第11話

複合施設での戦闘歩兵第2大隊と民兵組織の熾烈な戦いが行われている頃。

手薄になった民兵組織の根拠地付近まで密かに進出していた戦闘歩兵第1大隊の侵入部隊の先鋒は監視哨のすぐ近くに忍び寄り、ナイフを用いてそこにいた民兵を全員殺害した。

付近の草原に展開して身を隠していた侵入部隊の兵士達は監視哨を制圧した先鋒兵士の合図で民兵根拠地への侵入を開始した。

遠くの空から真っ黒な雷雲が姿を見せ、ゴロゴロと低く吠える音が響いてきた。

戦闘歩兵第1大隊の兵士達は、民兵が殆ど出払って手薄になった根拠地へ、今は亡き軍曹の作成した地図を参考に、巧みに身を隠しながら浸透して行き、根拠地に対する包囲を完了し、突入の命令を待った。

監視哨から少し離れた場所では救出した民間人を輸送する為のトラックの一群が待機して合図を待っていた。


オチュアは初めに英語を習った部屋の本棚から抜きだした「ウォーターシップダウンのうさぎ達」を読んでいた。

破滅すると予言された集落から若いうさぎ達が脱出するくだりを心弾ませながら読んでいた。

傭兵団に関する貴重な情報を持ち帰ったオチュアは褒美として日常の労働をある程度免除されていた。

もっとも片目が失明し、足を引きずって歩くオチュアに大した労働はできなかった。

オチュアにとって本を読む事は、自分を取り巻く厳しい環境を忘れて美しい別世界に逃れることが出来る楽しいひと時だった。

オチュアに英語を教え、複合施設に共に侵入した中年の女が教壇に使っている机に座り、やはり何か小説を読んでいた。

他の子供達はそれぞれ民兵組織側の部族の人々の仕事をしていて、部屋には二人しかいなかった。

窓のカーテンを揺らして涼しい風が吹き込み、遠くから聞こえる雷の音が雨季が近い事を知らせていた。

突如、村に一発の銃声が響いた。

何事かと部屋の窓から外を見た中年の女のすぐ目の前を傭兵団戦闘歩兵第1大隊の兵士が数名、突撃銃を構えて身を低くして駆け抜けた。

窓の外の向かいにある建物から突撃銃を構えて出て来た2人の民兵が傭兵団兵士の銃撃を受けて倒れた。

それを機に村のあちこちで銃声と怒号と悲鳴が号令が沸き起こった。

中年の女が教壇の後ろに隠してあるチェコ製のサブマシンガンを手に取ってストックを引き出しボルトを操作して射撃準備を整えた時、廊下を走ってくる音がした。

中年の女が廊下に向けて銃を構えると、部屋に数人の子供と、中年の女と同年代の突撃銃を構えた女の民兵が2人が飛び込んで来た。

民兵の女兵士は中年の女に、傭兵団の襲撃だと早口に言った。

中年の女は部屋にいた子供達に机や本棚で、廊下と窓に向かってバリケードを築く様に命令した。

その間にも部屋には子供を抱いた女や子供達、また数人の突撃銃を構えた少年兵が逃げて来た。

銃声と悲鳴があちこちに充満して、部屋の中にいた人々は身をかがめて息を殺し傭兵団を待ち受けた。

オチュアは本棚を使ってバリケードを築く時に床に落ちた本を拾い集めた。

