春子との会話
@DojoKota
全文
失われるってことについて、春子の独り言が始まる。私は黙って、壁に立てかけられた傘みたいな姿勢でそれを聞いている。雨が降る。一方的だ。本当にそう?私は春子の言葉をただとりあえず聞くことにする。
春子は高くもなく低くもない声で、つっかえることもなく、たまに、唇を尖らせて何かを思い出しながら喋っている。「失われる」
「うん」
「失われるの語源は」
「うん」春子は続きを続ける。
「失われるの語源は、牛が割れる。うしがわれる、うしがわれる、それがなまって、うしあわれる、そしてそして、さらになまって、うしなわれる。ほら、牛が割れるが、失われる。だって、現に、牛と失は似ているもの。それに、これが何より証拠なのだけれども、牛の下半分を縦に割ると、失だもの。失だもの。ほらね、牛が割れて失われるでしょ。我ながら、説明がくどいなあ、と思うけれど、でも仕方がないじゃない、私はこうして私の考えを自動的に喋るのが好きなのだから、それに確かにその通りでしょ。私の言っていることにかろうじて筋は通っているでしょ。牛筋みたいに歯ごたえのある筋が。反論の余地、ないよね。だから、つまり、こういうこと。牛が割れる様を示して、昔の人は、失って表したんだ。でも、ちょっと待って、牛が割れるってどういうこと」
「知らないよ」って私は答える。だって、本当に知らないからだ。
「そっか」春子は私の反応が面白いと同時に退屈なよう。黙ることによって私に二の句を催促するよう。
「そもそも全てが初耳だよ」でも、頭の鈍い私には、特別な言葉は出てこない。
「じゃあ、教えてあげる。お姉ちゃんが、私に教わりたがっているなら、だけれども」春子と私は姉妹だった。全然似ていないかもしれないけれど、生まれた時はほとんど同じ。10ヶ月同じ胎の中に暮らしていた仲なんだ。
「うん、教えてよ」私がそう素直に尋ねると、春子はにっこりと微笑んだ。この時、この返答を待っていたみたいに、というよりも、待っていたんだろうなあ、と私は思う。だって、春子の話など、たぶん、きっと、私以外誰も真剣に聞いてあげないから。だって、失われるが、牛が割れるなわけ、ないから。この世の中の大半の人間は、嘘を、意図的な嘘を、憎むから。春子は嘘をつく、誰にでもすぐにバレる嘘を、頭の中をこねくり回して作り上げて、誰彼構わず話してしまう、春子は無意味に嘘をつく、春子は、嘘をつくことが正しいことだって、思っている。故に、春子は春子と関わる大多数の人間に、憎まれている。そんなことで憎まなくてもいいのにな、って私なんか思っちゃうけれど、たくさんの人間が春子を憎むんだ。消えて欲しがっているんだ。春子に。でも、私は春子を憎まない。姉妹だから。そういうわけじゃない。憎くないから憎まないだけ。私は、相手が誰だろうが、嘘をつかれたくらいで、人のこと憎くならない。あんまり何も信じていないからだろう。春子は続ける。
「牛が割れると血がたらたら。牛が割れて牛失われて、だからだらだら体から流れ出る血は赤いから。赤いでしょ。血は赤い。赤いは朱色。この血の色のことを牛と失を重ね合わせて朱というの。ほら、論理はこうしてつながっていく。私が作ったんじゃなくて、もともと与えられたものとしてそれらがあって、私はただそれらを発掘していくだけだから。私は嘘をついているわけじゃない。嘘がもともとそこにあるだけ。もともと、牛と失はそういうものだった、だけだから。だから、牛が失われて流れる血の色は朱色を指すの。これは確かなこと。そしてこれは私の推測だけれども、昔の人は、染料として牛の血が欲しくって、だから、よく、牛を割っていたの。そして、その血の色を朱色と呼んだ。でも、ここで疑問は、なんで、しゅ、って音にしたかってこと。これは私にはよくわからない。牛を縦に割く時の擬音?かろうじてそう思えなくもないけれど、根拠薄弱。ところで、牛を割ってしまえば、朱色の血は手に入るけれど、その分牛の生命が失われてしまうよね。生きていた牛の生命が失われてしまうよね。だから、牛が割れると失われるってことだと私は思うんだ。牛が割れるは失われるを意味していたんだ。失われるって牛が割れることなんだ」春子は興奮しているからか、鼻息が荒くって、春子こそ牛みたいだ。私はそう思いつつ、思ったことは言葉にしない。
「ふうん」
「そうなんだ」
「そんな気もするね」春子の熱弁に私は素直に押されるんだ。
「そう、学校の授業で、みんなの前で、発表したら、みんなぽかーんとした顔で、しーんとしてた。誰も喋り出さないの。返事をくれないの。反論も賛同もなし。私の話みんな聞いていたはずなのに、誰も聞いていなかったみたい。私は一晩中考えて、考えをまとめたのだけれども。渾身の推理だったのだけれども。ただ、私の喉が渇いただけ。みんな静聴していただけ。そしてチャイムがなって、放課後になっただけ」って春子は呟く。私は春子の隣を歩いている。
「私は、いい線いっていると思うよ」だって、そう言われてみれば、そっかって気がするから。
「ほんとう?」春子の目は猜疑心に満ちていて、私はそれを溶かさなくちゃ前へ進めない。
「ほんとうだよ」
「よかった」
「うん、よかった」
「でも、私は自分で自分に反論したい気もするんだ」
「どういうこと」
「だって、他にも解釈がありうるから。失って字をじっとよくみていると、私には、ふっと、失って半人半牛だよなって気もしてくるから。だって、よく見て、見たまんま、その通りでしょ。半人半牛を濃縮して一字にしたならば、それって失じゃない、よく考えてみて。頭の中で文字を描いて、その二字を縦に並べて、ぎゅっと圧縮するの。二つの文字をトランスフォームさせて。ほら、牛と人は足して二で割れば失われる。やっぱりここでも牛を割ればいいんだ。で、半人半牛って、つまり、ミノタウロスのことだよね。まあ、ミノタウロスは、頭だけ牛かもしれないけれど。ミノスの大王が大迷宮に閉じ込めた大怪物のこと。今はなき失われた伝説。つまり、失の語源はミノタウロスを形象したもの、かもしれないってこと。これはかなり有力な線。でも、まあ、この推理は、流石に外れているかな、とは思うけれど。だって、失は、漢字だから、流石にギリシア神話がその字の由来、だなんてわけがなのだから」
私たちは姉妹で、たぶん春子は私より頭がいいのだった。でも、たぶん、だけれども。でも、やっぱり、ものすごい馬鹿なんじゃないかな、って思うことの方が多かった。うすのろ、ではないけれど、馬鹿。俊敏な馬鹿。駿馬。馬や鹿のように忙しない、馬鹿。じゃあ、私の方がやっぱり少しは賢いのかな、というと、そういう気はかけらもしないのだった。私は私で、何にも中身のない、ただの馬鹿。泥土のような馬鹿。はかばかしく馬鹿。じゃあ、二人して馬鹿、なのかというとそうでもないのだった。だって、私と春子はおんなじじゃない。だから、私と春子はおんなじ次元で馬鹿なわけじゃない。でも、私と春子はそれぞれに馬鹿。馬鹿な私たちは誰かに馬鹿にされることをみんなに馬鹿にされることを、実は内心すっごく恐れている。だから、春子は私の前ではしゃぐ。私は春子を馬鹿にしないからだ。私は春子と以外誰とも言葉を交わしたくない。だって、春子以外の誰も彼もが私のこと馬鹿にするからだ。父母とだってだから、話したくない。目も合わせたくない。体温を感じられる距離にいて安心できるのは、春子とだけなんだ。だから、こうして私は春子と話している。春子を春子の通う学校の校門まで出迎えて、隣に並んで話している。それに、春子は重度の方向音痴だったから、私がいないとダメなのだった。学校へ行く時も、病院へ行く時も、買い物に出かける時も、いつも私が隣を歩いている必要があった。今も、そんな事情で、私は、私が通っているわけでもない高校の校門まで、大して偏差値の高くない高校まで、とぼとぼと一人歩いて、校舎から出てきた春子と手を振りあって、合図して、私と春子はそこそこ仲が良いから、ハイタッチまでして、二人並んで歩いているのだった。一緒に並んで家まで帰る途中。今日学校で何かあったの。尋ねると、いつも通り、と頷いた後で、ぶつぶつぶつぶつと独り言を春子は始めたのだった。それがさっきまでの会話だった。会話はどこまでも続いていくのだった。会話というか、春子の独り言。もう五月。春子は高校一年生。もうそろそろ限界かなって時期。私は一週間でダメになってしまった。そして、ダメになったままダメじゃなくなりたい、とは思えないのだった。春子は少しだけ持ちこたえている。でも、私は春子の独り言を聞いていて、少し楽しかったのだった。私が春子の同級生ならば、春子を楽しめるのだった。でも、私は私で辛くて苦しいことは苦手だから、高校には通っていないけれど。
