53:私たちは別れない

 晴見くんがスイスへ行ってしまう。それも、短期間の旅行などではなく、治療の為に最低でも一年は向こうで生活することになるのだそうだ。

 それにしても、いくら治療のためとは言え、スイスまで行く必要があるのだろうか。日本の医療は他の先進国と比べても発展していると言うし、国内にもスイスと同等レベルの治療が受けられる場所はあるのではないか。

 それに、受験を目前にしたこの時期にスイスへ旅立つことになって、受験勉強や進学は一体どうするつもりなのだろう。

 ……なんて、晴見くんがスイスへ行くのを思い止まる理由を挙げてみたところで意味が無い。彼本人が前向きな理由で行くと決めたのであれば、私には引き留めることなどできやしないのだから。

 


◇◆◇


 

 スイスへ発つ日は一か月くらい先だから、それまでに学校へ顔を出すことは出来るだろうと晴見くんは言っていたが、結局彼は三学期が始まってから一度も学校に来ることはなかった。スイス行きは思いの外早く事が運び、二月中旬までには日本を離れる予定だそうだ。

 三学期が始まって以降、晴見くんがなかなか学校に姿を見せないので、クラスメイト達の間では様々な憶測と噂が飛び交っている。そのほとんどは晴見くんの身を案じる内容だが、中には「誰かを殴ってついに捕まったんじゃないか」などという不躾な当て推量もあり、晴見くんを嘲笑する声を耳にしただけで、私はいちいち苛立ってしまう。そんなの、相手にしなければいいとわかっているのに。


 中間試験最終日。全ての試験を終えた後のホームルームで、担任教諭は初めてクラスメイト達の前で晴見くんの話題に触れた。

「えー、今日はみんなに知らせておくことがある」

 一部のクラスメイト達の僅かな騒めきは、神妙な「静かに」の一声に一蹴された。

「晴見が三学期から学校へ来ていないことはみんなも知っていると思うが、晴見は家庭の事情で海外へ転校することになった」

 その言葉で、静まり返っていた教室内が先ほどよりも更に大きく騒めき立つ。近くの席の生徒と「マジで!?」「この時期に?」などと言って驚いた顔をしたり、笑い合ったりするクラスメイト達の姿は、面白い話題が好物の飢えたハイエナの群れのようだ。

「急な話で、先生も驚いている。突然決まったことだから晴見が学校に顔を見せることはもうないかもしれないが、来月中旬までは日本こっちに居るみたいだから、挨拶をしたい人は個人的に連絡するように。あ、あと生徒指導からの連絡事項で……」

 晴見くんが教室からいなくなることは、連絡事項の一つとして端的に伝えられた。


「海外って、どこの国だろ?」

「この時期に海外に転校って……」

「家庭の事情って何なんだろうね」

「お前、連絡して聞いてみてよ」


 話題が切り替わっても尚、晴見くんの転校についてヒソヒソと話す声が教室中から聞こえて止まない。大して親しくもない癖に。それなのにどうしてこういう時だけ、急に興味を持ち始めるのだろう。

「おい、静かに」

 先生の一声で、晴見くんの話題はようやく教室内から消えた。


 好きな人についてのつまらない噂を聞き過ぎた所為か、なんだか気分がすっきりとしない。今日は早く家に帰って勉強しよう。少しの間は晴見くんのことを考えず、なにか別のことに集中していたい。でないと、淋しさで押し潰されてしまいそうだ。

