第5話
視界いっぱいに広がるのは、一分の隙もなく緻密に敷き詰められた
(不覚だった……!)
脳に押し寄せた記憶、現在の状況に歯噛みしながら身動ぎすると、全身に激しい痛みが走った。倒れた時に打ち付けただけではあるまい。息をするたび、鼓動を打つたびに押し寄せる痛みは、血管に無数の細かな針を流し込まれたかのよう。猫鬼の呪詛が肉体に及ぼした影響に違いない。
少しでも楽な体勢を探してもがけば、ご丁寧に手足が縛られているのも分かる。どうあがいても、這いつくばる格好しか取れそうにない。
「ごきげんよう。
辰蘭が状況を見極め、受け入れたのとほぼ同時、「嫋やか」という言葉を音にして響かせたような声が降ってきた。
「わたくしが名乗る必要は、あるかしら?」
「……いいえ」
思うように動かせない首をどうにか持ち上げて見上げれば、これもまた「嫋やか」を形にしたような、優美を極めた貴婦人が嫣然と微笑んでいる。彼女が背を預ける椅子の細工の見事さ。纏う衣装、高く結い上げた髪を彩る装飾の豪奢なこと。そもそも、この部屋の調度の眩さ。そのどれもが、この女人の名と位を示している。
「このような姿で拝謁に
無論、辰蘭にこのような格好をさせているのはほかならぬ皇后だ。だから、痛みと怒りを堪えて絞り出した挨拶は、よくもやってくれたな、という悪態にほかならない。それに気付かないはずもないだろうに、皇后はおっとりと笑った。
「無礼というなら、暁燕も、でしょう。ごめんなさいね、子供ってうるさいものでしょう? 大人しく良い子にしてもらえるようにしているの。わたくしがついていないと、ちょっと変に見えてしまったかもしれないわね」
暁燕皇子は、確かに大人しい良い子に見えた。知らない大人に対しても物おじせず、言葉遣いもはきはきとして。……そう見えるように、猫鬼を通して母后に操られていたのだ。
(文字通りの
辰蘭の顔には、はっきりと嫌悪が浮かんだだろうに。皇后は、慈愛溢れる母親そのものの優しい笑みを崩さない。
「うちの宦官なら、何を言われても知らぬ存ぜぬを通すはずなのだけれど。いつもと違う受け答えをされたものだから、それで──」
「皇子たる御方に何ということを。非道なだけでなく残酷な──猫を探していらっしゃったのに」
呪詛そのものが
「子供が可愛がっている猫に、あのような仕打ちを……!」
皇后は、不思議そうに首を傾げ、ほんの少しだけ眉を顰めた。どうして糾弾されているのか、わけが分からない、と言いたげだった。
「勘違いしているかもしれないけれど、あの子の猫を呪詛に使ったのではないわ。呪詛に使うための猫に、暁燕が勝手に情を移したのよ?」
「同じことだ!
「そんなことはどうでも良いでしょう」
麗玉公主の弱々しい泣き声、梓媚の焦りと不安に満ちた顔、暁燕皇子の切ない訴え──それらをごくあっさりと片付けて、皇后は辰蘭のほうへ身を乗り出した。
「わたくしが知りたいのはね、殷辰蘭、
ゆっくりと瞬きして時間を稼ぎながら、辰蘭は皇后の言葉を吟味した。この女は、鏈瑣の真実の名をもさらりと口にした。彼の驚きと動揺を誘うためなのは分かっている。──乗せられては、ならない。
(皇后は、梓媚が入宮した時は鏈瑣の正体を知らなかったはず。知っていれば、梓媚がその力を得る機会を許したはずがない)
「……貢院の事件の顛末をお聞き及びになったのか。鎖を帯びた化物がいる、と。それで気付かれた……?」
「ええ。皇后という立場にいるとね、国や後宮の秘史について知ることも多いのよ」
呪詛を返されて死んだ
だが、事情を察した上でも皇后の動向は不可解だった。
「貪虚星君は、今は梓媚に従っている。目覚めさせた者の命令には背けないものだと本人から聞いた。ご承知の上で、公主を呪詛したのか」
「なるほどね」
神話の世界の存在を敵に回すつもりなら、正気の沙汰とは思えない。辰蘭の
「それしか分かっていないなら、良かったわ」