「そっか」と私は相槌を打った。
「もっと話しててもいい?」
私は春子のお話を聞くのが大好きだから、「うん」って頷く。
「どうぞ、どうぞ」
「じゃあね」って春子は言葉に勢いをつける。笑顔の度合いが少し増す。顔面だけでジェットコースターに乗っているみたい。
「うん」私は、そんな春子の変化がただ嬉しかった。
「私にはね、私だけかもしれないけれどもね」
そんな断りいらないのに、って思いながら、「うん」って私は頷いてみせる。私はさっきから、頷いてばかりいる。春子には川の流れのように喋り続けて欲しかった。水流に押し回される水車みたいに、私は一定の頻度で頷いているだけでよかった。私は、春子の邪魔をしたくなかった。ただ、お互いに流れていたかった。私は一人では流れられない性分だから、春子が必要だった。でも、利用したくはなかった。
「私にはね。もしかしたら私だけじゃないかもしれないけれど、失って字は笑って字に見えるんだ。それは例えば、片眉を剃ったみたい。そもそも笑って顔みたい、へのへのもへじの顔みたい、で、笑の竹の眉毛の片方を剃ったのが、それが失。で、それを鏡で眺めて失笑しちゃうんだ。でも、笑って背伸びすると質みたいだけれども、質まで行くと、流石に顔って感じはしない。でも、やっぱり、笑ってる感じがする。質は多分、ちょっと背伸びをした笑で、それって笑いながらあくびしている感じで、笑にとっての失が、質にとっての盾なんだと思う。盾って字、片眉を剃った女の人が笑いながらあくびをしている、あまりに同時に色々していて大変そうだ。でも、盾って眉って字にも似てる。でも、どうして肩と眉が似ているのか、私にはそこまではよくわからない。法則の則は、こう両手で挟んで捻りあげると、削って感じ。則と削の左側が高速で回転してドリルみたいに言葉を削るの。例えば、一の字を削が削るの。それは、前が削になるって感じ。舌はすっごく古くて絶対腐っているし、燃の下って少し幅広の川みたいで、どうして燃えているのか、少し不思議だ。だって、魚は炎の中を泳がないでしょ。でも、燃や魚の下半分の点々点は大きな川だとして、熊のその点はそのまんま四つ足を模したんだ、そっくりそのまま。でも、ヒの部分も四つ足に見える。馬もそう。でも、そうしたら今度は、鳥はどうなるのって思っちゃう。四つ足の鳥なんて気持ちが悪い。電動ミキサーみたいだよって思っちゃう。四つの回し手のついた電動ミキサーって言ったら、わかる?わからないかな。家に昔あったやつ。あれが、私には四つ足の鳥に見える。コケッコッコーって。でも、四つ足の気持ちの悪い鳥を想像するのは、なんだか楽しい。背中がぞわぞわしちゃうんだ。いかにも話しかけてきそうで。それに、その四つ足の鳥、よく見ると、可愛いんだ。よく見るとって、頭の中にしかいないけれども。でも、可愛いんだ。ところで、獣の左半分も獣の足跡みたい。ほら、爪が生えていて」それはいつもの会話なのだけれども、いつもの会話はいつものように、少し楽しいのだった。春子は、私のとても歩幅の狭い歩き方に合わせて、高校生にしては、緩慢に歩いてくれる。高校生はいつだって急いでいて、急ぐように、歩くものだけれども、私のトテトテという足運びに、春子は大股の歩調で、とん、とん、と区切り区切り歩いてくれる。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに」
「宇宙の黒色と、ゴキブリの黒色がどこかで交わっていたら、すごいことになるよね」
「どういうこと」
「だから、そのまんま。一匹いれば三十匹いるって言われているあのゴキブリが、どんどんどんどん繁殖を繰り広げるうちに、どんどんどんとピラミッドみたいに集積しちゃって、ゴキブリピラミッドになって、色まで漆黒に、濃縮されてちゃって、宇宙の、深みのある闇と同色になって、同期しちゃって、どうかしちゃって、宇宙と繋がるの。夜、真夜中、月明かりもないあの暗黒が、実はぎゅうぎゅうに詰まったゴキブリなの。ブラックホールって実は巨大なゴキブリホイホイで、ゴキブリがあまりに集積しちゃって、真っ黒になったのがブラックマターなんだって」
「意味がよくわからないよ」
「意味なんてないよ」
「意味なんてないなら言葉にならないよ。普通は」
「意味はないけれど、そういう夢を見たの」
「夢」
「うん」
「でも、そんなわけないよ」
「そんなわけなくもないよ。だって、同じ黒だよ。宇宙も。ゴキブリも」
「よくわからないよ」
「私も、よくわからないよ。でも、その絵を想像すると、私には楽しいんだ」
「春子が楽しいなら、私も少し楽しいかな」
「その宇宙に繋がるゴキブリたちの総領がゴキブリ伯爵っていうの。私が名付け親ってわけじゃなくて、昔から、そう。なんとなく、王様より、伯爵って感じがするの」
「王冠はかぶっていないの?」
「黒光りするゴキブリに王冠は似合わないから。でも、地面に引きずるくらいの長さの紫色のローブなら羽織っているの。それに、月の石がはめ込まれた錫杖も。そして、ふっと思ったのだけれども、ゴキブリって、黒飴を包装しているビニール袋って感じもする。ちょうど大きさもおんなじくらいだし。黒飴の入ったお菓子の袋はゴキブリが三十匹詰まっているみたい。いや、違うかな。透明なビニール袋に包装された黒飴やチョコレートはゴキブリみたいにカサカサ音するよ。だから、ゴキブリなんだよ。だから、始終カサカサ音立てながら這い回るし、食べたらきっと、甘いんだよ、ゴキブリの話。ゴキブリの外殻は黒い包装ビニールなんだ。人間の食べ残した甘いものを、くるくるって包み込んで運び去ってしまうの。そして、宇宙はどこかでゴキブリ伯爵率いるゴキブリたちにつながっていて、それに甘いんだよ。だって、ゴキブリも甘いもの大好きだもの」
「甘いのが大好きで黒い色、なら、ゴキブリじゃなくても蟻でいいんじゃない。大量のゴキブリ想像するより、気が楽だよ、黒蟻なら」私も少し提案してみる。でも、いつも春子は自分の考えに夢中だから、私の考えなど半分も聞いていないだろう。でも、私は私でそれはそれでいい、と思っている。だって、私は春子のそばにいる印として言葉を発しているだけだから。
「蟻は、ゴキブリじゃないよ。カサカサいわないよ。それに、蟻じゃあ伯爵にふさわしくない。せいぜい行って伍長止まり。すっごく、子供って感じ。私より子供って感じ。だから、蟻ってよだれみたいって感じ。甘いお菓子のためにこぼれ落ちた幼な子のよだれって感じ。幼な子って幼虫って感じ。よだれが這い回ると蟻になるんだよ。羽根も生えていないしね。でも、ゴキブリって嘔吐って感じ。ごぽごぽってどこか底から吐き出されてどこからともなく地の底へ逃げ込むって感じ。湧いては沈み湧いては沈み。羽根の生えているゴキブリだからこそ、宇宙へも羽ばたけるし、ビニール袋って感じもするの。ゴキブリは独立しているけれど、蟻はまるで影みたいに従属している。この違いお姉ちゃんにはわからないのかな。ううん。わからなくてもいいんだけどさ」
