第一章
「ねえ! 今日の靴はこれじゃないんだけど!」
キンキンとした高い声が玄関先で響く。
その声が聞こえるやいなや、その場に数人の使用人と、そして朱音が駆け付けていた。
「何度言ったらわかるのよ!」
ウェーブのかかった栗色の髪に、大きな栗色の瞳。ビスクドールのようなその顔立ちは愛らしく、怒りを露わにしていても許してしまいそうな魅力があった。
彼女は甲高い声でそうまくし立てると、持っていた靴を朱音に向けて投げつける。
反射的に顔をガードしながら、朱音はすぐに彼女――
鬼ヶ華椿姫。この鬼ヶ華家の本家に生まれた跡取り。
歴代で上位に挙がるほどの妖力を持って生まれた椿姫は、誰よりも大切に育てられてきた。こんなにもわがままに振る舞っても許されるほどに。
「すみません椿姫さん。すぐに靴を用意いたします」
間違った靴を用意したのは他の使用人だった。
けれどこの場では絶対である椿姫に逆らうことだけはNGである。
だから朱音は謝罪をしたが、椿姫はそれを鼻で笑った。
「能力も無い上に使用人の仕事も碌に出来ないのね。鬼ヶ華家の出来損ないとしての自覚が足りないんじゃないかしら」
「……申し訳ありません」
グッと奥歯を噛み締め、頭を下げる。
「学園でも恥をさらさないでよね、出来損ない」
椿姫はそう吐き捨て、何人かの使用人に見送られながら登校していった。
残された朱音を、他の使用人たちは横目で見ながら、何もなかったかのように持ち場へ帰っていく。靴を間違えた張本人である使用人も、我関せずといった調子だった。
「………」
こんな扱いは、もう慣れっこだ。
椿姫は朱音にとってイトコでもあった。
年が同じイトコでありながら、朱音は分家の子であり、しかも妖力を全く持っていない。
両親が早くに亡くなっているのでこの本家へと引き取られることになったが、その無能力ゆえに椿姫の使用人の一人として扱われていた。
しかも悪い意味で椿姫に目を付けられ、子供の頃からずっとこんな扱いだ。
朱音はただ、ひっそりと生き続けるしかなかった。鬼ヶ華家の出来損ないとして。
「姉さん……何の騒ぎ?」
不意に聞き慣れた声がし、朱音はそちらを見る。
朱音と同じ顔立ちをした男が階段から降りてきた。
色素の薄い灰色の髪に、黒い瞳。均整の整ったその顔は、朱音と同じであるはずなのに、彼の方が柔和で健康的だ。
鬼ヶ華
「もしかしてまた椿姫さんが……」
「ううん。なんでもないよ」
そう答える朱音に、しかし蒼亥の表情は納得していない。
「姉さん。もう十七になるんだからハッキリと言おうよ。分家として正当な……ううん、俺と同じ扱いにしてくれ、って」
共に本家へと引き取られながらも、朱音と蒼亥の扱いは天と地ほどの差があった。
それは、無能力の朱音と違い、蒼亥には高い妖力があったからだ。
更には椿姫のお気に入りでもある所為で、何かと蒼亥は優遇されていた。
だが、蒼亥にとって何よりも大事なのは姉の朱音だった。
最初は蒼亥だけを本家に引き取るという話も、蒼亥の訴えによって朱音も引き取られることになったという経緯があるぐらいだ。
蒼亥からすれば朱音を使用人扱いしている現状にだって納得がいっていない。それでも本家の人間たちに下手に異を唱えれば、朱音と離れ離れにさせられることがわかっているので強く出れない部分もある。
「蒼亥……身寄りの無い私たちを住まわせて、学校に通わせてくれているだけでありがたいことだよ。それに実際、妖力の無い私に使用人という仕事を与えてくれているんだから、これ以上は望まない」
「でも……」
「大丈夫。ありがとう、蒼亥」
朱音が優しく頭を撫でると、蒼亥は嬉しそうに笑った。
「さ、私たちも準備して、学校に行きましょう」
***
遥か昔――人とあやかしは敵対関係にあった。
互いに領地を奪い、わかり合えない者として忌み嫌い合っていた。
しかしそんな中、溢れんばかりの妖力を持っていたとある人間が、あやかしたちに共存の申し出をしたことで、互いの関係は大きく変わり始める。
