第三章 神々の黄昏 15節
【15-4】
しかし林が永瀬の質問を遮った。
「永瀬先生。当然のご質問だと思いますが、そのことはもう少し後に置いていただけませんか?」
永瀬は内心少しむっとしたが、生来押しが弱い性質(たち)だったので、そこは黙って引くことにして、林に向かって頷いた。林は彼に向かって微笑を返すと、蔵間に目を向ける。
「あなた方のお話をお聞きすると、次々と疑問が湧いてきます。また幾つか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「許可する」
「まずあなた方は、人間の精神世界に入ってしまうと、その世界が人間の死によって消滅するまで出ることが出来ないという事実を、知識として持っておられたのですね?」
「そうだ。吾はかつて所属していた共同体から、その知識を共有されていた」
「何故精神世界から出ることが出来ないのでしょうか?」
「その理由については、十分な知見が得られていない。しかし、吾が実際にこの人間の世界に入ってみて理解したことは、この世界がかなり堅牢な構造で出来ており、吾が自身の構成の全体、または外部での生存に必要な大部分を維持したままで、この世界の外部に出ることは、不可能だということだ」
「しかしあなた方は、先程私の精神に直接接触を試みられました。つまり、外部に出ること自体は可能なのではないですか?」
「吾の構成要素の大部分を、人間の精神世界の中に残したままであれば、一部を外部に出すことは可能だ。しかしその場合でも、外部に出す部分は精神世界内部にある吾の構成要素と連結されている必要がある」
「触手の様なものを外部に出すということですね?」
「吾は特定の形状を持たないので、汝の言う触手とは異なるが、機能自体は同様である」
「あなた方は、私以外にも接触を試みられましたか?」
「研究室の職員及び学生と個別に面談し、その際に個々の精神世界への接触を行った。そこで記録した情報はこの者と共有した」
「何故その様なことをなさったのですか?」
「吾等が思考を続けるためには、常に新たな情報が必要だ。しかし吾等は人間の様な知覚機能を有していない。吾等がこの世界の様々な事象を認識するためには、多数の人間の記憶から情報を得るしかないのだ。人間の精神世界の外部では、そのことは容易に行うことが出来た。我らが共に存在する人間が、多くの人間が所属するコミュニティ内にいるという前提ではあるが。一方人間の精神世界の内部では、その人間の知覚機能を通じて情報を直接取得することが出来る。しかしその場合、情報源が一人の人間に限定され、その人間に由来するバイアスを除くことが出来ない。その場合に吾等は、より多くの情報を得て、より客観的事実に近い記憶を構築するため、先程汝が述べた方法で、外部の人間の精神世界と接触し、情報を取得しなければならないのだ」
――あの個別面談には、そんな意味があったのか…。
永瀬は蔵間の頭から伸びた触手が、自分の頭に侵入してくる図を想像して背筋が寒くなった。さらに自分の精神の内部が、蔵間父娘に知られているという事実に思い至り、言いようのない羞恥と嫌悪感を覚えた。
永瀬のその感情の動きを読み取った様に、彼に向かって蔵間は言った。
「汝は不安という感情を生成する必要はない。吾が人間に直接接触して取得した情報は、この蔵間顕一郎という人間には共有されない。吾固有の記憶として、吾の構成要素の中に保存される。それは、この者と蔵間未和子という人間との間でも同様だ。従って汝が自身の記憶として保存していた情報や、他の人間に対して生成している感情を、この人間たちが知ることはない」
そう補足する蔵間の言葉に少し安堵する一方で、永瀬は目の前の蔵間父娘に対する気味の悪さを、どうしても抑えられなかった。そうして気まずくなりかけた場の雰囲気を破るように、林が質問を続けた。
「では次の質問をさせていただきます。これは先程の永瀬先生の質問と関連します。今あなた方は、蔵間先生と美和子さんの精神を支配されているのですか?私の精神の内部にいる者が、かつて私の父の精神を支配していたように」
「汝の問いの意味が、吾がこの人間の精神世界をすべて所有し、その主体として精神活動を行っているのかということであれば、否である。この人間の精神世界には、汝ら人間が定義するところの自我や意識、記憶といった、この人間固有の人格及び精神が、すべて元の状態のままで存在している。この人間はこれまで通り、自分自身の意思に基づいて行動している。ただし現在の様に、吾やこの者が意識の表層に出ている時には、この人間たちの意識は睡眠時と同じ状態になっている。その間の記憶は保持されているが、再生されることはない」
「記憶は保持されるが、再生されない」
林が蔵間の言葉を繰り返した。
「そうだ。吾等はこの人間たちの記憶の再生を、随意に調節することが出来る」
「あなた方はそれ以外にも、人間の精神活動をコントロールすることが出来るのですか?」
「吾等は人間の精神世界に接触し、そこにある記憶を複写し、自身の記憶として使用することが出来る。現在吾が、この蔵間顕一郎という人間の発声器官を通じて、この国の言語で汝らと会話しているのが、その一例だ。吾等はもとより言語を持たない。何故ならば、吾等の間では互いに境界を接触させることで、情報の共有や意思の疎通を行えるからだ。しかし現在のこの様な形式で人間と交信する場合は、言語という手段を用いなければならない。その場合に吾等は、人間から複写した言語に関する記憶と、その使用方法に関する記憶に基づいて人間の発声器官を動かし、吾等の意思を伝達する」
「あなた方はどの様な方法で、人間の持つ記憶を複写したり、人間の器官を操作したりされているのですか?」
「人間が感覚器官を通じて感知し記録した外部情報は、再生される際にエナジーとして生成される。それを摂取し、自身の構成要素の一部とすることで、吾等はその情報を記録するのだ。人間の器官の操作に関しては、汝ら人間が、自身の精神活動を行う際に取るのと同じ方法だ。すなわち、神経繊維やシナプスを介した活動電位の発生、情報伝達物質の遊離と受容体との結合、細胞内情報伝達系の活性化という、一連の情報伝達および処理のプロセスである。その伝達システムを、吾等は随意に発動させることが出来る。そうすることで吾等は、人間の各種器官を作動させるのだ。記憶の再生のプロセスも同様である」
蔵間の説明を聞いて永瀬ははっとした。まさにそれは、蔵間や永瀬の専門分野と密接に関連したものだったからだ。蔵間の答えに莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべ、林が言った。
「永瀬先生。これこそが今回、私が先生方の研究室にお世話になることになった理由の一つなのです」
――ああ、そうか。それが林さんの来日の目的だったのか。
永瀬は一つ腑に落ちた。
「そして永瀬先生」と林は続けた。
「既にお気づきかと思いますが、<精神>とは<神>の本質を、<神経>とは<神>の意思を伝達する経路を意味する言葉なのです」
それを聞いて永瀬は言葉を失った。これまで疑いもなく使用していた単語に、その様な意味が込められているなどと、考えたこともなかったからだ。
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