「わかるよ。少し」
「そっか」
「うん」しばらく、黙って歩く。でも、会話が途切れたってわけじゃなくて、春子は研究熱心に沈みゆく太陽を眺めていて、私は春子の唇から新しい言葉が溢れるのを今か今かと待っているだけ。会話が途切れたんじゃなくて、時間の流れの方が途切れたんだ、きっと。授業が終わって帰宅時間ということもあって、街は踊りを踊っているように、人の群れが前後左右に行き交っている。どうして、私が人間にありふれた歩道を見て、街を踊っているようって感じるかっていうと、春子が昨日、そんなことを口走ったからだ。だから、サングラスをかけると街が赤黒くなるように、昨日、春子と喋ったから、街が踊り出す。春子は言ったんだ。街が踊っているみたいだねって。私は素直にその言葉を受け取った。その時はわからなかったけれど、今もよくわからないけれど、今は少しその感じが目の前で幻として演じられている。だから、私はそう感じるわけで、春子の言ったことなら、どれでも素直に受け入れて自分の目玉の中へ、コンタクトレンズみたいに、あるいは取り返しのつかない刺青みたいに、春子の言葉を文字にして、ほうり込めるんだ、彫り込めるんだ。一日だけ遅れて、春子と同じものが見えている私。ほんとうかな。ほんとうかな。春子は昨日、そんなこと言ったかな。そして、私は本当に、街が踊っているようだと感じられているのかな。疑いだすと自信なんてあっけなく胡散臭く雲散霧消、吹き飛んでしまうけれど。私はとぼとぼ歩いていて、春子はしずしず私のあとをつけたり、たったかたったか私を追い越したり、トテトテと私の周りを回ったりする。春子はエネルギッシュに火照っていて、私の鬱っぽい歩き方に、我慢がならなくなって来たんだ。でも、私と一緒にいたいって気持ちが、春子をぐるぐると回転させる。
「静かな森の中を歩いていると、まるで一枚の大きな葉っぱの上を歩いているみたいな感じがするよね。一枚の大きな葉っぱには、点描画で森が描かれているんだよね。巨大な大きな葉っぱにたくさんの色彩を散らすと森になるんだよね。ねえ、お姉ちゃん。そんな気が、私はするんだ。頭の中の森を歩いていると、何か大きな枯葉を踏み抜かないように、注意して、自分が絵の具になった気分で。その点描画の中を今度二人で歩きたいね。どの森も一枚の葉っぱってわけじゃなくて、静かな森じゃないと、ダメなんだ。静かな森だから、私たちも、絵の具になって森に溶け込めていけるんだ。足音がどこまでも響き渡るくらい、静かな森じゃないと、巨大な葉っぱの上を歩いている気分にはなれないんだ。ほんのちょっとでも体のバランスが崩れると、ずぼって葉っぱに穴が空いて、だから、森の中でハイヒールとか履いちゃいけないんだけれども、でも、逆に、落っこちてみたくもあるんだ。森の中へ。見たこともない森の裏側楽屋裏に落っこちてしまいたい。森は二階建てなんだ。木と林の二階建て。普段私たちはその上の部分だけ、歩いている。それは二階建て、というより、地下室付きの一階建て、でも、地下の方が広いんだ。主役なんだ。ヒロインだから。ヒロインは主役で広いんだ。楽屋裏ではカブトムシやカマキリは等身大でおっぱいもおしりも隠さずにほとんど真っ裸でほっつき歩いているんだよ。みみずみたいに。潔いね。巨大な銭湯もあって、みんな裸で肌色で和気藹々している。黒蟻は本当はただの碁石で、森の神様が一人遊びしているだけで、森を歩く人間の影を切り取っては、それを適当に細切れにしては、その影は黒蟻になって、黒蟻ってことになって地に這い回り始めるの。全ての影を削り取られると、その人本人が巨大な黒蟻になる。黒蟻の女王様か王様に。だから、人間たちが森を歩かなくなると、黒蟻は、消えてしまうの。でも、人間たちが森を歩きすぎると、人間たちの影の方が、消えてしまう。影がすり減ってしまうとね、錨がなくなった船みたいに、人間は浮かんでしまう。地に大量の黒蟻を残して、空を飛んでしまう。それが羽蟻。交尾の時。そんな森に行ってみたいの」春子は、ずっと喋っている。穏やかな声で、喋っている。私はしばらく、耳を傾けていたけれど、一応一言言わなくちゃって思って、腕時計を見やった。
「寄り道してたら、夕飯に遅れちゃうよ。森へなんか、行けないよ」
「夕飯は何」
「知らない」
「夕飯はいつ」
「昨日の夕飯の二十四時間後」
「いいよ、お腹なんて、ただ減るだけだもの。お腹なんてどんどんすり減って、なくなっちゃえばいいんだ。私はお腹なんて大嫌いだ。このこのこの野郎。私は背中さえあればそれで満足だよ背中大好き。いつでも誰に対しても後姿でことを済ませちゃうの。どことなくセクシーじゃん、いつも見返り美人、きっと。ねえ、お姉ちゃん。もしも私がお腹がなくなるくらいお腹が減るくらい家にも帰らないで、どこそこをほっつき歩いていたら、お父さんもお母さんも心配するのかな。いやな思いするのかな」
「私には、よくわかんない。ただ、びっくりするんじゃないかな」
「お腹がなくなったら、その窪地に貯水して水力発電のダムみたいにしたいって、思うんだ。ご飯を食べない分、自家発電しなくちゃだから。ごっそりと抜けおちて大きくくぼんじゃったお腹の穴を湖に見立てて、水を張って、水力発電で、タービン回して、目も回して、ありとあらゆる関節もぐるぐる回して。カッパの頭の皿って、もしかしたら水力発電のダムかもしれないな。私は私の肉体をそのようにしてグリーンエネルギーで駆動させるの。でも、きっと、水っぽい体になっちゃう。つねにぶるぶる震えてたり、ちょっとつつかれただけで、体の輪郭が歪んじゃったり、でも、まあ、それで家に帰らなくても済むのなら、ご飯を一生食べなくて済むのなら、儲け物だな。静かな森の中で、お腹をなくして、肉体を水力発電に切り替えたいよ。なんだかその方が、森と調和できそうだし。そのためには雨の日に、お腹をすかせてずぶ濡れにならなくちゃ。大変そう。寒くて震えちゃうだろうけれど」そんなことしたら死んじゃう。でも、そんなところまでいかないだろうこの子は。
「じゃあ」と私は提案する。
「今夜は二人で家出しようか」
「いいの」
「いいよ」
「いいんだ」
「今夜だけなら」
「すごいね」
「大したことじゃないよ」
「お姉ちゃんもお腹がなくなって、水力発電になっちゃうよ」
「なるわけないじゃん」
「なるったらなるよ」
「ただ、すっごくお腹が減って、夜が寒いだけだよ」
「なるったら、なるからさ」
「なってもいいし」
「まあ、そうだよね。なってもいいよね。でも、きっと、すっごく、これまでじゃないって感じがするよ。楽しみだね。体型だって変わるだろうし、これまで着ていた洋服もサイズ違いになっちゃうかも。身体中からゴボゴボ水流の音が聞こえてくるんだ」