部屋がある建物の外壁に沿って傭兵団兵士が身を屈めながらやってきた。

兵士は窓の端からオチュア達がいる部屋を覗きこんだ。

兵士は銃を構えた女兵士や少年兵を認めると、胸の手榴弾を取り出し、安全ピンを抜いて部屋の中に放り込んだ。

煙を吐いて部屋の中に転がって来た手榴弾を見つけた中年の女が警報の言葉を叫びながら素早い動作で手榴弾を拾い上げて窓の外に投げた。

オチュアは本を抱えて床に伏せた。

手瑠弾が窓から飛び出す瞬間に爆発して部屋に窓ガラスと木材と手瑠弾の破片が降り注ぎ、銃を構えている民兵達をなぎ倒した。

殆ど同時に廊下から走ってくる音が聞こえ、傭兵団兵士達が銃を乱射しながら部屋に突入した。

目を吊り上げて咆哮しながら部屋に飛び込んできた傭兵団兵士達と民兵達の間で、短いが激しい撃ち合いが起きた。

部屋にいた民兵がすべて打ち倒された。

傭兵団兵士達は床に伏せている女や子供達に立つように命じた。

体を震わせて床にうずくまっている女に手を貸そうとした傭兵団兵士が、女が隠し持っていた拳銃で撃たれた。

顔面に数発の銃弾を受けた兵士が床に倒れ痙攣した。

傭兵団兵士達が一斉に銃を撃ち女を射殺した。

兵士達が銃を構えて床に伏せている他の女や子供達に早く立つように命じた。

オチュアが本を手に恐る恐る立った。

兵士達がようやく立ち上がった女子供達に手を上げるように命じた。

女子供達がこわごわと兵士達を見つめ、手を上げた。

兵士達は一人づつ身体検査をし、武器を持っていない者を部屋から出るように命じた。

オチュアが何冊かの本を抱えているのを見た兵士の一人が突撃銃を構えて手を上げるように命じた。

オチュアが両手に本を持ったまま手を上げた。

兵士が手に持っている物を置くようにオチュアに怒鳴った。

まだ若い傭兵団兵士が構えた突撃銃の銃口が小さく震えていた。

いましがた救出しようとした女がピストルを隠し持って攻撃してきたのを目撃して恐怖心に取り付かれた若い兵士にはオチュアの持った本が何か危険な物に見えていた。

兵士が目を吊り上げて再度オチュアに手に持っている物を捨てるように命じた、が、オチュアは兵士の早口のフランス語が聞き取れなく、何を言っているのか判らなかった。

オチュアは震えながら本を高く掲げて立っていた。

兵士の銃が火を吐いた。

オチュアの左手の、手のひら半分から先と、右手の薬指と小指が根元から、持っていた本と一緒に吹き飛んだ。

オチュアは手に走る激痛に顔をしかめ、手を体に抱え込んで蹲った。

女子供を部屋の外に誘導していた年かさの傭兵団兵士がオチュアに歩み寄った。

オチュアの周りには無害な本とオチュアの手の残骸しかないことに気がついた年かさの傭兵団兵士は苦い表情を浮かべ、首に巻いたバンダナをほどくとうずくまるオチュアの両手に巻きつけて応急の止血処理を施し、オチュアを小脇に抱えて部屋から出ていった。

