第9話 純潔の半分
「ペリエ君、最近術の効果が下がっている気がするけど、どうしたんだい?」
ある日のこと、依頼されて制作した呪符を常連客に渡すと、怪訝そうな顔でそう言われた。
いささか不満そうな常連客に、ペリエはいかにも疲れたように口元に手を当てて答える。
「申し訳ありません。このところ疲れが溜まっていまして、その影響かと……」
わざと歯切れ悪くしているペリエの言葉に、常連客は腕を組んでため息をつく。
「たしかに、君は評判がよくて予約も取りにくい呪術師だ。それだけ仕事が入っていれば疲れもするだろうね。
少し休みを取って、気分転換でもしたらどうかな。
それで、疲れが取れたらまた連絡しておくれ。その時に次の仕事を依頼するから」
「はい。お気遣いありがとうございます」
ペリエが深々と頭を下げると、常連客は軽く挨拶をして帰って行った。これで今日の分の仕事は終わりだ。
家の鍵を閉めて、ペリエは仕事用のローブを脱ぎハンガーに掛ける。それから、ローブとさほど変わらないゆったりとした部屋着に着替え、マスクも布でできた柔らかいものに変えた。
居間に行き、インスタントコーヒーを淹れてようやく一息つく。
「……あー……やべぇな……」
コーヒーをひとくち飲んでぼそりとつぶやく。その口調は、普段他の人といるときのような柔らかいものではなく、なにも取り繕っていない少々粗野なものだ。
とりあえず、今日の仕事の収支と内容をノートにつけていく。その時に過去の記録を見返すと、先ほどの常連客のように術の効果が下がっていることを指摘されたという記述がいくつかある。
以前はどんなに疲れていたとしても、術の効果が下がったなどという指摘は受けたことがなかった。だから、はじめその指摘を受けたとき、どういうことだかわからなかった。
けれども、何度か指摘されていろいろと考えを巡らせているうちに、心当たりを見つけた。
その心当たりを確認しようと、スマートフォンに手を伸ばしてメッセージアプリを開く。チャット画面にはドラコとやりとりをした写真やメッセージが残っている。
他の誰にも邪魔されない、ふたりだけの会話の記録。それを見ていると胸が心地よくざわめくのを感じた。
チャット画面をスクロールさせていくと、数日前の部分にドラコが焼きたてのハンバーグを写して送ってきた写真がある。以前ドラコが体調を崩したときに食べたいと言っていた、あの小ぶりなハンバーグだ。
それを見てペリエの頭に、ドラコからこのハンバーグを食べさせてもらったときのことがよみがえる。
あのとき、ドラコはなんの他意もなく、お箸がなくてどうしようと言った自分に配慮してくれたのだと思う。
けれども、ドラコがその手で食べさせてくれたことと、ペリエが口をつけたあとのお箸をドラコが使っていたこと思い出すと顔と耳が熱くなる。
「あんなことされたら意識しちゃうじゃん……童貞なめんなよ」
そう、これが最近術の効果が下がっていることの心当たりだ。
きっとドラコに恋をしたんだと、ペリエは思う。
呪術師が恋をするということは、たとえ性交渉を伴っていなくても、純潔を半分失ってしまうことになる。誰かひとりの人間に心を奪われて、その人の心を欲することで、恋を知らず、ただ神様のみにすべてを委ねることができていた頃のような純潔が損なわれるのだ。
呪術師の仕事自体は、恋をしようが完全に純潔を失おうが続けることはできる。ただ、純潔を失うほどに神様から遠ざかり、呪術や儀式の効果が下がるだけなのだ。
伴侶を見つけて子供どころか孫までいる呪術師も存在する。それは元々強力な術力を持っていたか、術力が低くてもきめ細やかな仕事ができるかのどちらかのケースだ。そのどちらかになれるのだろうかと、ペリエはすこしだけ不安になる。
仕事のノートも途中にしたまま、スマートフォンでSNSを見る。タイムラインを遡っていくと、楽しそうなドラコの投稿が目に入る。載せられている写真のうち何枚かは、かわいいケーキと一緒にペリエとドラコの手を写したものだ。
マニキュアを爪に塗っていて女性的だと言われるペリエの手に比べても、ドラコの手は小さくて華奢だ。ホムンクルスを作る作業のためか、爪を短く切りそろえているドラコの手は、どんな花よりも清らかに見えた。
写真に写ったドラコの手をじっと見つめて、ペリエはうっとりとする。
この小さくてきれいな手に触れたら、どれだけしあわせだろう。このきれいな手の持ち主は、どんな目の色なのだろう。手を取り合って、お互いの瞳を見つめ合えたら……
そんなことを考えながら、ペリエはドラコの頭を撫でたときの感触を思い出す。柔らかくてさらさらとした髪。いままで特に意識はしていなかったけれども、大人しく頭を撫でられているということは、きっとドラコは気を許してくれているのだろうとペリエは思う。
でも、気を許しているだけで、ペリエと恋人になろうとは思っていないだろう。ドラコの意識の分身であるゼロが、ドラコはまだ恋を知らないというのだから、ドラコはまだ誰にも恋をしていないのだ。
それならそれで、チャンスなのかもしれない。今のうちに気持ちを打ち明ければ手を取ってくれるかもしれない。
そんな期待とは裏腹に、同時にこうも思う。ドラコはこれから先、ずっと恋を知ることが無いのではないかと。
これにはなんの根拠もない。けれどもなんとなくそういう予感がするのだ。
ドラコに気持ちを伝えたら、今の関係が壊れるだろう。それがペリエにはこわい。だから、ドラコはこれから先も恋を知ることがないと思いこみたいのだろう。そう、このままの関係と続けてさえいれば、恋を知ることのないドラコは、他の誰のものにもならないのだと思いたいのだ。
「恋人になるなんて、無理だよな」
なにともなしにそうつぶやくと、ペリエの視界が揺れた。
恋人になれなくてもずっと一緒にいたい。
そのためには、この気持ちを隠し通さなければならない。いや、この気持ちを知られるのがこわい。ペリエがドラコに恋していることを知られたら、ドラコは離れていってしまうかもしれないから。
マスクが湿って冷えていくのを感じながら、ペリエはドラコの写真を見つめる。
「それでも好きだよ」
そのつぶやきを、窓辺に置いたサンゴの木だけが聞いていた。
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