街ゆく人たちというか、私たちとすれ違う人たちの中で、私たちの会話を聞き取った耳ざとい人たちは、私たちのことちらちらと見ている。なに、どうかしたの、って私は彼らの耳をじっと見つめる。目を合わせちゃいけない、だって、なんだか傷つきそうだ、お互いに。と思うから、耳を見つめている。でも、彼らは耳と目の両方で見つめてくるんだ、私たちのことを。だって、私たちがどんな会話を交わそうが、私たちの勝手で、咎め立てされることじゃないんだ。咎めるって漢字だけれど、漢字だけどハングルみたいだよね、っていつか春子が言っていた。咎め立てされるのが、嫌ってわけなかったかもしれないけれど、春子ならそうことに目ざとく気づきそうだ。そんなことを思う。そんなことを思う私を、ただ通り過ぎるたまたまの人選が私を見つめながら通り過ぎる。高い高いバルコニーから私のことを見つめる人もいるだろう、私には死角だけれど。彼らが何を思って私たちのこと見つめているのか、私にはよくわからない。でも、私たちが、どんなに頭の悪いことをのたまわっていても、それだけで軽蔑されたくないんだ。ブサイクってだけで馬鹿にされ駱駝ってかわいそうだ。特に、春子のこと見下されたくないんだ。春子はいい子なんだから。私に大きな力があったら、みんなの耳むしり取って回るのにな。春子は、私に話しかけるのに夢中で、そんな周囲のこと、何にも気づいていないみたい。
「お姉ちゃんは、水力発電なんだ。大雨が降るとどんどんどんどん、目に見えて膨張するんだ」なんてことを春子は相変わらず喋っている。私は、色々ぼんやりしていて、春子の言葉の大部分を聞き逃していたけれど。
「握力鍛えなくちゃな」って私がつぶやくと、春子は、そんな唐突な私の宣言に、キョトンとしつつ、応援してくれる。
「お姉ちゃん、頑張れ」
「私はたくさんの耳をむしり取るの。そのために、握力を鍛えます」
「すごいすごい」
「私は握力を鍛えて人間の耳をたくさんむしり取ります」私は威嚇のつもりで、周囲の人々にも聞こえるくらいの声の大きさでそういったのだけれども、みんな、そんな私の威嚇に頓着せず、じっと耳を傾けているのだった。もしかしたら、私たちのことが好きなのかもしれなかった。でも、そんなはずは、ないはずだった。
「やりたいようにやればいいよ」
「一つ、楽しみができたところで、でも、家出にはそれ相応の準備が必要だからさ。一旦お家に帰ろうよ。それで、夜、寒くないように、大量の衣類を重ね着して、護身用のナイフと、懐中電灯を携えて、二人して、高校生にもなって、まあ、私は高校通っていないけれど、でも、年齢的には高校生ってことだけれども、春子は高校生なわけじゃん、うん、そんな年齢にもなって姉妹二人で家出なんてさ、馬鹿みたいだけれども、子供っぽいね私たち、でも、楽しいよね。きっとどこへもいけないのに、どこかへ行こうとしてさ。馬鹿みたい。でも、楽しもう。お父さんとお母さんには内緒で。ただ、なんでもない時間を楽しもう」私は少しだけ現実的なことそう呟く。でも、本当は、何かが起こればいいのに、って内心思っていた。思っているだけで、その思いは恥ずかしいから言葉にしない。
「うん。お姉ちゃんは頼りになるから、大好きだよ。頼りがいがないからって嫌いにはならないけれど。でも、頼りになるところが、お姉ちゃんって感じがする。頼りにならなかったら、私がお姉ちゃんになれるのにな、って思ったりもする。だって、お姉ちゃん、一度くらいなってみたいもの。私がお姉ちゃんになれたなら、少しくらい背が伸びそう。どこまで遠くまで見えるのかな。お姉ちゃんの視界でこの世界を見てみたいよ」私たちは家にたどり着いた。まだ、父も母も帰宅していないもぬけのから。きっと、身の安全を考えるなら、制服姿より、男物の私服姿の方が、良いと思うから、父の衣装棚を漁った。季節は夏だから、忘れ去られたように分厚いコートとかあって、真夜中がどのくらい冷えるのか、家出なんかしたことがない私たちにはわかるわけもないから、念のため、毛布がわりに、リュックサックにそれを詰め込んだ。リュックサックが無意味に膨れて、腕を通すのが難儀だった。人間水力発電説に固執する春子は反対したけれど、非常食に台所にあった、お菓子類やらもリュックの隙間に詰め込んだ。春子は本気で餓死したがった。どうせ家出するなら餓死したいって言い張った。
「生きていてもいいことはないよ」
「でも、生きる以外に他がないよ」
「なんのために生きているの」
「ちょっとした喜びを喜ぶため」
私たちはこんな夕暮れに、旅行客と見紛うほどパンパンに膨らんだリュックサックを背負う。妙に厚着をした姉妹が、一台の自転車に二人乗りして坂道を下っていく。できるだけ遠くまで行きたかったから、徒歩の心地よい緩慢さを捨てて、二つの車輪に身を委ねることにしたんだ。私たちの家は貧乏というわけでもなかったけれど、私は半分幽霊みたいなものだから、存在しないような存在だから、父母は乗用車を使いまわすとして、私たちの扱える乗り物といえば春子用の自転車しかなかった。肝心の春子がほとんど使わないシルバーの三段速の自転車。私は本当に春子以外と関わらないで生きているんだ。だから、私は幽霊とほとんど同じ。
「この坂道はどこまでも続いているんだ。だから、自由落下のようにどこまでも行けるんだ」と春子は主張したけれど、下り坂はやがて尽きて、やっぱり、人力じゃそんな遠くまで行けないねってことで、上り坂を交代で自転車を押しながら、とぼとぼと歩いた。太陽はまだ、全然沈みそうになくて、最悪のことなんて考えられなくて、わくわくした気分だけ、味わえる時間帯はまだまだしばらく続いてくれそうだった。でも、私は早く幽霊としての存在を終えたくもあった。ただ惰性で生きているのは、何か負の感情を必要として、しんどいのだった。無力感がずっと身にしみ続けるのだった。でも、春子は笑って私に話しかけてくれるんだ。
「森にたどり着いたら、ライオンを探すんだ。そして、ライオンに、ライドオンするの。確かに、ライオンはLionかもしれないけれど、rとlの違いなんて知らないし、ここは日本だから、別に意味は通じるでしょ。虎じゃダメ。ライオンじゃなきゃ。だって、トラドオンしても、なんのこっちゃでしょ。なんとなくそんな言葉もありそうな響きだけれども。スタディオン?みたいな。でも、どっちみち、トラにスタディオンなんてわけわかんない。でも、ライオンにライドオンなら意味が通じる。でも、ここは日本だから、普通の森には、ライオンはいないかもしれない。だから、こうしてどうやってライオンを乗りこなしてやろうかなんて考えている私は、すごく無意味な思考を積み重ねているのかもしれない。思考の中で何度もライオンに噛み付かれてさ。痛い。でも、楽しいと思うよ。ライオンにライドオン」
私は、「うん」って小さく頷く。何に対する頷きなのか、我ながらわからないけれど。
「ねえ、お姉ちゃんは、森まで辿りつけたら何をしたい?何をしてもいいんだよ。だって、家出の最中なんだから。決まりなんて、私たち二人の馴れ合いの中にしかないんだから。お姉ちゃんなら何をしても似合うと思うよ。お姉ちゃんなら、私にとって何者にでもなれるよ。せっかくの二人きりなのだから、私は、どんなお姉ちゃんでも受け入れようと思うよ」徐々に徐々にすれ違う人が減っていく。少しずつ少しずつ、町の辺縁へ、近づいているんだ。
「私は、なんにも、変わりたくないな。何か別の存在になるなんて怖いから」
「なんだ、すっごくつまんない。野心がないんだ」
「でも、これまで出会ったことのない何か、これからも出会えっこない何かに出会いたいなあ、と思うよ。だって、退屈だから、自分がとても空っぽな感じするしさ。それで何かに巻き込まれるのっていいなって思うよ。そんな都合よくいかないだろうけれど。家出なんてただお腹が減って寒いだけだよ」
「寒いって暴れるに似てるよね。暴寒着って感じだし。でも、寒いは寒いままだし、暴れると暖かいよね」
「うん」
「脈絡ないこと言っちゃったな」
「うん」
そして春子は何かを思い出すような仕草をした。糸を指先でたぐり寄せるような仕草だ。
「じゃあ、宇宙侍を探しだそうよ」
「宇宙侍?」
