My dear Alchemist
藤和
第1話 一日のはじまり
顔の上半分を覆う白いマスクを着けた彼女が起き上がる。今日もいつもどおりの朝が来ていた。
「おはようドラコ。昨夜夜更かししてたわりには早く起きたね」
起きた彼女、ドラコにそう声を掛けるのは、中空に浮いている、ペストマスクを被ったフェルト製の人形だ。自分の助手でもあるそのフェルト人形に、ドラコは欠伸をして返す。
「おはようゼロちゃん。今日は作業の大詰めだからね。
なんとか納品分のホムンクルスを仕上げないと」
ベッドの上で伸びをして、ドラコが洗面所に向かう。洗面所には、フェルト製のホムンクルスであるゼロは入ってはいけないということになっている。万が一濡れてしまうと乾かすのが大変だからだ。
ドラコとしては、それ以外にもゼロを洗面所に入れない理由がある。自分の顔を見られたくないのだ。過去に一度、興味本位でドラコの顔を覗こうとしたゼロに対してひどく逆上したこともあるほどだ。ゼロは自分の知識の分身であるのにもかかわらず。
ドラコ自身の感情は置いておくとしても、世間一般、少なくともドラコが生まれてからのこの世界では、小学生以上の人はみな顔の上半分を覆うマスクを着けて過ごすのが常識となっている。もちろん、四六時中着けている人ばかりではなく、家の中ではマスクを外して過ごしているという人もいるという話をドラコは聞いたことがある。けれども、普通は家の中でも部屋着のように部屋マスクという柔らかい素材のマスクがあって、それを着けて過ごすものだ。たとえ家の中でも、マスクをつけずに過ごすのは奇異の目で見られる。
マスクなしで人前に出るなどというのは、潔癖症のドラコには耐えがたい。学生時代、学校からの帰り道でマスクを着けていない変質者と出くわした時など、大声で悲鳴を上げながらテキストの詰まった鞄で何度も殴ってしまったほどだ。
ドラコは、家の中にいるときどころか眠っているときでも、汎用型のプレーンなものとはいえ、外出用のマスクを着けている。これはなにか主義主張があるとかそういうわけではなく、かっちりしたものを身に着けている方が落ち着くという極シンプルな理由からだ。
顔を洗ってタオルで拭いて、すぐさまにマスクを着ける。すっきりしたところで台所へと向かった。
台所には、昨夜のうちから水を入れて給水させている米の入ったメスティンが置かれている。引き出しの中からポケットストーブと固形燃料を二個ずつ出してセットする。片方に火を付けてその上にメスティンを置いた。もう片方のポケットストーブの上には、同じように火を付けて、水を張ってレトルトカレーの袋を入れたクッカーを置く。これであとは火が消えるまで放っておけば、自動的に朝ごはんが出来上がる。友人からこの方法を聞いたときは、とてもありがたいとドラコは思ったものだった。
朝食の準備ができるまでの間に、ドラコはまたゼロが待っている自室へと戻る。朝食の準備ができるまでに着替えてしまうつもりなのだ。
「ドラコ、今日の朝ごはんは?」
「今日はカレー温泉。だいぶ前に旅行行ったときに買ったやつがそろそろ賞味期限だからさ」
「それは大層よく味が染みてるだろうな」
ゼロと話をしながら、ドラコはパジャマを脱いでいく。顔を見られることに抵抗はあっても、相手がゼロであるのなら、体を見られることには抵抗がないようだった。
クローゼットの中から長袖のタイトなカットソーとジャージ素材のパンツを出して着ていく。これがドラコの作業着だ。
着替え終わったところで、窓辺で赤くきらきら光る結晶を付けた白い小振りな木のようなものを見る。ゼロも一緒に木を覗き込んでドラコに訊ねる。
「どう? サンゴの生育順調?」
その質問に、ドラコは木の植わった鉢の横に置かれた血の入った試験管の蓋に、固い管を刺してひっくり返し、木の根元に突き刺して返す。
「いい感じ。今回も健康だね」
このサンゴという木は、血を吸って結晶化させ、硬質な実を付ける。ドラコのような錬金術師の間では一般的なものだ。
少しの間サンゴの様子を見て、ドラコはゼロを連れて台所へと向かう。ポケットストーブを使った自動炊飯は完了していて、あとは食べるだけだ。
メスティンの蓋を開け、ごはんを片側に寄せて空いた部分にカレーを注ぎ込む。それとスプーンを持って居間にあるテーブルに着いた。
朝食を食べている間、ドラコはゼロと話をしている。話の内容は、主に昨夜寝るまでにネットで流したニュースの再確認だとか、本の通販サイトでざっくりと見た本の情報だとか、各観光地の天気の様子などだ。
あらかた外部の情報を確認したところで、ドラコはゼロにこう訊ねた。
「そういえば、フェルトとかの在庫どうなってる? 私の印象だとまだだいぶある感じなんだけど」
その質問に、ゼロはすぐに答える。
「たぶん、今度納品する分作るのには足りると思うけど、そろそろペールオレンジのフェルトがなくなりそう。あと、黒と茶色のエンボス加工のも。綿もまあまあきびしいのでは?
