゃない。だからと言って、真白すふれが心を持たない、ただのオブジェクトというわけでもない。

 

「真白すふれ」というキャラクターを脱ぎ捨てて、別のキャラクターとしてバーチャルの世界を生き直すことも考えた。過去を全てリセットして、ゲームを最初からやり直すように。

 だけど、別の人間に成り代わることが出来ないように、真白すふれという存在を待ってくれている人がいるなら、私は出来る限りすふれとして配信を続けていきたいと思うのだ。

 ──なんて、私は重く考え過ぎで、それだから転んでしまったのかもしれないけれど。


 晴見くんが私の手を握り返す。その顔には高校生の頃と変わらない、愛おしい微笑みが浮かんでいた。

「手伝うよ。これからは、ずっと隣で」

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