「宇宙侍は格好いいんだよ。そして、強さを超越している強さを。何でもかんでも刀に見立てて振り抜いて、振り回して、切りかかってくるの。こわい。よくわからない、と思うかもしれないけれど、畑の大根だって、足から生えている影だってすね毛だって全て引っこ抜いて刀に見立てて切りかかってくるの。すごい切れ味で。無我夢中に。ちょっと可愛い。また、つまらぬもので切ってしまったってことだよ。可愛くない、ひたむきさが。宇宙侍に切られるとどうなると思う?」
「わからない。だって宇宙侍なんて初耳だし」
「どうなると思う?」
私が黙って答えを待っていると、春子も黙ってしまう。そしてにこにこ一人で笑っている。そんなに家出が楽しいのだろうか。楽しいのなら、よかった。
「どうなるのよ。早く教えてよ」
「お姉ちゃんも少しは考えなよ」
「でも、春子は答えを知っているんでしょう」
「うん」
「だって、春子が作った存在なんだから」
「うん」
「じゃあ、私が当てずっぽうを言っても意味がないじゃない」
「当てずっぽうが本当になるかもしれないじゃない」
「宇宙侍に切られたら、死んじゃうよ。だって切られるんだか、すっごく、死んじゃうんじゃないの。死んじゃった後宇宙怪獣にでもなるんじゃないの。宇宙ゾンビとか」
「そうじゃない。そうじゃない。全然死なないの。宇宙侍に切られると血液の代わりに傷口からぶわあ、と宇宙が噴き出すの。漆黒の宇宙が。漆黒のスペースが血の代わりに。そして、血は、流れないから死にはしないんだ。人が宇宙侍に切られることで、宇宙の中に宇宙が生まれて、宇宙と宇宙の境界の膜の上に、ウォーターベッドみたいに寝そべられるの。宇宙が増える分、神様も、増えるんだ。血液が漏れ出さないんだから、切られても死にっこないんだ。人を殺す心配がないから、宇宙侍は好き勝手に出会い頭に切りまくる、ひどいやつなの」
「ほら、私が何言っても、春子の好き勝手に話を膨らませるくせに」
「だって、死なないんだもの。人が死ぬ話なんて、私はしないよ。私は死にたくないし。話したくないし。お姉ちゃんが死んじゃったら泣いちゃう」
「宇宙侍は、泣く暇もなく切り掛かってくるの?」
「目の前が、目の雨になっちゃう。つまり、涙ってこと。お姉ちゃん、何か言った」
「宇宙侍についてもっと聴きたいなって」上り坂でも下り坂でもなくなったから、私は後輪に春子を跨らせて、ペダルを踏む。自転車は私の体重分前進する。その分体重が減るってわけじゃないから、肉体って便利だ。春子は軽いのだ。蛭みたいだ。私に張り付いて私の体力をほんの少し奪いやがる。嫌いじゃない。夢見がちな人間は夢の中でおやつでも食べているのだろう、だから、夢の外では何にも食べる気力も湧かないのだろうっていうくらい春子は小食で、ご飯粒が一粒ずつ行列をこしらえてその口へ運び込まれるくらいおちょぼ口の小食で、ご飯から逃げ出したいみたいで、その分相対的に私の方が重たい。だから、二人乗りで自転車を漕ぐなら、重たい人間が漕ぐべきだ。普段運動不足の私だから、すぐに呼吸が上がってしまうけれど。でも、春子よりマシだと思う。だって私はお姉ちゃんだから。お姉ちゃんは少しだけ強いはずだ。尺骨と橈骨なら、橈骨がお姉ちゃんだ。なくちゃならない支える何か。春子のこと守ってあげられるはずだ。春子が私のこと必要としているかは知らないけれど。
「春子、落っこちないでよ」
「うん」
「手放さないでよ」
「うん」
「ところで、宇宙侍ってどこに行ったら会えるの」
「宇宙侍は普段何気ない一般人の格好をしているんだよ。で、ある日、ふつふつと人を切りたくなって、切なくなって、身近な人間を手当たり次第に切りまくるの、いきなり。いきなりだよ。宇宙侍は宇宙侍が切りまくるまでは宇宙侍ってバレないんだ。本人さえ無自覚だから。切って切って切りまくって、宇宙が、宇宙が、人体から溢れ出る宇宙が見たくって、宇宙が宇宙が、あふれ出して初めて、宇宙侍は宇宙侍ってわかるの。私も見てみたいけれど、宇宙、でも、私はまだ宇宙侍じゃないから切れないんだ。だって、指先をちょっと切り裂いただけで、人体なんて目じゃない大きさの宇宙が溢れてくるの、宇宙侍だったらね。それはとても綺麗なの。ぶばわあ、って。ばぶわあ、って一点の切り口か、漆黒色に広がるの。拡大するの、すごい速さで。しかも死なないの。相手が死なないのにやたらめったらに切り刻めるなんてとても嬉しいことでしょ、お姉ちゃん。楽しくて楽しくって、切って切って切りまくりたくなるよ、誰だって、私だってそんなことできたなら。切られた方も、自分の体からどくどくと届く距離に銀河が溢れ出していく様を見たら、まあ、切られて少しは痛いかもしれないけれど、まあ、いいかなって思えるはずだよ。だって、好奇心を刺激されるのは、人間にとってとっても快楽だから。だって、綺麗だし、そんな体験初めてだし、自分が輝きを放つ宝石になった気分だよ、きっと。吐き出すものは漆黒だとしても、何かを四方八方に吐き出し続けることは、その吐き出されるものが一定の色彩を保ち続けるならば、きっと、綺麗だよ。風景がめちゃくちゃになるだけで、実害なんてないんだし。自分の痛みをほんの少し我慢できるなら、それで万事OKじゃん。みんな喜んでくれるんだから。そう、害が一切ないの。宇宙が溢れると、町中が宇宙になるだけ。宇宙にみんな包まれるだけ。夜空が手が掴めるほど身近になるだけ。指先が、宇宙に埋まっちゃうだけ。オフィスビルの一角で誰かが切られたなら、オフィスビル中宇宙になって、エレベーターがいらないくらいの無重力で、でも、都合のいいことになぜか息とかできて、宇宙線の被曝もしなくって、なぜって、やっぱり、まがい物の宇宙だからじゃないかな。宇宙侍が人体を切り刻むたびに、本物の宇宙が溢れていたら、この世界が壊れてしまうよ。神様が怒りだすよ、地団駄を踏むよ、そんなめちゃくちゃがまかり通っちゃったら。ただ、宇宙に凄く似た何か、溢れ出すだけ。じゃなきゃ、神様が怒り出す、地団駄を踏むよ。何度もなんども。そうじゃなくって、誰も神も怒らないくらい穏便にことは進んでいくの。ぶよぶよする漆黒色のところどころキラキラする変な物質が止めどなく溢れ出すだけ。だって人体ってそういうものだから、そういうものが、人間の体にも、無機物の中にも、ありとあらゆる物質の中には、たくさん詰まっているものだから。宇宙侍はそれを排出する手伝いをしてくれるだけ。産婆さんみたいなものだよ。宇宙なんて羊水みたいなもの」
「春子の中にもあるの」
「なにが」春子は健忘症なのだろうか、自分の話に夢中になって、私の問いかけには一度聞いただけでは反応しきれないんだ。だから、「なにが、なにが、なにが」ってちょっと興奮して返事するんだ。
「だから、その、ぶよぶよする漆黒の変な物質」
「あるよ。当たり前じゃない。だから今にも本当は溢れさせたいよ」
「私の中にも」
「あると思うよ。多分、あると思うよ。よくは知らないけれど。でも、宇宙侍に切ってもらえば一目でわかるよ」
「宇宙侍に切られて何も溢れ出てこないことってあるの?」
「ないよ」
「じゃあ、私の中にもあるんだね」
「そういうことになるね」
「じゃあ、春子は私を切りたくなる?私の中からも宇宙を引っ張り出したくなるの?」
「どうだろう。でも、私は宇宙侍じゃないから」
「もしも宇宙侍だとしたら」
「お姉ちゃんには死んでほしくないから」
「死なないんでしょ。宇宙侍なら」
「でも、私はそうじゃないから」
「死なない程度に切ってみれば」
「痛いでしょ」
「痛くない程度に切ってみれば」
「そんなの無理だよ」
「無理じゃないかもよ」
「お姉ちゃんは私に切られたいの」
「ぶよぶよする漆黒の変な物質を見てみたい。私の中にそういうものがあるならば、吐き出して、蹴飛ばして、抱きついて、こねくり回して、遊んでみたいな。だって、今、体がとっても重いもの。自転車を漕いでるから、だけじゃなくって、本当に重いから。生きていたくないな、って思えるくらいには重いから。何もかもめちゃくちゃにしたい。ダメなんだ、本当は私」