神・龍・鬼・狐・狗・妖異……あやかしたちは、始めの頃はその申し出を受け付けなかったものの、時が経つにつれ、少しずつ関係が軟化していった。
それぞれの治安や文化を守るため、時間をかけてではあったが、慎重にその歩み寄りは成されていった。
そうして今からおよそ数百年ほど前、ついに人間とあやかしの間に条約が結ばれ、晴れて共存の道を辿ることとなる。
基本的にあやかし……とくに上位層となる神・龍・鬼は人間に対し積極的な関りは持たない。
だが、下位層となる妖異たちは個々の恨みや面白半分などで、人間たちに大なり小なり災いをもたらすことがある。
そういった問題を解決する際に、共存の条約によって、あやかしを使役する許可が出るほどに、互いの関係は友好的なものとなっていった。
あやかしの使役といっても千差万別で、上位のあやかしとの契約を代々受け継ぐ名家もあれば、個人的な縁によって使役を許された人など様々だ。
そこから、人間はあやかしついて、あやかしは人間について学ぶべき場所が必要となり……政府は
始めの方こそ生徒数も教師の数もあまり多くなかったが、今となってはあやかしについて学べる帝都一の名門校として名を馳せていた。
学園にはエリート科と普通科で分かれており、妖力の強い人間とあやかしはエリート科に、それ以外は普通科に通うこととなる。数字の若いクラスほど力の階級は上、といった基準だ。
代々『鬼』との契約を交わしている鬼ヶ華家の跡取りである椿姫はエリート科の2年1組に属し、独学で『狗』を使役することができた蒼亥はエリート科の2年2組に属していた。
一方、無能力である朱音は普通科の2年5組に属しており、妖力が無いながらもあやかしのことについて学ぶ毎日だった。
「朱音ちゃんおはよ。朝の会に間に合って良かったね」
机に突っ伏していた朱音はその声に顔を上げる。
友人の
両サイドの肩に付く三つ編みに度の強い眼鏡。その表情や仕草から、控えめな性格なのが読み取れる。
真衣は朱音にとって、この学園に入学してからできた友達だった。
家での境遇もあり、蒼亥以外で初めて心を許せる相手でもある。
「おはよー真衣。朝の会始まりかけてたから猛ダッシュしちゃったよ」
「寝坊でもしたの?」
「ううん。朝ちょっとあってね」
遅れたのも、椿姫の機嫌を損ねた今朝のことが原因だ。
と、そこで鞄の中にいつもより空いたスペースがあることに気が付く。
「……遅刻はしなかったけど、代わりにお弁当忘れちゃった」
「ええっ! あ……私の分けて……」
「へーきへーき。今の内に購買で何か買ってくるよ」
朱音は鞄から財布を取り出し、そのまま足早に教室を出た。後ろの方で真衣が何か言っていたような気がしたが、あまりもたもたしていると一限目が始まってしまうので振り返らずに急いだ。
学園の購買は一階の下駄箱の近くにあり、三階の教室から行くには少々手間である。
しかしこのタイミングを逃すと次に行ける機会は昼休みとなってしまい、激混みが予想された。購買で売られているメニューはどれも美味しいことで評判なのだ。
「お弁当忘れちゃったのは失敗したなぁ」
もらえるお小遣いは月に千円程度で、鬼ヶ華家の恥となるからとバイトを禁止させられている朱音にとって、今回のそれは手痛い出費である。
いつもは、鬼ヶ華家の料理長に頭を下げ、余り物をお弁当として詰めていた。今日もそれを持ってくるはずだったのだ。
「まあ、久々に購買のご飯が買えるからいっか」
できるだけポジティブに考えるのは、朱音がこれまでの境遇の中で培った処世術だ。
そうこうしているうちに購買の看板が視界に入ってきた。
早速メニューを見ようとそちらへ近付いた朱音は、ふと、そこに見知った人物の姿があることに気が付いた。
「椿姫さん……」
「あら。こんなところで何をしているの?」
そこに居たのは、数人の生徒に囲まれている椿姫の姿だった。
人目があるからなのか、今朝の玄関での態度とは違い、おしとやかな態度で朱音へと向き合っている。