侵入成功の報を受けたトラックの車列が民兵組織根拠地の村の広場に続々と入って来た。

根拠地の制圧をほぼ完了した傭兵団戦闘歩兵第1大隊は救出した民間人をトラックに載せていた。

民兵側の部族の人間達は広場に残され、戦闘歩兵第1大隊に同行した政府軍側の自警団兵士達が監視していた。

オチュアはトラックに乗っていた衛生兵に応急処置を施されて、他の村から拉致されてきた子供達と共にトラックの荷台に座らされた。

先程オチュアを抱えて連れて来た年かさの傭兵団兵士がオチュアのトラックの荷台に近づいた。

兵士はオチュアを見つけると、少し血に汚れた本をオチュアの足物に置いた。

それはオチュアが撃たれた時に持っていた本の内の一冊だった。


星の王子様。


オチュアは包帯に包まれ、鎮痛剤を注射された、感覚のない手で苦労して本を拾い、胸に抱きしめた。

大粒の雨がぽたぽたと落ちて来たと思ったら、まるでバケツをひっくり返したように激しい雨が降り始めた。

広場に取り残された民兵組織側の住民たちは雨宿りをすることも許されず、憎しみに燃えた政府軍側自警団兵士に見張られて雨に打たれた。

やがてトラックが動き出した。

オチュアと子供達が乗った荷台に傭兵団の兵士が二人、一緒に乗り込んでいた。

兵士達は目に薄く怯えの色を浮かべ、突撃銃をオチュア達に向けて油断なく見張っていた。

それでも、オチュアは自分が民兵組織から助け出された事を悟った。

オチュアは荷台から豪雨にうたれる村を見つめていた。

走り出したトラックの荷台から民兵の村が遠くなり、降りしきる雨の彼方に消えた。

オチュアの眼から涙がこぼれた。

涙がどんどんオチュアの眼から溢れ出た。

オチュアは民兵組織から拉致をされてからずっと声を上げて泣くのを我慢していた。

悲鳴を上げず涙を流さず、それがオチュアのささやかな反抗の証だった。

オチュアは本を胸に抱きしめて大声で身を捩り、泣いた。

オチュアは泣き続けた。

傭兵団兵士が複雑な表情を浮かべてオチュアを見つめた。

オチュアは、緊張が解け、誰はばかることなく、大声で泣き続けた。

殺された家族の事、村人の事、殴られて片目がつぶれた事、民兵の少年たちに犯された事、同じ村の少女に汚れた者のように扱われた事、洗脳されて民兵になってしまったンガリの事、様々な想いがどっと湧き出て、オチュアの胸を締め付けた。

オチュアはただ一つの反抗の証として決して声を上げて泣かない事を心に誓っていたが、今はもうその必要が無くなった。

雨のサバンナの中を走るトラックの荷台でオチュアは身を捩り、大声をあげ、涙をぼろぼろ流しながら、泣き続けた。

激しく降る雨の中、オチュア達を乗せたトラックの車列はサバンナを走り続けた。





複合施設での激戦から5日後、中佐は傭兵団上級司令部から呼び出しを受けて首都へ出頭した。

傭兵団戦闘歩兵第2大隊は83名の死者と124名の負傷者を出し、戦闘歩兵第1大隊と駐屯地を交代し首都付近での補充と再編成の作業に入っていた。

政府軍中佐の正装(Full dress)に身を包んだ中佐はこれまた正装を着た護衛兵士を連れて、政府軍将軍主催の複合施設での戦勝パーティーに出席をしていた。

午後になってから激しいスコールがやって来て、中佐は傭兵団大佐や傭兵団最高指揮官である将軍達や政府軍首脳、そして、傭兵団のスポンサーの国際的な企業の責任者達とカードルームに入った。

