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 振られたのか。冗談だって、思われたのか。彼女の、ちゆりさんの曖昧な回答にモヤモヤとしながら俺は帰宅した。


「……ただいま」


 自己認識を得る程度の覇気皆無の挨拶を済ませるとにゃ、と短く返答が来る。


 一軒家の二階建て。

 両親と兄、雄猫のにゃこ吉、そして俺の四人と一匹暮らしの何処にでもある一般家庭。


 人間様による出迎えはないが、うちのアイドルである猫様は違う。


「ただいま、にゃこ吉。今日もいい子にしてたかー?」

「にゃん!」


 まるで肯定と言わんばかりに元気な返答だが、にゃこ吉の後ろ足から伸びているトイレットペーパーが厄介な惨事を物語っていた。


「あーあ。またトイレでくるくるやっただろ。あれ、片付けるの面倒なのに」

「にゃーん……?」


 ふっ、しらばっくれてやがる。

 トイレットペーパ―の悪戯、とでも称すべきか。にゃこ吉はトイレのドアが開いていると勝手に侵入しては、くるくるとペーパーを回転させて嵐を招く。要は母さんに見つかったらヤバイ案件だ。


 犯人を速やかに確保し、リビングへと連行する。にゃんにゃんと騒ぎ立てるがおやつを見せびらかすと静止と同時に、可愛らしい撫で声を上げた。


「はいはい、やるから。俺が掃除終わるまで動かないで、いい子で待ってろよ」

「にゃーん」


 はーい、とでも言ってるのだろうか。舌を上手く使い、カリカリを美味しそうに舐める。まったく、本当に調子のいい奴だな。


 ……まあ、可愛いけど。



「さて、と。ちゃっちゃっとやりますか」


 練習着は半袖だが、癖で腕捲りの仕草をやってしまい羞恥心に一瞬だけ溺れるが誰もいないことに終始ホッとした。


 トイレは案の定、悲惨な状態とドアが開きっぱなしであったが慣れというものは怖いもので片付けは難なく終了する。


「よし、終わり。そうだ、ついでににゃこ吉のトイレも」


 にゃこ吉の世話をして約二年。

 今ではすっかり当たり前となった係、というか日常。ヒロ兄が大学やらちゆりさんと付き合うようになって、寂しさを少しでも紛らわすための相棒。あの頃はまだ小学生で、我儘を言って父さんや母さんを困らせたっけ。



「……ヒロ兄は大丈夫、なんだろうか」


 時刻は土曜日の午後五時過ぎ。

 両親は朝から一緒に出掛けては夕飯も済ますと言っていた。だから不在。

 ヒロ兄はわからないけど、恐らく大学からも帰ってきてる、はず。


「いや、待てよ? にゃこ吉がトイレに侵入出来たのもヒロ兄がドアを閉め忘れたからっていうオチだろう。……つまり、いる。絶対に」

「にゃっ!」


 どうせ正犯はにゃこ吉。

 そして無自覚な加害者がヒロ兄だと思う。大体、この件が起きる理由ってヒロ兄が原因なことが多々あるからな。完璧超人な兄にも、ちゃんと弱点があるということだ。


「文句、言ってやろう」


 繰り返されるの、面倒だし。

 ……別に振った側の人物がどんな心境とか、全然興味ないし。


「にゃー?」


 頭をぶんぶんと横に振ると、にゃこ吉が不思議そうに顔を覗かせる。


「何でもない。行くよ、にゃこ吉。ヒロ兄の部屋に」

「にゃー!」


 にゃこ吉を抱っこし、子供部屋のある二階へと進む。

 ……って、にゃこ吉、何だか重くなったような。と、そんなことを考えている間に部屋の前へと到着した。


 コンコンコン、とドアをノック。ところが。


「……返事、ないな」

「にゃー」


 さらにノック。

 しかし、やはりない。


「やっぱりない。寝てる、のかな。けど確か、今日は夜勤バイトがあるって言ってた気が」

「にゃーにゃー」


 そっとしておきたいけど、数時間後なはずだし夕飯食べるなら今だけだ。……調子悪そうならともかく、遅刻や欠員を出すの嫌だよね。


「仕方ない。これも人助けだと思って、起こそうか」

「にゃっ」


 決意を固め、いざノックと入室宣言をしてドアを回す。

 にゃこ吉が証人になってくれてるし、勝手ではない。ヒトでもないけれど。


「ヒロ兄、のんびりしてたらバイト遅れちゃうよー……って、泣いてる?」


 本日二回目の状況。

 涙が伝う、その先はなんとなく湿っているように見える枕があった。


 黒くて短い髪。外出先はコンタクト、家出は眼鏡の似合う青年。兄弟の俺からしても贔屓目なしに格好いい。そんな彼が緋色の瞳を閉じては眼鏡を掛けたまま寝息を立てていた。


 ……やはり、ちゆりさんのこと。


「にゃーん」

「っ、わかってるよ。ちゃんと起こすってば」


 にゃこ吉に急かすように促され、今度は身体ごと揺らしてみる。


「起きて、ヒロ兄。バイト、バイト本当に遅れちゃうってー」

「にゃん、にゃにゃー」


 ヒロ兄の眠りはかなり深い。一度、床についてしまうと簡単には起きない程度には。


 本人曰く、途中で覚めることもないらしく仮眠と題して昼寝をして気付いたら翌日になっていたなんてザラという。おかげで今までの彼女とは、悪気なくデートをすっぽかして別れたというのも多く経験してるだとか。


「ちゆりさんは、怒っているところとか、全然想像付かないな」


 無縁、と言うべきか。声を荒げる姿もイメージ出来ない。



「……愛が重い」


 ふと、先程の言葉が浮かぶ。


 ヒロ兄がちゆりさんを振った最大の理由。あんなに仲がよかったはずの関係を引き裂いた謎に。


 ……気になってる。矛盾もいいところだな。


「うーん」


 ベッドから小さな呻き声がする。もちろん、その低い声音の主はヒロ兄。お、これはもう一息。


 俺とにゃこ吉、一人と一匹は総出で寝坊助の兄に軽い発破を掛けた。

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