「あの、お弁当を忘れたので購買で買おうかと……」
おずおずとそう告げた途端に、椿姫の傍に居る生徒たち……つまり取り巻きと思われる生徒たちが、口元に手を当てて信じられないものでも見るような反応を示した。
「え……購買って……」
「鬼ヶ華家の人が、購買なんかで……?」
その反応に、朱音は内心、しまったと嘆いた。
エリート科の、とくに名家の人たちからすると、あまりイメージの良いものではないと聞いたことがある。
椿姫の様子を伺ってみれば、汚らしいものを見る目で朱音を見下していた。
「購買って……ウチでは専属の料理人がお弁当を用意して下さるのに、どういうことなの?」
そもそも、出来損ないの朱音の分を用意する必要は無い、と料理長に言い始めたのは椿姫である。
そのことを知っていながらそんなことを言ってくる椿姫に、しかし朱音は何も反論できなかった。これ以上、事を大きくし、長引かせたくなかったから。
「……申し訳ありません。お弁当を忘れてしまったのです」
「ふぅん。出来損ないらしい理由ね。私はてっきり、鬼ヶ華家に対する当てつけでそうしてるのかと思ったわ。鬼ヶ華家はお弁当一つ用意できない家だ、って言いふらしたいのかと」
「そんな……滅相もありません」
慌てて否定したが、椿姫がそう口にしてしまった結果、取り巻きたちは朱音に対しどんどん印象を悪くしていった。
いつもこうなのだ。
椿姫は、家だけでなく学園でも率先して朱音を出来損ないとして扱い、嫌な人間としての印象を振りまいてくる。
その所為で朱音は、学園での居場所もほとんど無かった。唯一、真衣だけが仲良くしてくれているようなものだ。
「ほんっと、あなたが居る所為で鬼ヶ華家の品位が下がって迷惑だわ」
「……申し訳、ありません」
「双子の蒼亥さんとは雲泥の差よね。正直、分家からあなたを引き取ったのだって、蒼亥さんがあなたと離れたくないと頑なに仰ったからよ。そうでなければ、あなたのような出来損ないは、今頃路頭に迷っていてもおかしくなかったんですからね」
「……はい。本家の皆様には、心から感謝しております」
拳を握り締めながらも、それでも朱音は頭を下げて椿姫に感謝を示した。
耐えればいい。ただ耐えていれば、少なくとも蒼亥は本家で可愛がってもらえる。
その覚悟を持って朱音は頭を下げ続けた。
だが、その時。
「きゃあ!」
誰かがそんな声を上げ、何事かと顔を上げる。
「うわっ、なんだあれ……」
「あ、あやかし……っ?」
取り巻きたちが指差す方を朱音も見る。
そこには、一体のあやかしが存在していた。
赤いフードを被り、狐面をしたそのあやかしは、ゆらゆらと揺れながら四本の腕をぐにゃぐにゃと動かし続けている。
「学園の結界はどうしたんだよ……っ」
近くにいた男がそう嘆いたように、この学園には許可されたあやかししか入ることができないようになっていたはずだ。
なのに、どうして。
誰かが使役するあやかしという線も考えたが、それにしては見た目が
そして、狐面がピタリと動きを止め……そのまま一瞬にして朱音たちの方へと突進してきた。
「あぶない!」
誰かの声と同時に、数人の取り巻きたちが吹き飛ばされる。
「な、なによ……『狐』風情が……っ」
声を上擦らせながらも、椿姫は狐面を睨みつける。
おそらく『鬼』を使役し闘うつもりなのだろう。
だが、狐面の動きはそれよりも早い。
「きゃああ!」
「椿姫様!」
吹き飛ばされた椿姫を近くの取り巻きが受け止めたが、その衝撃ごと近くの柱へ叩きつけられた。
「あ……あ……」
残されたのは朱音、ただ一人。
運動神経が格別に良いわけでもなく、しかも無能力者の朱音に、一体何ができるというのか。
朱音は顔を真っ青にしたまま、狐面がこちらへ突進してくるのをただ見ていることしかできなかった。
しかし―――
「誰のモノに手を出している?」
深い海の底から響くような声だった。
何か、真っ黒の……例えるなら具現化した影のようなものが、朱音の前に立っている。
「あ、危な……」