執事がカードルームのドアを閉めるとパーテイーの喧噪が遠くなった。

ライバルの将軍を蹴落とし、軍内の権力を掌握した2人の将軍が笑顔で中佐を政府軍名誉大佐に任ずる辞令と複合施設での戦闘を称える勲章を授与した。

中佐は敬礼をしてそれらを受け取った。

傭兵団将軍が中佐の肩を抱き、傭兵団スポンサー企業の責任者を紹介した。

にこやかに中佐に握手を求めた責任者に中佐は笑顔で握手をした。

責任者は中佐を大テーブルに案内した。

傭兵団将軍がファイルを取り出し中佐に見せた。

ファイルには中佐の戦闘歩兵第2大隊を基幹として、政府軍歩兵大隊2個と軽砲兵中隊などを指揮下に入れ、新しく編成する予定の連隊戦闘団の編成表が書かれていた。

傭兵団将軍は中佐に新編成の連隊戦闘団の指揮を任せる事を伝え、中佐に政府軍大佐の階級章を差し出した。

傭兵団内での階級は中佐のままだが、政府軍大佐としての給与も合わせて与えられる事になった。

室内にいる者たちにシャンパンが配られた。

次は将軍だな、と彼らは笑って中佐に言い、グラスをあげて乾杯した。

大きな地図が出されて、責任者が地図の一点を差し示した。

それは政府軍側がかろうじて保持している鉱山施設の場所だった。

君はこの場所の守備をする事が任務になる、と政府軍将軍が言った。

その鉱山は捕虜となった民兵達が送り込まれ、朝から晩まで死ぬまで重労働をさせられている場所だった。

拉致されて民兵にさせられた子供達も、そこに送られ、非人道的な重労働をさせられているという噂がある所だった。

ここの規模を拡張し、より産出量を増やさないと我々は元を取れない、と傭兵団スポンサー企業の責任者が笑った。

政府軍将軍が中佐、いや進級したばかりの大佐に、君が殺し過ぎたのでこの鉱山に送り込む捕虜が減ってしまったとウインクをして笑った。

政府軍将軍が大佐に、もっともっとこの周辺の民兵どもを討伐してどんどん鉱山に送りこんで欲しい、と言った。

沈黙している傭兵団達の前で、傭兵団スポンサー企業の責任者と政府軍将軍達が笑いながら話していた。


(所詮はこいつらの私利私欲の利権を追及して俺達はそれに踊らされるのだ・・・)


と大佐に進級したばかりの中佐は思った。


(いっその事・・・。)


大佐の頭の中でこの国を乗っ取る為の計画が回転し始めた。

大佐は同じ階級になった傭兵団大佐を見た。


(この男なら、俺の計画に賛同するだろう。)


傭兵団将軍を見ながら大佐はシャンパンを一口飲んだ。


(この男はどうだろうか?理想に燃えた立派な軍人だったが結局はただに戦争の犬に過ぎないのか?私服チームは俺への忠誠をすでに示している奴らが多いし・・・いざとなったらこの男も暗殺して・・・)


大佐は笑いあって地下資源の産出量が増えた時に自分達の懐に転がり込む膨大な金について話し合っている2人の政府軍将軍を見た。


(こいつらは欲に転ぶから、それをかきたてて仲間割れをさせれば良い、そして、すべてを掌握した時に生き残った方を殺せばよいのだ。)


(指揮下に入った政府軍部隊の中から使えそうな将校を見つけ、そいつを持ち上げて神輿にして・・・もしくは民兵どもと組んでとりあえず地下利権を握っている奴らを追い出して・・・そのためには奴らのライバル企業にこの話を持って行き援助の確約を取る必要がある・・・・鉱山で働かされてる奴らの何人かを味方に取り込んで・・・・民兵組織の上層部とつながりを作る、どうせ私利私欲に狂った奴らがいるから上手にそれをくすぐってやりながら・・・・あとで腐った奴らは皆殺しにして・・・とにかく教育機関を充実させて民度を上げねば・・・・その間に俺が陰で恐怖政治を敷く・・・・腐った奴らを芽のうちに片っ端から積みとれば・・・・その場合、20万人くらい殺せばこの国も何とかまともに・・・・いやいや、30万人くらいは殺す必要が・・・・・・)