「大丈夫だよ」
「そんな機械みたいに励まされても」
「春子のでも遊んでくれる。春子のぶよぶよする漆黒の変な物質。私からそれがあふれ出したなら、ねえお姉ちゃん」
「ひんやりしてて気持ち良さそう。気持ちいいの触ったら」
「宇宙は冷たくて、そして暖かいんだよ。だって、私の宇宙には血が通っているから。私の血が。溢れ出る宇宙の中で、私の血は凍えちゃうんだから。宇宙が本体で、私なんて薄皮持ちの薄皮みたいなものなんだ」
「うん。触ってみたい」
「お姉ちゃん、私降りるよ。降りて歩くよ」私がだいぶよたよたしてきたからだろう。もう随分と春子の学校と家との往復歩行しかしてこなかったから、ちょっと体力が落ちていたのだと思う。春子が気を遣った風なことを言う。へとへとに疲れた私の代わりに、春子は自転車まで押してくれる。私は夜風を全身で感じたくて、その場でくるくると回る。扇風機の翼になった気分で、両手をぶらぶらさせると、鬱積した熱が、腕から解けて、街に溶け出して、少しは楽になる。両腕が軽くなった。街といっても田舎者にとっての街だから、ただ、スーパーと本屋とコンビニがあるだけ。建物より街灯や点在する自動販売機の方が光り輝いている。流石に星の光は、ちらほらとしか見えないけれど。もう、こんな暗くなってしまっている。
「不思議だな。どうしてこんなに宇宙侍の噂話しているのに、宇宙侍は一向に現れてくれないのだろう。せっかく家出までしているのに。私としては宇宙侍を誘っているつもりなんだよ。私は宇宙侍の存在を信じている側の人間ですってすっごくわかりやすく誘っているつもりなのに。私なら、喜び勇んで立ち現れるのに。だって、私以外に宇宙侍のこと信じている人間っていないよ。これじゃあ、日常と何にも変わらないよ。すっごくつまらない。ただ、寒くて少しずつお腹が減るだけ。あと、もう少しで腹が立ちそうなくらい、腹が立っている。結局のところ、腹が立っているじゃん。でも、いらいらはしない」
春子は辺りを見回してみる。人間たちの帰宅時間はピークを過ぎていて、車道を通るバスの中身はいっぱいだけれども、歩道を歩く私たちの周囲に人影はない。だって、夜道の一人歩きをしたがる人は、あまりいないから。夜道を歩くのはわくわくするけれど、みんな何かが怖いから。連続殺人事件が街で頻発、しているわけでもないのだけれどな。でも、連続殺人事件の反対のことが、たとえば、なんだろう、わからないけれど、連続人助けおばあさんとか連続お節介小僧とかが活躍しているってわけでもないんだ。それこそ宇宙侍による連続無差別斬りとか、もない。だから、宇宙侍らしき人物も見つからない。私たち以外、人が一人もいない。宇宙侍が本当にいたならば、もっとみんな宇宙侍に切り裂かれることを期待して夜道を一人歩きするだろうけれど。
「春子、宇宙侍のことはもう忘れようよ。どうせ、存在しないんだそんな空想。探すだけ、人生が期待はずれになるよ」
「でも、昨日夢でみたんだけどな。きっと、現実の宇宙侍は、警察に捕まっちゃっていて、拘置所にいるんだよ。高知県の拘置所にいるんだよ。きっと。どうして高知県?知らないけれど、言葉が似ているから、なんとなく、そう思っただけ。それだけ。それにして高知県、すっごく遠いな、ここからじゃ。海を渡らなくちゃ会えっこない。夢で会えたのが嘘みたいに遠い距離。夢の中はすごく不思議で、私にだって役割があって、楽しいのにな。どうして、夢の延長に現実はないのかな。宇宙侍を見つけるって役割、私に誰も与えてくれない。宇宙侍に切られた人から溢れ出る宇宙にびっくりする役割も。色々な人から溢れ出るたくさんの宇宙の狭間で揺れ惑うって役割も。そして、最後に宇宙侍に切られちゃうって役割も。切られてもいいんだから、私は。それで副作用でどうにかなっても恨みっこしないんだから。どの役割も充実感があって、今、ここでお姉ちゃんとお話ししているのも楽しいけれどさ、でもね、しまいにはなんて話せばいいかわからなくなる時ってあるでしょ。姉妹には。疲れちゃって。でも夢の中は活動するのと同時に身を横たえて休んでいるようなものだから、自家発電っていうのかな、全然疲れないからさ。疲れ知らずで、どんどん役割がこなせるんだよ。そんなこと、目覚めた世界じゃ、ありえないのに。学生は学生以外何にもできない。妹は妹のまま。別に、お姉ちゃんが悪いわけじゃない。ただ、夢が楽しすぎるだけ。夢は現実より充実している。だから、楽しいのに。目覚めちゃう。目覚めることが死みたいだ。死は眠りじゃないよ。目覚めて学校で、失われるは牛が割れるとかいっちゃう。でも、誰もわかってはくれない。飼育係もしらん顔。もっと牛が身近な農業高奥へ進学すればよかった。私は馬鹿だったんだ。鹿って漢字全然鹿って感じしない。ひっくり返って死んでいるカメムシって感じがする。广ってひっくり返ってもがいている感じがするんだ。私はいつももがもがなんか言ってる。そんな誰もわかってくれないことばかり言いたくなっちゃうんだ。馬鹿の一つ覚えみたいに。そして誰もわかってくれないまま、放課後がやってきて、お姉ちゃんとおしゃべりしているわけだ。お姉ちゃんは実在する。せめてお姉ちゃんくらい存在しないとやってられない。せめて、の、せ、は甘えるにてる。せめて甘えたい。お姉ちゃんとおしゃべり楽しいんだけどな。お姉ちゃんはただ聞いているだけでいい。どうせ、それ以外にできないんだ。私は誰とも話が噛み合わないから、ただ聞いてくれる人さえいなくちゃダメなんだろう。たまにはうなずいてよ」
「うん」
「そうやって頷いていてほしいよ」
「うんうん」
「ありがとう」
「うん」
「もっと」
「うん、ってば」
「お姉ちゃんはお姉ちゃんで寂しいから私と一緒にいてくれるの?」
「そういうわけじゃないよ」
「他に居場所がないから私のポケットに入りたいの?」
「そういうわけじゃないよ」
「お姉ちゃんは実在しない?」
「そういうわけじゃないよ」
「全部独り言」
「そういうわけじゃないよ」
「どこへも行けない?」
「そういうわけじゃないよ」私は少しだけ、ふてくされて、おんなじ言葉をただ繰り返す。だって、私はこうしてここに実在するのに、春子がそんな変なことばかり言うからだ。私の実在を疑っているの?私だって、寂しいのに。春子は自分一人が寂しいみたいだ。私は春子じゃなきゃダメってわけじゃない。でも、春子の声をたくさん聞いていたい。だって、もう、この歳になるまで、聞き慣れ過ぎてしまっていて、忘れられないんだから。そばに歩いていてほしい、とは思う。きっと、春子もそのうち調子が良くなるよ、と思う。今はなぜか塞ぎ切っているだけで。雨が降っているだけ。
「失われるは牛人間。美しいは、少し惜しいよ、もう少しで羊人間になれるのにさ、横棒が一本余分なばっかりに。犬はもともと犬人間。あるいは、人に首輪と頭飾りをつけたのが犬。犬はもともと人。矢はほとんど当て付けみたいなものだけれど午人間。理由は牛人間と一緒。六はバラバラ殺人死体。全てを燃やしてしまいたいな。話がだいぶ変わっちゃうけれど、全てを燃やしてところどころを消し炭にしたいな。そして踏むの、くしゃくしゃくしゃって。この街の炭の街にしたい墨絵にしたい。それで私は真っ黒になりたい。それはまるで宇宙みたいな街。私は宇宙なんかより炎を吐き出したい。炎なら薬品さえ使えば簡単なんでしょ。やったら虫歯治るかな、それとも歯がこれでもかって生えてくるかな鰐みたいに。これから夜になって薄暗くなるんだしさ。ぱあと明るくしたい」
「明るくしたいなら、懐中電灯買ってこようか。まだ、ホームセンター開いているかも」
