二 越前屋の娘

 卯月(四月)中旬。風もなく穏やかな日和だった。

「ごめんくださいまし。呉服問屋越後屋の手代の幸吉こうきちでございます。

 呉服の見本を持ってまいりました。皆さんでご覧くださいまし」

 呉服屋越前屋の店先の土間に、大きな風呂敷包みを背負った上背のある童顔の男が現われていつものように挨拶した。役者と見まがう面持ちのこの男は幸吉といい、日本橋界隈では『いい男』で知られ、越前屋でも評判だ。


「幸吉さん、店先では何ですから座敷に上がってください」 

 越前屋の主幸三郎こうざぶろうは幸吉を店の土間伝いに左手奥へ案内して店の座敷に上げた。

「おおいっ。奈美なみさんっ。芙美ふみさんっ。越後屋さんがお見えですよ。

 二人で反物と呉服を見てくださいっ」

 幸三郎は女房の奈美と娘の芙美を座敷に呼んだ。

 その間に、幸吉は風呂敷包みを解いて反物と呉服を畳に並べた。夏物の反物とそれらを仕立てた見本の呉服だ。


 女房の奈美と娘の芙美が座敷に現われた。奈美は幸吉への挨拶もそこそこに、

「いつも、御苦労様です。皆様、お元気ですか。

 隣町に住んでいながら、ちっとも顔を出さずに、あいすみませんねえ。

 こうやって反物と呉服を持ってきてもらうばっかりで・・・。

 ああら、綺麗ねえ・・・」

 浅葱色の反物と、それを仕立てた単衣の小袖を見つめて何やら考えている。


「幸吉さん。いつも御苦労様です。反物や呉服を汚すといけないから、後で茶菓をお持ちしますね」

 娘の芙美は、正座している幸吉の前に正座して深々と御辞儀した。

「いえいえ、お気づかいなく、お嬢さまも、反物と呉服をご覧くださいまし。

 なにせ、売れ筋は女物が多ござんす。男衆にはとんと見当がつかないと・・・」

 幸吉がそこまで話すと女房の奈美が幸吉の言葉を遮った。

「男には、女の好みはわかりませんよ。

 なのに、男が商いの采配を握ってるんだから、ねえ・・・」

 奈美は亭主の越前屋幸三郎の前で、娘の芙美と幸吉に目配せして同意を求めた。二人は奈美に愛想笑いした。幸吉が売れ筋を言おうものなら、奈美が必ず別の事を言うのが常だ。娘の芙美も幸吉も、亭主の幸三郎も、その事をよく心得ていて、奈美の好きなようにさせている。


 女房の奈美と娘の芙美が一通り反物と呉服を見終えた。

 越前屋幸三郎は、

「幸吉さん。福右衛門ふくえもんさんは、何が売れ筋になるとおっしゃっておいでですか」

 と訊いた。越後屋の主は福右衛門という。

紺絣こんがすりと・・・」

 幸吉は幸三郎にそう言った。


「何を言ってるんですか。そんな野暮ったい野良着、売れるわけありませんよ。ふんっ」

 奈美は絣の反物と仕上げた絣の呉服を畳に放り投げ、その場を立った。


 越前屋幸三郎の女房の奈美は、呉服問屋山科屋清兵衛せいべえの腹違いの妹である。奈美の態度に、呉服問屋越後屋を呉服問屋山科屋の商売敵とする腹の内が見え隠れしている。そのため、越前屋の皆が呉服問屋越後屋へ行くことはなく、越後屋の手代の幸吉が商談に越前屋を訪れるだけである。皆が手代の幸吉は呉服問屋越後屋の奉公人だと思っており、呉服問屋越後屋の倅の幸吉が手代として商い修業している事などと知る者はいなかった。


「主の福右衛門は、今年の夏は暑くなるだろうと見ております」

 幸吉は越前屋幸三郎と娘の芙美にそう言った。

「なるほど・・・」

 幸三郎は、確かにこの冬は寒さが厳しかったと思った。先人が言うように、冬の寒さが厳しければ、その分、夏が暑くなると言う事か・・・。

「さてさて、それでは、越後屋さんお勧めの絣と、あとはここにしたためた二十点ほどをお願いいたしますよ」

 越前屋幸三郎は、注文を書き付けた証文を幸吉に渡した。

「いつも、ありがとうございます。今月中にお納めいたします」

 幸吉は幸三郎に御辞儀して注文の証文を巾着袋に入れた。

「よろしくお願いいたします」

 幸三郎は幸吉に返礼した。



 一通り商談が終った。

「ささ、芙美さん。幸吉さんに茶菓を出しておくれ」

 幸三郎は芙美に笑顔を向けた。

「はあい。幸吉さん。大切な品物をお片付けくださいな。茶菓をお持ちしますね」

「はい。わかりました」

 芙美がその場を立って台所へ向った。


 幸吉は笑顔で反物を捲いて呉服をたたみ始めた。

「気立ての良い娘さんですね。話していると気持ちがおちついて和みます。

 人を思いやる心をお持ちです・・・」

 幸吉は手を動かしながら、幸三郎にそう言った。

「お誉めいただき、ありがとうございます」

「ああっ、偉そうな事を言ってすみません。私としたことが・・・」

 幸吉は慌てて反物と呉服を風呂敷に包み、背中に背負えるよう風呂敷包みの真ん中を真田紐で括った。

「とんでもございません。お誉めいただき、ありがとうございます」

 幸三郎は娘を誉められて悪い気はしなかった。


「あら、楽しそうに、何をお話しでした」

 芙美が茶菓を持って戻ってきた。

 幸吉の前に茶菓を置く芙美に、幸三郎は言った。

「お前の事を話していたのだよ。

 幸吉さんはお前を、気立ての良い娘で話していると気持ちがおちつく、と誉めておいでだよ」

「まあ・・・。でも、うれしいわ」

 芙美は幸吉を見て頬を赤らめた。芙美にそう言われて幸吉も顔を赤くした。

「お茶をどうぞ・・・」

「はい。いただきます・・・」

 幸吉は茶碗を手に取った。


 芙美の面立ちは人並みだ。取り立てて美形ではない。だが、人を思いやる芙美の優しい心根に、幸吉は並々ならぬものを感じている。

『芙美さんが御店の女将になれば、客は芙美さんの人を思いやる優しい心根を感じ、何度も御店を訪れて芙美さんと話し、呉服を買ってゆくだろう。そして、日に日に御店を訪れる客が増えるだろう・・・』

 幸吉はそう思いながら、正座している芙美の顔を見て微笑んだ。

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