そろそろ買い出し行った方がいいかも」
「マジでか。全体の物量見ると減ってる感じしないんだけどな」
「種類がな、おおいからな」
話をしているうちにも食事は終わり、ドラコはメスティンを台所に持って行き水に浸ける。洗うのは昼食後にするつもりのようだ。
広いテーブルの上をクロスで拭いて、ドラコは居間に置かれた金属製のラックの中から膨らんだポケットファイルを取り出す。このポケットファイルの中に、ホムンクルスを作るためのフェルトが入っているのだ。
今回使おうと目星を付けていたフェルトをファイルから出して、詰めるための綿と飾り用のボタン、針と糸、鋏などの裁縫道具をテーブルの上に広げる。居間は食事の場であり、作業場でもあるのだ。
ファイルからフェルトと一緒に出しておいた小さな型紙をフェルトに当て、印付け用のペンでなぞって形を取り、鋏で切りだしていく。それを針と糸で丁寧に縫い合わせて綿を詰め。というのを繰り返し、ベースとなる素体を三体ほど作り上げる。色は先程ゼロがそろそろなくなりそうと言っていたペールオレンジのものや白いもの、足だけ赤や青のフェルトを使ったものなど個性がある。
そこまで作業が進んだところで、ラックの上に置かれた紙製の箱を持ってくる。蓋を開けるとその中には、フェルトでできた小さくて目の付いていないペストマスクと、だいぶ前にサンゴの木から収穫した赤くきらきらした結晶が入っていた。
ドラコはペストマスクの嘴部分に綿を詰め、それから作った素体に縫い付けていく。その過程で、追加で綿を入れたりサンゴの結晶を入れたりしている。
この、サンゴの結晶を入れるのがドラコのホムンクルス作りで肝要な部分だ。このサンゴの結晶が、制作者こと術者とホムンクルスの知識や情報を紐付ける。それと同時に、ホムンクルスに命を与えるものなのだ。
サンゴの結晶を仕込みつつマスクを付け終わると、今度はマスクにボタンで目をつける作業だ。この作業がなかなかに難しく、ドラコはどうしても毎回同じ位置に付けるということができない。けれども、購入者からするとそれが逆に一点物独特の個性と映るらしく、おおむね好評だ。
ボタンで目をつけ終わったら、フェルトを切り出して髪の毛を付けていく。そんなに難しいことは言わず、基本的に髪型は今までに作った型紙の組み合わせでバリエーションを出している。型紙の数自体がそこそこあるというのと、髪の毛には柄物のフェルトを使っていたりもするので、それもまた個性があって良いと購入者から評されている。
髪の毛を付け、カットクロスで簡単な服を作ってフェルトの人形に着せる。手間のかかる作業はここまでだけれども、肝心の作業がこのあとに待っている。
ドラコは一旦フェルトと型紙、裁縫道具を片付け、今度はラックからファイルボックスを取りだし、中からレースのような柄の透かし模様の入った紙を取り出す。その紙に、ホムンクルスが購入者のものになったという契約書を書いていく。それを封筒に入れ、植物の灰を入れた封蝋で封をする。購入者がこの契約書の封を切り、サインを入れるとホムンクルスが起動する仕組みなのだ。
契約書を新しく作ったホムンクルスの数の分だけ用意し、ホムンクルスを入れるために用意している専用の箱に一緒に入れていく。これから新しいオーナーを待つホムンクルスは、リボン付きの柔らかいクッションに結んで留めてから。
箱全てに蓋をして、ドラコはようやく一息つく。これでいつも委託している店に今度納品する分が仕上がった。
そう安心していると、スマートフォンが着信音を鳴らす。何かと思って見ると、ネットショップの方のリクエストメールだった。
「あ~、次もがんばって作らないと」
伸びをしてドラコがそう言うと、ゼロが卓上の時計を叩いて言う。
「そうは言っても、次のサンゴが育ちきってないでしょ。とりあえずお昼だよ。ごはん食べな」
ゼロの言葉に、ドラコは席を立つ。
「はーい。食材はなにあったっけ?」
「キャベツと卵とツナ缶を早く消費したいところ」
「OK」
それならお昼は巣ごもり卵か。ドラコはそう思いながら台所に向かった。
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