第4章26節
【26】
永瀬晟は梶本恭子の様子を見守り続けていた。
鏡を見た直後の彼女は、頭を抱え全身を身もだえするように震わせながら、
「違う、違う」
と何度も怒号し続けていた。しかし突然、
「あんた誰よ?」
と言った後に静止すると、それからは呆然と立ち尽くしていた。やがて梶本はその場に蹲(うずくま)ってしまった。その背中を見ると、かすかに震えているのが分かった。そして理由は分からなかったが、彼女の怒りは沈静化し始めているようだった。
その一連の動きをじっと見守っていた永瀬の中では、最初の感じていた恐怖は既に鎮まり、今では変わり果てた姿になってしまった梶本に対する、強い憐憫の情が溢れている。
「永瀬先生、終わりました」
その時突然、林海峰の声が永瀬の耳に届いた。振り返るとそこに、疲れ切った様子の彼が立っている。林は何とも表現のしようのない、切なげな、そして怒りを含んだような表情をしていた。体には永瀬が彼に対して、これまでに感じたことのない、厳しい雰囲気を帯びている。
「林さん」
永瀬が声を掛けようとするのを手で制して、林は梶本に話しかけた。
「梶本さん、よろしいですか?これから、あなたの今後について話し合わなければなりません」
永瀬が振り向いて、梶本が蹲っていた場所を見ると、彼女はいつの間にか、奥の光の当たらない場所に移動している。林の呼びかけに、梶本はゆっくりと顔を上げたようだった。しかしその表情は、闇に溶けて見ることが出来ない。
「私の、これから、ですか?」
途切れ途切れにそう問いかける彼女の声は、落ち着きを取り戻しているようだった。それ永瀬のよく知る、少し遠慮がちな梶本の声音だった。どうやら彼女の精神状態は、元に戻ったようだ。
――林は彼女に、一体何をしたのだろう?
永瀬がそう考える傍らで、林が梶本に呼び掛ける。
「そうです梶本さん。まずあなたの希望を聞かせて下さい。」
「私は」
梶本はそう言って少し口ごもる。
「私は、警察に行かなければならないのでしょうか?そうですよね。こんなに人を殺してしまったんですから。でも」
「でも?」
言い淀む梶本を、林が促す。
「私は、警察に行きたくない。罰を受けるのが嫌なんじゃないんです。この姿を、こんな姿を、他の人に見られたくないんです。絶対に見られたくないんです。もし見られたら、また自分を見失ってしまうかも知れない。それが怖くて。怖くてたまらないんです」
切々と語るその言葉に続いて、すすり泣く声が聞こえてくる。永瀬はその声を聞いて、梶本に対する憐憫で胸が締め付けられる思いだった。
――何が梶本君をあんな姿にして、これ程までに苦しめているんだろう?
永瀬の脳裏には、研究室に配属された学生時代からこれまでの梶本恭子、地味で大人しいが、真面目で素直な、少し小柄な女性の姿しか浮かんで来なかった。
いつの間にか永瀬の双眸に、涙が溢れてきた。
――君はどうしてしまったんだ。
闇の中に梶本のすすり泣く声だけが響く。
暫くの間沈黙を守っていた林が、やがて静かに口を開いた。
「梶本さん、貴方にはお伝えしていませんでしたが、私は九天応元会(きゅうてんおうげんかい)という道教教団の教主の座にいます」
「教主?」
「そうです。そして我が教団は、日本にも拠点を持っています。その拠点で、貴方を人知れず匿うことは可能ですよ」
「何を言ってるんです!林さん」
林の意外な提案に、永瀬は思わず声を上げる。
「そんなことが許されるはずがない。それでは犯人隠匿だ。もちろん僕も彼女を何とか助けてあげたい。しかし、それでも法治国家である限り…」
永瀬はその先を続けることが出来なかった。自分が、本心と著しく乖離している建前を述べているに過ぎないことに、強い自己嫌悪を感じたからだ。
「ほんの少しの期間だけです」
永瀬の本心を察したのか、林は静かに言った。
それに続いて梶本が、消え入りそうな声で呟く。
「永瀬先生、私はあと少ししか生きられないんです」
それを聞いた永瀬は、次の言葉を失ってしまった。
「梶本さん、聞いていらしたのですね?」