 晴見くんは既に退院しているが、ここ最近は引っ越しの準備などで忙しいらしく、一緒にいたくても声を掛けづらい日が続いている。

 あと少しの間しか近くに居られないのだから、本当は一分一秒でも長く傍にいたいけれど、彼の負担にならずにどうやってそれを伝えればいいのかわからない。

 一人で早く帰ろうと思っていたが、ホームルームが終わった後、席を立つと同時に小春ちゃんに声を掛けられた。

「梓ちゃん、今日は委員ないでしょ?一緒に帰らない?」

 愛らしい笑顔でそんなことを言われたら、一人で悶々と悩んでいたことが少し馬鹿らしく思えてくる。

「ええ、いいわよ。帰りましょう」

「やったぁ!なんか一緒に帰るの久しぶりじゃない?」

 私たちはそんな他愛も無いことを話しながら教室を後にした。



 バス停まで向かう道のりを小春ちゃんと並んで歩いていると、時折こちらを盗み見るような視線を感じる。けれどこれは今日に限ったことではない。

 アイドルのように──いや、もしかしたらそれ以上にルックスに華のある小春ちゃんは、どれだけ人の多い街中にいたとしても自然と注目を集めてしまうのだ。

 しかし、慣れているからか本人は全く気にしていない様子で、何気ない話をしながら歩くその姿は、堂々としていて格好良い。


「そういや晴見……転校するんだってね」

 それまでの話題が途切れたタイミングを見計らったかのように、小春ちゃんは急に神妙な顔つきをしてそう切り出した。

「ええ……私も三学期が始まる直前に本人から聞いたばかりなの」

「そっか…………ごめん、こういう時なんて言ったらいいのかわかんないや。ごめんね、こっちからこの話題出した癖に。今日一緒に帰ろうって誘ったのも、元気付けたかったからなんだけど」

 小春ちゃんはそう言って申し訳なさそうに笑った。「寂しいね」だとか、私本人が一番辛いと感じていることを言わない、その理知的な心遣いがなによりも嬉しかった。

「ありがとう、小春ちゃん。でも、私はいうほど落ち込んではいないのよ。晴見くんが自分の意思で決めたことだし、もう二度と会えないわけでもないしね」

「それを聞けて安心したよ。気を悪くさせたら申し訳ないんだけど、晴見が転校することになって、もしかしたら二人が別れるんじゃないかってちょっと心配してたから……」

 小春ちゃんが心配するのも尤もだ。遠距離恋愛──しかも海外となると、それを理由に別れるカップルも多くいるはずだから。

「大丈夫よ。私たちは別れない。仮に晴見くんに別れ話を切り出されたとしても、絶対に別れないつもりよ」

 そう言って不敵に笑ってみせると、小春ちゃんも気の抜けたような笑みを浮かべた。

「よかった。晴見には梓ちゃんが必要だし、梓ちゃんにも晴見が必要だもんね」



◇◆◇



 小春ちゃんの前では極力明るく振舞ったが、実際はかなり心が弱っている。朝を迎える度に晴見くんと離れる日が一日近付いたのだと思って、なんだか少し泣きたくなる。こんな状態で、私は笑って彼を送り出すことが出来るだろうか。


『引っ越しの準備進んでる?』

『やばいよー。全然終わらない(笑)』

『手伝いに行こうか?』

『ありがとう。でも受験生にこんなこと手伝わせるの申し訳なさすぎるから大丈夫だよ』

 チャットでのやり取りを眺めながら、「晴見くんだって受験生な癖に」と声には出さずに静かに呟く。


 スイス行きを知らされてから出発の日までは本当にあっという間で、スマートフォンのロック画面や黒板の隅に書かれている日付を目にしただけで、毎日息が止まりそうだった。だけど、そんな毎日も今日で終わり。明日、晴見くんはスイスへ発つ。


『ついに明日だね』

『明日だよー。結局スイス語の勉強全然できなかった!』

 出来なかったんじゃなくてやらなかったんでしょ、と密かに思う。

『明日、約束通り空港まで見送りに行くから』

『わざわざごめんね。ありがとう。久々に会えるの楽しみにしてる』

 晴見くんはそう言うけれど、私たちはすぐに会えなくなってしまう。

 心臓が痛い。晴見くんに無理を言ってでももっと一緒に居られたなら、ここまで辛い思いをすることはなかっただろうか。

 ……いや、きっと変わらなかっただろう。

 ベッドに横になりながら文字を入力し終えた後、画面の上に大きな水滴が一粒落ちた。

 淋しい。こんなに淋しい思いをするのは初めてだ。淋しいなんて感情は通り越して、痛い。苦しい。しんどい。晴見くんに行ってほしくない。

 私はダメな彼女だな、と思いながらスマホの画面を消して目を閉じた。

『私も楽しみにしてる』なんて嘘。会えない未来が目前に差し迫っている中で大好きな人に会うことほど、辛いことはこの世にない。

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