「は……?」
辰蘭の呟きを無視して、皇后は立ち上がった。ささやくような衣擦れの音が、芋虫のように這いつくばらせられた彼の周囲を巡る。
「
「愚かで迂闊で、
縛られて床に転がされた体勢から、皇后の動きを追って首を巡らせるのはそれなりにきつい。猫鬼の呪毒も、ずっと肉体と神経を
「使えなかったから、よ」
無礼を咎めるでもなく、皇后は機嫌良く笑うだけだったが。歩みを止めずに語り続けるのは──弾む心を押さえられないから、ということなのかどうか。
「天は、人が神に類する存在を使役することを良しとしなかったの。だから、太祖が施した千の鎖の封印に枷を施した。貪虚星君に命じて人の命を奪った場合、鎖は一本ずつ砕ける、というね」
「な──」
「ね? 目障りな皇族の暗殺や、内乱の鎮圧には使えないの。管理を諦めるのも仕方のないことでしょう?」
ちょうど辰蘭の正面で足を止めた皇后は、彼を覗き込んで満面の笑みを浮かべた。纏う香りがいっそう甘く立ち上るような、華やかで美しく品のある笑顔ではあるが、いったい何がおかしいのか辰蘭にはさっぱり理解できない。
「思静殿の女たちが死んだ、というのは──貪虚星君を解き放ったから、なのか」
皇后の心が理解できないから、せめて事実を把握すべく、辰蘭は問いを重ねた。脳裏によみがえるのは、鏈瑣とのやり取りのいくつかだ。
貢院で、礼部の官や
執拗さは、確かに感じていたのだ。あの化物の食欲はいつものことで、化物なりの理屈でそれが手っ取り早いと考えただけだと、受け流していたのだが。
(
月官の青年に、いずれ戻る、と述べた理由も、これで分かった。人の愚かさ欲深さは、いずれ必ずかの凶星を解き放っていただろうから。
「後宮の女が凶星の力を手にしたら、何をするかは分かり切っている。そして、鎖が砕けた以上、星君のほうで人間の女に従う理由もなかった、のでしょうね。封印の鎖は千もあるから、ひとつ砕けてもすぐにまた動きを封じられるはずだけれど──この二百年で、どれだけ減ったのかしら」
「私にそれを聞かせて、何をなさるおつもりか」
あくまでも穏やかに品よく語る皇后を、辰蘭は鋭く睨め上げた。丁寧に答えが返ってくるのは、何も慈悲や寛容が理由ではないだろう。聞かせても構わないという心算があるからに違いない。
「寧妃は、優しい子よね。甘い、というか。貪虚星君を目覚めさせておいて、誰も害そうとしなかったなんて。でも、お兄様の命と引き換えなら腹を括ってくれるのではないかしら」
ほら、皇后の美しい笑みに、邪な悪意が影を落とす。胸の前で手を組み合わせて、うっとりと夢見るような眼差しで、妹を陥れる企みを打ち明ける。
「わたくしのために、貪虚星君の力を使ってくれるようにお願いするつもりよ。そうすれば、すべてが上手くいくの……!」
皇后の狙いは、皇太子争いの競争相手になる第一皇子とその母妃だろう。
辰蘭を人質に、梓媚にふたりを害させれば。鏈瑣の鎖は砕け、解き放たれた凶星は、即座に主
良い考えだと、皇后は信じ込んでいるのだろう。いまだに梓媚の性格を把握していないようだから無理もないが。
「梓媚は、貴女が考えるような女ではない。考え直されたほうが良い……」
「どうかしら。まあ、すぐに分かるでしょう。ちょうど、寧妃をお招きしたところだから。もちろん、貪虚星君も連れて、ね」
心からの忠告のつもりで絞り出した言葉は、あっさりと無視された。それでも言葉を重ねようと、息を整える気配を、皇后は
「しばらく静かにしていてちょうだいね? 嫡子までも亡くしては、殷家もお気の毒だもの」
辰蘭の耳元で、猫の低い唸り声がした、と思うと全身が石のように重くなった。猫鬼の呪詛の効果なのだろう。それによって、辰蘭は身動きはおろか、声を発することさえできなくなった。
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