「そうじゃないってば。燃やしたいんだ」
「じゃあマッチか」
「買わないで。買っちゃダメ」
「どうして」
「歯止めが効かなくなっちゃう。本当に燃やしちゃう。本当に、燃やしたくなる。燃やしてしまいたくなる。リアルにしないで」
「本当に燃やしても人が死ぬとは限らないよ」
「でも、悪いことは悪いことだから」
「捕まらない範囲で燃やせばいいのに。手のひらの上のマッチ箱の家とか」
「熱いよそんなの」
「犬小屋燃やそう」
「それもだめ。きっとみんなが見つけるから。見つかったら、宇宙侍に切りつけられるのと比べ物にならないくらい攻撃されるから。みんなになぶりものにされて殺されるんだ。攻撃されると、私たちは、私も、お姉ちゃんも、傷ついて、しまう」
「じゃあ、包帯も一緒に買おうよ。傷ついてもいいように」
「お姉ちゃんはいつもそうやって、私を傷つけたがる」
「どうせ最後には傷ついちゃうんだからさ。家出したって、最後には傷ついちゃうんだ。嫌な目に、遭うんだ。なら、早く嫌な目に遭っちゃった方が、私は、安心できるよ。どうせ最後には力尽きて終わっちゃうんだ」春子は、しばらく黙り込んで、ただ一定のリズムで歩くだけ。私も、そろそろ空腹を感じてしまう。だから、無意味に言葉を吐き出せない。吐き出した分だけ胃がしぼんでしまう気がする。
「もう夕暮れ。影が足音を立てる時間。そんな時刻だよ、お姉ちゃん。時刻が地獄に変わっちゃう。家出って感じだね。もう、通り過ぎる人々がほとんどいないね。自転車のライトが明るいね。明るいくせに冷たいね。高校の友達は今頃宿題やっているのかな。私は、今頃何をしているのかな。お父さんとお母さんは」
「お父さんとお母さんは」
「今頃ろくろっ首になっていると思うよ。うにょうにょ、にょろにょろと首を長く伸ばして、私たちの帰りを待っているの。だって、もうお父さんの退社時間過ぎているもの。きっと、とっくの昔に帰宅したお父さんとお母さんが話し合っている。彼女たちが遅いね。本当に遅いね。彼女たちって私とお姉ちゃん。そして、父と母は顔を見合わせて相談を始めるの。彼女たちは本当に存在しているのかなって。だって、こんなに待っても家に帰ってこないんだから。もしかしたら、初めからどこにもいなかったんじゃないのかなって。存在しない二人の娘に、とてもたくさんのお金やら時間使っちゃったねって。子供に自殺されるより酷い話だ。そもそも存在しなかっただなんて。でも、ありえるね。この頃あいつら何話しかけてもほとんど反応しないんだ。何が楽しくて何が苦しいのかも自ら言葉にできない体たらくなんだ。だから、いくら待ったって無意味。あいつらのことは忘れよう。だから、私たちも父母のことをただ忘れるの。ひとりぼっちになれたら救われるんだ。だから、森へ行こうよ、お姉ちゃん。ライオンにライドオンするんだ。そして縞馬の縞の中に潜り込むんだ。縞馬の縞は実は鉄格子になっているんだ。だから、黒と白なんだよ。どう言うことかって言うと、監獄馬、森の看守に捕まると、縞馬の縞の中に私たちは放り込まれてしまうの。縞馬は白と黒でできた檻なの。鳥かごに翼の生えた鳥のように、檻に足と頭の生えた馬なの。出ようとしても、縞馬の縞々が邪魔をするんだ。鋼鉄より硬いの。私たちは気がついたら、二次元のアニメ絵になっていて、縞馬の肉体にその白い部分に入れ墨として彫りこまれたようになっているの。それが森の囚人の姿。縞馬もいい迷惑だね。こんな日本の片田舎に縞馬なんているのかな?本当は知っているけど私は知らない。ほら、私たち黒と白。着ている服が白と黒。コントラスト。だから、縞馬がよく似合う。切り刻んで混ぜ合わせることができたなら、縞縞の人間になれるよ。少しはマシになれるよ。真面目に考えなくちゃ。少しでもマシになる方法」
「ねえ」
「なに」
「お酒でも飲む」って私は目の前のコンビニを指差す。何もかも破壊するって、自分の内面から壊すことくらいしかできない気がしたから。私はダメダメなことに春子のような想像力はないんだ。だから、アルコールの力で溶けてしまうことでしか楽なれない気がしたんだ。身持ちを崩して全てを終わりにしてやるんだ。
「いや、ダメだよ。そもそもどうやって買うの。私たち未成年なのに」
「なんとかなるかもしれないじゃん」
「なんともならなかったら」
「お説教されて強制帰宅。それもそれで、これまでよりましじゃない。何かが壊れてくれるかもしれないんだから。それで、私たちの生きているってことが終わってくれるかもしれない。そんなわけないか。そんなわけなくっても、終わりにしたい。どうせ、私は空っぽで、何にもないんだから」
「知らない」
「知らないの」
「お姉ちゃんのことなんか知らない」
「春子は春子なだけ」
「私は、家へ帰るのは嫌」
「じゃあ」
「ぐびぐびぐびぐびぐび、ぷはあ」
「何してるの」
「だから、見えないお酒で酔っ払うの。そして何もかもダメにするの」
「酔っ払えないよ」
「私の唾液がお姉ちゃんのお酒」
「気持ち悪いよ。そもそも酔っ払ったことないからよくわからないし」
「いつもの私たちみたいな感じでいいんだよ」
「中身のない人間になればいいってことなの。でも、それで何が救われるの」
「救うとか救われるとかどうだっていいじゃん」
「ただやり過ごすだけ?」
「どうせ、どうあがいても救われっこないよ」
「駄目じゃない」
「ただ家出をしているだけの私たち」
「それだけのことなの」
「それだけのことでいいじゃない」
「そっか」
「もともと私には、そういう才能、あるのだから」
「あるのだから」
「あるのだから。私は、本当はすごく馬鹿なんだ。馬鹿だから、誰とも友達になれないんだ。だから、こうしてお姉ちゃん引き連れて、夜逃げするんだ。逃げている間は頭がシャッキリするんだ。少し気分がまともになるんだ。架空のお酒に酔っ払って死ぬんだ。死なない。死ねるよ。死なないけれど」
「死んだつもりになって遊ぼ」
「幽霊ってこと」
「悪霊にはなれないよ」
「うん、私は今、お姉ちゃんの言葉によって死んだ。死ぬと、生きなくてもいいんだね。そうだ、呼吸を止めてみるよ」生きていない春子は無限の時間呼吸を止めてしゃべることができるんだ。
「私は、もう、春子以外とお話しできないよ。だって、前提が崩れてしまったもの。春子相手には何を話してもいい。でも、春子以外の人には、話しちゃいけないことがたくさんある。うっかり話せば、脅迫になったり、いじめになったり、相手が勝手に傷つき出す。オルゴールを回したみたいに、相手が回り出す。だから、私はどこにもいけなくなったんだ。宇宙侍になっちゃったから。でも、春子は、学校に行けてるじゃん」
「私はただ、変なだけ」
「大丈夫だよ」
「あ、花火だ」
「夏らしいね。誰かが後片付けもしなかったんだ」そこは河川敷で、もう、辺りは真っ暗。いつの間にかこんなところまでフラフラとたどり着いてしまっていた私たち二人。なんでこんな場所まで来たんだろう。寂しい場所を探していたら。唯一の明かりは、自転車を漕いでいる間光るライト。よく見つけたなってくらい地味な、誰かの花火を楽しんだ痕跡。ただ捨てられている燃えかす。ただの棒の燃えかす。蛇か何かの死体に見える。こんな地味な光景を指差して、喜べる春子は、やっぱりちょっと私とズレているんだろう。春子はじっと誰かたちが楽しんだ跡を見つめてる。
「これは未来の私たちだ」と春子は言う。
「え、なに」
「未来の私たちが、ここで遊んでいたの」
「その残り滓ってこと?」
「未来の私たちがこの辺に逃げているから、捕まえないと」
「うん」
「未来の私たち、と呼びかけたら向こうからドタドタと大して成長もしていない二人の娘が現れた。私たちだ。でも、まあ、それでどうなるって話でもない」夜が更けていく。徹夜をした次の日はよく眠れる。
