美の奴隷

羊坂冨

第1話

「あら、あさひじゃない」

 ねばつくような甘い声に、吉川あさひはびくりと身を震わせた。その様子に、恋人の海野啓介が怪訝な顔をしつつも振り返り、そして目を丸くした。

 声をかけてきたのは、このあたりでは見かけないような絶世の美女であった。すらりとした長身でスタイルがよく、大胆にデコルテの空いたトップスからは、高校生である彼には目の毒となる谷間が覗いている。ふわりと甘い香りがした。啓介の視線は自然とそこに吸い込まれそうになり、慌てて視線をあげる。

 その美女は、にやにやと気安い笑みを浮かべていた。再度、艶やかな唇がゆっくりと開く。

「久しぶりねえ」

「姉さん」

「なによ、昔みたいにおねえちゃんって呼んでくれればいいのに」

「やめてよ」

 啓介の背に隠れるようにしながら、あさひはつぶやく。

「ここで、そんな話」

 うつむくあさひを見てどこか楽しそうにしながら、美女──あさひの姉は啓介の方を眺める。彼の頭の先からつま先までを遠慮なく、嘗め回すようにとらえてから、彼女は小さく息を吐いた。

「あなたは? あさひのお友達?」

「はあ。ええと」

 答えに悩んでいると、あさひが叫ぶように言った。

「ただの友達っ! ね、もうここまででいいよ。わたし、この人と帰るから」

 啓介をほとんど押しのけるようにしながら、あさひは姉の手を取り、ひっぱる。

 普段の、おっとりして優しいあさひからは想像もつかない態度に、啓介は目を白黒させる。

「ばいばいっ、またね、啓介君」

「……またねー」

 あさひの姉は、不遜な笑みを浮かべながら、啓介に小さく手を振り、そして二人とも、角を曲がって見えなくなった。

 初夏の住宅街に一人取り残され、啓介は小さくため息をついた。

「ま、秘密にしたいとはいっていたからなあ……」

 啓介とあさひが交際を始めたのは二月前である。あさひの方から告白され、もとより仲が良く、素朴な感じのするあさひを、啓介もまた好ましく思っていた。二人とも恋には積極的ではなかった。キスなどはもってのほかで、最近になってようやく、照れずに手をつなぐようになった。啓介はそれに満足している。この陽だまりで過ごすような穏やかなまま、二人で過ごしていけたらと思う。

 あさひから交際を申し込まれるにあたり、たった一つ条件を出された。交際していることを、絶対に秘密にすること。クラスメイトにも、できれば親にも、とのことだった。

 啓介自身、自分の恋愛事情を吹聴しようという趣味はなかったから、軽い気持ちでOKしたが、先のあさひの態度をみるに、彼女の秘密主義は自分の思うよりも重要なものだったかもしれない、と思う。

 けれど。

「いつか、家族には言いたいな」

 あさひと交際を続け、大学を卒業したその先の話。家族になれる日が来るのであれば。

 いつかは、お互いの家族に会うことにもなるかもしれない。

(……気が早いかっ)

 我ながらおめでたい妄想に苦笑しながら、啓介は来た道を戻り、自分の家へと帰っていった。



 ばたん。ドアの閉じる音が、どことなく大きく感じられた。あさひは義姉──真昼の腕から手を放し、そして彼女に触れていた指をかくまうように、胸の前で指を組む。

「どうして、ここにいるの。大学は」

 振り返ることなく問うと、真昼は軽い調子で答えた。

「代返もレポートもさせる相手がいるからね……かわいい妹の顔を見ようと里帰りすることに、何の不思議もないでしょう」

(……させる、相手)

どうやってそれを可能にしたのか、あさひはよく知っている。姉が、どういう人間なのかを。

 どういうことが、できる人間なのかを。

「…………ひっ」

 考えを妨げるように、真昼の冷たい指があさひの首筋に触れた。頸動脈をなぞるようにつうっと指先が動き、そこに、ぞくぞくとした快感と、それ以上の恐怖があさひの思考を黒く染める。

「それとも、あさひには何か、都合の悪いことでもあったのかな。たとえば……あの男の子と、付き合っているとか……」

「違うっ」

 あさひは振り返り、真昼の指から距離をとる。真昼の瞳がじっとこちらを見据え、一瞬息が止まりそうになるも、啓介の──大切な人の笑顔を思い出す。

「あれは、ただのクラスメイト。彼氏なんて、とんでもない」

「ふうん」

 真昼は表情を変えず、あさひの言葉を精査するようにじっと黙り込む。あさひはその沈黙に耐えられず、さらに言いつのった。まるで、言い訳をする犯罪者みたいに。

「むしろっ、今日は一緒に帰ろうって捕まっちゃったところだったんだよ。だから、姉さんが来て助かったんだ。ありがとう。だから、付き合ってるなんて、ありえないの」

「へえ、そうなの」

 真昼はあさひの言葉にうなずきながら、薄く笑う。

「そんな奴なら、私がなんとでもしてあげるね」

 心臓が止まるような言葉だった

「待っ……まって、違うの」

「なにが?」

「……その、そこまでするほどじゃないの。たぶん、もう関わらないから。だから、大丈夫。ありが……きゃあっ!」

 最後まで言うことはできなかった。

 真昼が、あさひの髪を掴んで、そのままあさひを壁に叩きつけるようにして、追い詰めたのである。

「い、いたい……」

「嘘でしょう」

 真昼はにっこりと笑った。

「お姉ちゃんに嘘つくなんて、いけない子だなあ」

「う、嘘じゃないっ」

「……強情。そんなに、あいつが大事なの? ふうん」

「……啓介君は、関係ない……」

首を振るあさひを、真昼は冷たく追い詰める。

「あさひが、男を名前で呼ぶなんて」

 はっ、と、自分の過ちに気づいた。ここ二か月、いや、それ以上前からずっと、好きになったときからずっと、心の中で呼び続けていた大切な人の名前。

 そういえば、啓介と別れる時も、名前で呼んでしまっていた。

 あの時点で、真昼はもう確信し、そして許すつもりはなかったのだ。

 真昼は乱暴にあさひの頭を何度か振り、そして痛みに顔を歪めるあさひの耳元に、唇を押し当てる。白檀の香りがあさひを包み、脳裏にはかつての苦痛の記憶がみずみずしくよみがえってくる。

「お前がどんな存在なのか、思い出さなきゃいけないね……」

 息を呑む。歯の根が合わなくなってくる。何度も何度も、あさひの脳に、瞳に、耳に、鼻に、舌に、腹に、おっぱいに、足に、背中に、尻に、喉に、性器に、そして魂に、刻み込まれた暴虐の記憶。細胞すべてが怖気立っている。真昼に犯され、辱められた傷が、じくじくと痛みだしている。


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