花かげ

花森ちと

 ただ、月光がわたしに降り注いでいます。

 

 窓の桟につめたい手を置いて、外界を眺めていました。

 わたしの被るヴェールが春風に揺れています。大洋のうわ澄みが凪いでいます。

 

 わたしは独りぼっちです。

 ほんの少し前までは何かにずっと寄り添っていました。大きくて、柔和で、ぬくいもの。

 それは一体何なのか。今ではもう、すっかり忘れ去っていました。


 遠くで船が汽笛をあげています。

 大人たちは黙々とわたしのお家を通り過ぎていきます。

 学校帰りの学生は陽気な流行歌を口ずさんでいます。

 幼い子どもはおかあさんの腕のなかで眠っています。

 そしてまた、汽笛が響いてゆきます。


 昔のように、窓の傍に置かれたアップライト・ピアノの蓋を開きました。

 埃っぽいフェルトのカバーを取り上げると、行儀よく並んだ白黒の鍵盤があらわになって、わたしは少女のように適当な音で遊びはじめます。

 とっ、とっ、とっ。名も知らぬ音は軽やかに踊りながら、砂糖菓子のように溶けていきます。

 音楽の細胞たちは、曲という体を造りきれず死んでいきます。

 わたしはピアノが弾けないうえに、楽譜さえも読むことができないのでした。


 どうして弾けないピアノがわたしの部屋にあるのでしょう。

 どうしてわたしはずっとここに居るのでしょう。

 わたしは一体なに者なのでしょう。

 

 月光が降り注ぎます。

 滔々と、わたしを閉じこめるように。消してしまうように。

 月光が降り注ぎます。

 わたしの黒いヴェールを愛でるように。薄衣の先を隠すように。


 トントン。

 その時、ふたつの渇いた音が扉からこの部屋の空間へ溶けるのを感じました。

 久々に聞いた、あたらしい音。いつからか、ずっと同じ音しか聞いてこなかったのに。

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