心配の声を上げるよりも早く、突進してきた狐面をその影は軽々と弾き飛ばしていた。
「………」
次から次へと起こる怒涛の展開に、思考が全く追い付かない。
そんな朱音の前にいる影が、くるりとこちらを振り返った。
「朱音!」
満面の笑みと共に、名を呼ばれる。
影は、男だった。
フワフワの長い黒髪に、影色の黒い着物とトンビコート。ほとんどの色を黒色で統一している中、唯一目立つ血のように赤い瞳と白い肌。
男はニコニコと笑いながら……いや、次第に狂喜的な笑みを見せながら朱音に語り掛ける。
「会いたかった。ずっと会いたかったよ、オレの朱音。この時をどれだけ待ち侘びたか。オレのこと覚えてる? いや、覚えてなくてもいいんだ。だって、オレは確かに朱音のお陰で此処にこうして存在していられるんだから」
「え、えっと……何を……」
「そうだね、もう十年も時が経ったんだ。改めて挨拶を交わすべきだよね。おいで。オレの屋敷へ招待するよ」
「えっ」
笑う男の背後から、津波のように闇が覆い被さってくる。
一体何をするつもりなのか。
反射的に逃げようとした朱音ごと軽々と闇が呑み込み、そして音もなくその場を後にしたのだった。
◆◇◆
水面に体を横たえているような浮遊感。
その心地良さに身を委ねていたいと思う一方で、早く目覚めなければという自分自身の声。
「ん……」
朱音がゆっくりと目を開けると、まず先に視界に入ってきたのはあの男の美貌だった。
先程はあまりにも急展開だったために気が付かなかったが、男の顔は驚くほどに整っている。
切れ長の瞳に添えられた長い睫毛も、見惚れるほどの目鼻立ちも、薄く鮮やかな唇も……まるで芸術家が理想をぶち込んで仕上げた作品のようだ。
「朱音、起きた?」
男はニコニコと笑いながら朱音にそう訊ねる。
そこで朱音は、ようやく自身が男の膝の上で横抱きにされていることに気が付いた。
「えっ……え!」
今度こそハッキリと覚醒した朱音は、慌てて辺りを見回した。
そこは広い一室だった。
和洋折衷、様々なアンティークや家具によって仕上げられたその部屋は、唯一『モダン』というモチーフでのみ統一されている。
そして広々とした黒いソファの上で、朱音は男の膝の上に乗っている。
一体何がどうしてこうなったのか。
困惑のまま、朱音は真っ先に訊ねる。
「あ……あなたは、誰?」
「ああ。やっぱり覚えていない?」
男は少しだけ寂しそうに笑いながら、それでも朱音が自分を見てくれていることを喜んでいた。
「十年前、朱音の家の近くで会ったんだ。壊れかけの社の前で、朱音はオレのために祈ってくれた」
「十年前……」
言われて、本当にうっすらと記憶がよみがえってくる。
確か家に居場所が無くて、家の外れまで歩いたのだ。
そこで誰かと会話をしたような……そんな記憶があった。
「ボロボロのお社があって……そこで祈ったような覚えは、ある」
途端に、男は口が裂けんばかりの勢いで笑顔を浮かべた。
「覚えててくれたんだ! 良かった朱音……オレの朱音」
「ちょっ……!」
男は、人懐っこい態度で朱音を抱き締めた。
驚く朱音を余所に、その細長い指で朱音の頬を優しく撫でる。
「本当はあの時、すぐにでも朱音とこうしたかった。だけどオレの力がギリギリだったから十年も待たせちゃったけど……ようやく花嫁として迎え入れられる」
「は、花嫁ッ?」
あまりにも予想外の言葉に声を上げた朱音だが、男の方は少しも動じていない。
「うん、花嫁。だって……オレ以外の誰かが朱音を手に入れるなんて、許せないもん」
ニッコリと笑う男のその目は、少しも笑っていない。
その表情にゾッとしながら、朱音は、改めて彼が人間ではないことを思い出した。
学園でのあの騒ぎの際に見せたあの挙動は、どうあっても人間ではなく……
「あなたは……あやかしなの?」
男は、口端を持ち上げる。
「そうだね。かつて、
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