「はい、私の頭の中のことですから。でもその前から、自分の体の異変については何となく気づいていました。時々胸が締め付けられるように苦しくなって」
二人の間で、永瀬には謎の会話が続けられる。堪らず永瀬が林に目で問うと、
「後で詳しくご説明します」
と言って林は彼を制した。
「林さん、ご厚意ありがとうございます。でもやっぱりお断りします。林さんにこれ以上ご迷惑をおかけしたくありませんし」
「迷惑などではありませんよ」
と言いかける林を遮るように、梶本は続けた。
「それにもうこれ以上、他の誰にも見られたくないんです」
「では、どうされるおつもりですか?まさか」
その時、梶本のいる辺りで大きな音がした。何かが勢いよく噴き出す音がそれに続く。
「梶本さん、いけない」
そう言って彼女のいる方に駆け寄ろうとする林に、
「来ないで!」
と梶本が叫ぶ。
「止めるんだ。あなたにはまだ生きる権利がある!」
林は断固とした声で彼女を止めようとする。
しかし梶本は少し沈黙した後、静かな声で応えた。
「林さん、ありがとうございます。でも私は、こうしたいんです。永瀬先生、これまで本当にお世話になりました。先生の様な方にお会い出来て、これまでご指導いただいて、一緒に働くことが出来て、本当に幸せでした。ありがとうございます。それから、最後にこんな形でご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」
そして最後は、血を吐くような声で叫ぶ。
「梶本君、何を言ってるんだ。一体何をしようとしてるんだ。とにかく止めるんだ」
永瀬は、梶本の声から伝わってくる切迫感に押されて叫んだ。林が駆け寄ろうとする先で、何かが大きなものが倒れる音がし、床が地響きを立てた。
「今、ここにあった大型の冷蔵庫を倒しました。もうこちらには近寄れません。だから来ないで!二人とも早くこのビルから逃げて下さい!」
梶本が叫ぶ。
永瀬が咄嗟に林を見ると、薄明かりの中で無念そうな表情で目を閉じている。やがて目を開けた彼は、
「残念ですが行きましょう。ここは非常に危険です。あなたまで巻き込む訳にはいかない」
と言って永瀬の腕を強く引き、出口へと向かった。背後から「永瀬先生」という、梶本の声が聞こえた気がした。
二人は階段を一気に駆け下り、裏口を通り抜けて表通りへと飛び出した。
その時。
頭上で轟音が響き、足元の地面が揺れ、辺りが急に明るくなった。そして大小の破片の様なものが、火の粉と共に永瀬たちの上に降り注いで来る。二人は反射的に腕で自分の頭を庇いながら、近くの建物の壁際まで避難すると、赤黒い炎を上げているビルを見上げた。窓からはオレンジ色に照らされた煙が、朦々と噴き上げている。永瀬たちがいた四階部分は、内部が跡形もなく吹き飛んでしまったようだ。暫くすると周囲に人が集まって来て、辺りに喧噪が満ち始める。
隣を見ると、林が沈痛な表情でビルを見上げていた。
「林さん、一体何が…」
永瀬は呟くように訊いた。
「梶本さんは一切の痕跡を残さず、この世から旅立つ道を選んでしまいました。彼女は恐らくガス管を引き抜いて、何かで引火させたのです」
そう言って永瀬を見た林の目から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
「残念です。とても残念です。私が無暗に考え込まず、もう少し早く行動を起こしていたならば、彼女を止められたかも知れない。そう考えると、自分の不甲斐なさに嫌気が差してしまう。一体私の能力は、何のためにあると言うのだ」
林はビルに目を戻し、悲壮な表情を浮かべて言った。これ程感情を露わにした彼を見るのは初めてだった。永瀬はもうそれ以上何も言えず、燃え盛るビルに目を戻した。
そして不幸な運命に翻弄され、最後に自ら壮絶な死を選ばざるを得なかった梶本恭子を思う。せめて彼女が、最後に心の安らぎを取り戻していたことを、永瀬には瞑目して祈ることしか出来なかった。
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