「でも、四人いれば少しは寒さを感じなくて済むね」
「私たちが何百人もいればいいのに」
「気持ちが楽になるだろうに」
「私たちが何百人もいれば、そのうち何人かを燃やしてしまいたい」
「よく燃えるのは私たちのうちの誰」
「わからないよ、やってみない限りは。でも、枯葉でできている私たちが一番よく燃えると思う。私の中の枯葉な部分がきっとあると思う。カサカサって擦り合う乾いている」私は思わず春子の体をペタペタと触った。どこも枯葉じゃなかったけれど、人間にしては随分とひんやりと冷たかった。河川敷の橋のたもとで、夜更けにこんなところにいたら危ないと思うのだけれども、野生の動物とかも出てくるだろうし、もし人間に出くわしたらそれなりの覚悟がいるかもしれないし、でも、歩き疲れたしそもそもお金もほとんどまったくないし目的地もないし、家に帰るつもりはないから、せめてこれ以上疲れたくないから、私たち二人は立ち止まった。一人じゃないから安心。でも、本当は一人かもしれない。もしかしたら、私など端から存在しないのかもしれない。ただ、春子がいるだけで。
「私は宇宙侍になりたい。今からでも遅くないと思うから。みんなを手当たり次第に切って回りたい。そして、宇宙が至る所から噴き上がるの。それは光景じゃない。目には見えない。肌で感じるしかない。微動だにしなかった人々でさえ動き出す。でも、私には肝心の刃物がない。宇宙侍は特別だから、切れそうなものなら本当はなんでもいいんだ。道具を選ばないんだ。枝切れでもいいんだ。私が大きかったら、あの鉄塔を掴んで引っこ抜いて、やたらめったらに振り回して、いたるところを宇宙にしてしまうのに。お姉ちゃんの体から宇宙がどんどんはみ出してきて、その宇宙の中でお姉ちゃんは浮かび上がるんだ。吐き出された宇宙が街を蔽い包む。宇宙侍の存在を信じない人たちには、世界がただ終わっていくように思われるだろう。でも、お姉ちゃんは違う。わかる。わかるから、人々が混乱して騒ぐ様が全て自分から吹き出た宇宙だって知っているから。そしたら今度はお姉ちゃんが代わりに私を切り裂くの。私だって切り裂かれたいのだから。宇宙侍に切り裂かれて、身体中から、私の中身を漆黒色でほとばしらせたいの。きっと、気持ちがいいの。気持ちがいいことをしたいの」
「春子のしたいようにできたらいいね」私はお姉さんだから、春子をいつまでだって見守っていたい。
「目をこらすと、闇夜から、一つの隕石が尾を引いて接近してきた。その隕石には漆黒のゴキブリの翼が何千何万と張り付いて生きているかのように羽ばたいていて、自由自在に闇夜を貫いた。私めがけて突進してくるの。私はそれを避けることはしない。なぜならばその隕石は宇宙侍から私宛のメッセージだから。私は知っているから。その隕石に押しつぶされることで私は、私の体内に宿っている宇宙侍が目覚めるから。これは失敗作だ。私たちは失敗作だ。どこへも行けない。お姉ちゃん慰めてよ」
「でも、どこにも行けないでここにいることも楽しいじゃない。失敗して暗闇の中」
「どうしようもない、初めからいくらやり直してもおんなじこと。太陽が明るく輝いても同じこと。誰も私たちのこと探していない。トゲトゲが生えてサボテンになってしまう。もう、終らなくちゃ。終わってしまえば気が楽になる。続きようのないんだ、こんな河川敷まで夜更けで騒いで、誰かが私たちのこと見つけてくれたとしてもそれは救いにはならない。救ってくれない赤の他人はおんなじ日々を過ごしている機械に過ぎない。歩かなくちゃ、でももう歩きたくない。お腹も減った。たらふくご飯を食べて気持ちをごまかして、気持ちをごまかして、先へ進めると信じて、でも、こうしてお姉ちゃんと話しているのは楽しい。すごく、気分がましになる。ずっと我慢していたんだ。寂しいから記憶の中で昔に戻ることだけが本望で、どうせ人生はいつか終わるのに、どうしてお姉ちゃんは私の話を、そこそこまでしか聞いてくれないのだろう。冒険へ出かけたいのに。お話の中で生きていたいのに。社会の外側なんてあるわけがない。やがて訪れる宇宙侍が私たちを切り裂いて、それで物語を終わらせてくれるはず。もう、終わりにしよう。どう考えたって、これは物語になっていない。物語を続けちゃいけない。これでも知恵を絞ったし、歩き続けたし、遠くへ行きたいと思ったけれど、もう、私たちは会話だけじゃ、保たない。どうして友達になってくれないのだろう。面白かった日々を繋げてくれないのだろう。どうしようもない。誰かのうんこだ。こんなもの。閉ざしてしまおう。初めから始めたい」
私たちの目の前に羆が一頭現れた。その羆は両手に日本刀を構えていた。その羆こそ、春子が待ち望んでいた宇宙侍の正体だった。やってきてくれたんだ。羆は吠えるでもなく静かに一刀のもと私と春子を切り裂いてくれた。私と春子を切り裂いたんだじゃない。私と春子の狭間を切り裂いてくれたんだ。私と春子は癒着していたんだ。二つで一つになっていた。だからそれを切り裂いてくれた。私たちは二つに分かれた。私と春子の間に漆黒の宇宙が血の代わりに溢れ出してくれた。宇宙がつながりを失った私たちの間に分け入って、全てを消してくれる。半永久的に膨張する宇宙のように、私と春子が別々の方向へ漂流してしまう。何にも残らないで終わってくれる。私は宇宙侍に感謝したくなる。全てを壊してくれてありがとう、と言いたくなる。もっと壊して欲しい、と思う。私を消して欲しい、とも思う。けれど、そこまで都合よく彼は動いてくれなかった。何にもない空の下で、彼はただ春子を切り刻み続けるだけだった。血は一滴もこぼれなかった。けれど、春子はもう、言葉を発することさえできない状態に、というより、バラバラになってしまった。一万匹のゴキブリだった。一人で桜の花びらになっていた。宇宙侍は春子に対してなんの恨みもないだろうに、ただただ刀を振り上げては振り下ろすのだった。樵かよ。日本刀じゃなくて斧を持てよ。でも、何度もなんども細切れにするんだ。春子の体からは宇宙の代わりにゴキブリがこれでもかと溢れ出した。飛翔した。春子の肉片を一匹一匹のゴキブリが少しずつ抱え上げては、飛び立ったのだ。どこへ行くの。春子に尋ねたかった。返事はなかった。だってもう春子は宇宙になってしまったのだ。私は一人だ。羆は私の影の中で冬眠を始めた。私は、家へ帰らなくちゃ、などと思ったり、もうこのまま、ここで私も冬眠しようかな、と思ったりした。何もかも、もう続きが見えないくらい終わってしまったんだ。終わりの中で目を覚ますことはもうないんだ。ダメなんだ。私はなぜか誰にも切ってもらえなかったんだ。両手を振り上げて、わめき散らしたくなった。手足をばたつかせて、取っ手を握りたくなった。排出したかった。私が吐き出されてもぬけの殻になったトイレこそ私だと思いたかった。私がいなくなった教室や私がいなくなった家こそ私だった。私を失った人たちこそ私だった。春子は、闇夜に紛れて、私は河川敷に座り込んで、誰かに暴力を振るわれることが怖くって、でも、もう後戻りはできなくって。気がつくと私は石になっていて時代が過ぎる。
朝になるのが怖かったけれど、朝になってしまった。夕暮れになれば、また春子に出会って一緒に歩いて一緒にこんな誰もいない場所へ迷い込んで、ただそれだけの時間を過ごせるだろうか、そのためにはもう一度昼日中をやり過ごさないといけない。腹が減って仕方のない私は仕方がないから、父母のいる家まで戻ることにした。早くしないと学校に遅れてしまう。
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