ここまで考えた時、大佐の中で何かが壊れた。


大佐はアジアの母国語で呟いた。


ちくしょう…こんな方法じゃ100万年たっても世界は変わらん…


ブツブツと呟く大佐を見た将軍が、何かを大佐に言い掛けた。

大佐は頬笑みを浮かべ、手に待っていた辞令や勲章授与の書類を破き始めた。

大佐は、あっけに取られた将軍の顔をニヤニヤと眺めながら破った書類を口に運んでむしゃむしゃと食べ始めた。

そして、大きな奇声を上げた。

何事かと人々が大佐を見た。

大佐はニヤニヤしながら破った書類を口に入れてほおばりながら再び奇声を上げた。

人々が異様な臭気を嗅ぎとった。

煌びやかな政府軍中佐の正装に身を包んでいる大佐は直立したまま失禁と脱糞をしていた。

ズボンの前と後ろから見る見る染みが広がり靴を濡らした。

大佐は奇声を上げ、ニヤニヤした笑いを受かべ、涎を垂らしながら破った書類を口に入れていた。

やがて大佐はげらげらと笑いだした。

騒ぎを聞きつけた護衛兵士が大佐の両腕を持ち、連れだした。

大佐は病院に収容され、診断を受け、軍務続行不可能と判断され、軍籍を抹消され、母国に送還され、密かに解き放されるまで、発狂した振りを完璧に続けた。




オチュアは吹き飛ばされた手の治療を受けた。

オチュアの左手は細菌感染の為に手首から先を切除せざるをえなかった。

そして右手にはかろうじて3本の指が残った。

オチュアは手が完治した後、難民キャンプに収容された。

身寄りが無く、故郷の集落の人間も全て死に絶えたオチュアの落ち着き先はまだ決まっていなかった。


ある晴れた昼下がり、オチュアは民兵組織の根拠地から助け出された後肌身離さず持っている星の王子様の本と、救援物資を包んでいた何枚かの汚れた紙とシスターから貰ったちびた鉛筆と小さい消しゴムと小さな鉛筆削りを持って、キャンプの外れにある、木陰のテーブルに向かって、足を引きずりながら歩いていた。


テーブルに着いたオチュアは、しばらく難民キャンプを眺めた。

昼の食料の配給が終わり、キャンプの喧騒が静まっていた。

大人たちは生きる為の作業を始め、子供達はあちらこちらで歓声を上げて走り回っていた。

とりあえず差し迫った命の危険が無い。

オチュアは紙を拡げ、手首から先が無い左手で紙を押さえて、指が3本しかない右手で鉛筆を握り、何かを紙に書き始めた。

カメラを何個も首から下げた一人の東洋人のカメラマンが、キャンプをぶらぶらと歩いて来てオチュアに気付いて近寄って来た。


「何を書いているの?」


カメラマンの問いにオチュアは顔を上げて笑顔で答えた。


「お話を書いているのよ」


「どんなお話?」


「へへ~、まだ、内緒なの」


オチュアは紙を隠して笑いながら答えた。


「君は何か欲しい物、あるかい?」


「白い紙と鉛筆を沢山欲しいわ。

 書きたいお話がいっぱいあるの」


「なるほど、お話を書いてるんだね?…将来、君は何になりたいかい?」


オチュアは紙にお話を書きながら答えた。


「あたし、絶対に作家になるの。

 絶対にね」


「何故?」


オチュアが笑顔を上げて答えた。


「作家になって、素敵なお話を沢山書いて、世界中の人に良い影響を与えるの。世界中の人を優しくするの。そうすれば…」


オチュアがキャンプの中を見回した。

カメラマンもオチョアにつられてキャンプを見回した。


「そうすれば…こんな事が起きなくなるかも知れないでしょ?

 皆が仲良く暮らしていける世界になるかも知れないでしょう?」


「…そうか、頑張ってね。

 君の書いた本を読める日が来るのを楽しみにするよ」


カメラマンは持っていたシャープペンと書き込みがあるページを破りとった手帳をオチュアの前に置いた。


「君にプレゼント。

 どこかに白い紙があったらまた持ってくる。

 この本、僕も子供の頃に読んだよ。

 素敵な本だね」


カメラマンがオチュアの手元に置いてある、星の王子様を指さした。


「ありがとう!

