第5話 奇兵隊

 清水寺の戦いが終結し、和解を果たした平間重助、山村、島の3人は、疲労困憊しながらも団結の意志を持って立ち上がっていた。


 その時、赤禰武人が静かに彼らのもとに近づいた。彼の表情には、新たな決意と希望が宿っていた。


「平間重助、山村、島。君たち、奇兵隊に加わらないか?」赤禰武人の声が静かに響き渡る。


 3人は驚きと興味を隠せない表情を交わす。赤禰武人の誘いは意外であり、しかし同時に新たな可能性を秘めているようにも感じられた。


「奇兵隊か……。その誘い、真剣に検討させてもらうよ」平間重助が重々しく答える。


 山村と島もまた、興味深い表情を浮かべながら、赤禰武人の言葉を受け止める。


 彼らの未来はまだ決まっていない。しかし、赤禰武人の誘いは、彼らの新たな旅路の始まりを意味しているかもしれない。


 奇兵隊などの諸隊は文久3年(1863年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊で、これら諸隊の編制や訓練には、高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。


 同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が奇兵隊第2代総督を継ぎ、第3代総督は赤禰武人、その軍監は山縣狂介が務めた。同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。


 翌元治元年(1864年)、新選組に捕らえられ拷問されていた古高俊太郎を救済するため池田屋に集まっていた各地の志士たちが当の新撰組・会津藩・桑名藩によって突如襲撃された池田屋事件により、長州藩では吉田稔麿・杉山松助ら11名が犠牲となったため、長州藩では卒兵上京してでも朝廷の誤解を解くべきという来島又兵衛らの勢力を抑えられなくなった。来島又兵衛・久坂義助(久坂玄瑞)らが率いる先方隊約1000名が世子毛利定広率いる本隊約2000名の大阪上陸を押し留めて藩主父子の雪冤(せつえん)を嘆願しに行った結果、会津藩・桑名藩の軍勢に対しては優勢であったものの、援軍として加わった薩摩藩により形勢を逆転され、来島又兵衛は被弾で戦死、久坂義助(久坂玄瑞)・寺島忠三郎は嘆願を果たせず鷹司家邸内で自裁、長州勢は総崩れとなって退却し、大阪湾・瀬戸内海経由で帰藩した。この禁門の変により、長州藩は禁裏を侵したとして「朝敵」とされた。幕府は「朝敵」とした長州藩を更に征伐するため、第一次長州征伐を宣言する。


 長州藩は、3家老自裁により第一次長州征伐の戦禍を未然に防いだものの、椋梨藤太・乃美織江などの俗論派政権が長州正義派の志士たちを粛正し始めたため、それを聞きつけた高杉晋作が亡命中であったにも拘わらず帰藩し、諸隊に決起を求め、功山寺挙兵を決行し、絵堂の会戦等で高杉ら正義派が勝利して俗論派を一掃し、長州藩の主導権を握った。


 これらの結果、長州藩の方針は破約攘夷・倒幕に定まる(破約攘夷は、異勅だった1858年の不平等条約を完全撤廃した1911年に完全成就し、倒幕は、1867年の大政奉還から1869年の戊辰戦争終了にかけて完全成就する)。


 

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