 私もこの本、大好きなんだ。」


「未来の作家さん、握手してくれる?」


カメラマンはオチュアが差し出した三本指の右手を両手で優しく握りしめた。


更にカメラマンは胸ポケットからチョコレートを出してテーブルに置いた。

カメラマンはオチュアを写真に撮ると、手を振りながら歩き去った。


オチュアとカメラマンのやりとりを見ていた5~6歳位の男の子がテーブルのチョコレートを引ったくり、走って行った。

チョコレート欲しさに他の子供達が男の子を追って行った。

オチュアはあっけに取られて残った片方の目で子供達を見送り、やがて笑顔で頭を振りながら、三本の指で鉛筆を握り、また、紙に書きかけの話を書きこんだ。


乾季の始まりのキャンプは、雲ひとつない青空が広がっていた。


お話を書くのに没頭していたオチュアは人の気配に気づいてふと顔を上げた。

先程オチュアからチョコレートを盗んでいった男の子が立っていた。

男の子は謝る様な照れ笑いを浮かべてオズオズとオチュアにチョコレートを差し出した。

チョコレートは包み紙を破られて殆ど食べられていたがほんの少しだけ残っていた。

男の子が申し訳なさそうにオチュアにチョコレートを差し出した。

オチュアは、じっと男の子を見つめたが、やがて笑顔を受かべてチョコレートに手を伸ばした。

ひとかけらのチョコレート。

オチュアにはそれで充分だった。

ほんのひとかけらのチョコレート。

男の子がオチュアに返してくれたほんのひとかけらの小指の先ほどのチョコレート。


オチュアは、それだけあれば私達はささやかに生きて行けるのに、世界中の人がひとかけらのチョコレートを残してくれれば、世界中の人達が私達から奪って行く中からひとかけらのチョコレートを残してくれれば、私達は残された絶望的に少ない物を奪い合って戦う事が無くなるのに、とふと思った。


そしてオチュアは男の子が返してくれたひとかけらのチョコレートにささやかな希望を感じた。


全部食べないでオチュアの為にひとかけらのチョコレートを返してくれた男の子の心の片隅にひっそりと存在していた善意に、これから先の世界に希望を感じた。


オチュアの心に浮かんだほんのちっぽけな、そよ風でかき消されてしまうほどのささやかな希望。


だが、その小さな小さな心の光をオチュアはぎゅっと抱きしめた。


どんなに小さな光でも、どんなにささやかな希望でも。


オチュアはひとかけらのチョコレートを口に入れ、目がくらむほどに甘く美味しいチョコレートを味わいながら男の子に微笑んだ。


どんなに小さな光でも、どんなにささやかな希望でも。


男の子はほっとした照れ笑いでしばらくオチュアを見た後、背中を向けて走って行った。


どんなに小さな光でも、どんなにささやかな希望でも。


オチュアは紙に向かい、またお話を書き始めた。




昔、ある所に、小さな村がありました。


村の人々は、貧しいけれど少ないものを皆で分け合ってお互いに肩を寄せ合いひっそりと、しかし平和に暮らしていました。


村にはンガリと言う、痩せたギョロ目の少年がいて、彼は仲良しの犬を連れてサバンナに出かけて何か食べるものが無いか探していました。


ンガリの弟や妹達はンガリよりもずっとずっとお腹を空かせているのです。


ンガリは古い大きな木の根元に小さな小さな光を見つけました…







難民キャンプのシスターが苦労して手に入れたオチュアのエイズ発症を抑える薬を打つ時間になったのでオチュアを探してキャンプの中を歩きまわっていた。

オチュアはシスターが呼ぶ声にも気付かずに夢中でお話を書いていた。

オチュアの頭の中にどんどんとお話が湧いてきて、不自由な手で鉛筆を握りしめ一所懸命にお話を書き続けた。


自分に残された少ない時間を、素敵なお話で世界が優しくなるお話で世界が争いを捨てるお話で埋め尽くそうと、オチュアはお話を書き続けた。



それはオチュアにとって戦いだった。


絶対に負けたくない戦いだった。


オチュアは真の戦士になっていた。


どんなに小さな光でも、どんなにささやかな希望でも。


魂が叫び続ける限り。


どんなに小さな光でも、どんなにささやかな希望でも。


魂が叫び続ける限り。


それはきっと。





それはきっと。









終わり。



いままで世界中に起きた悲しい争いで亡くなられた方達、家族や大事な人を奪われた人達、家や食べ物や心の中の大切な物を奪われ辛い思いをした人達、そして、今この時もなお、銃を持たされ、爆弾を体に巻かれ無理やり戦わさせられている何万、何十万人ものンガリやオチュア達にそしてこれから地獄の様な世界に生まれてくる子供達にこのお話を捧げます。


武器を取って食べきれないほどのチョコレートを奪い合うよりも、笑顔でひとかけらのチョコレートを分け合う方がどんなに人間的なのか。


残された少ない時間の中で人類はいつの日か必ず、長い長い、気が遠くなるほど長く続いているこの愚かな醜い同志討ちを追い払う日が来る事を切に、切に願っています。








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