第2話
長く込み入った話になるのを察して、辰蘭はさすがに
「茶に、干し柿か。また腹に溜まらぬ詰まらぬものを」
「腹を満たすためのものでも、お前のためのものでもない。黙っているが良い」
「見目良い従者を囲っているという噂は本当だったのか。お前が前を向く気になれたなら良いことかもしれぬが……」
「口を慎め。根も葉もない流言だ。私はそれほど悪趣味ではない」
辰蘭は憤然として旧友のひどい思い違いを正した。
それは、さておき──茶の香りと柿の甘味で気を落ち着けたところで、林浩雨は子不語堂を訪ねた本題を切り出した。
「今回、
「ほう。若いのに大したものだ」
郷試とは、科挙の第一関門だ。合格するのは狭き門だし、次に控える
「まあ、受かるとは思っていなかった。ただ、貢院の空気に触れさせておこうというだけで。提出した答案を書かせてみたが、やはり出来が甘かった。お前や
心から称賛したつもりだったのに、浩雨は軽く顔を顰めて首を振った。また嫌みだな、と思われていそうな気配を感じて、辰蘭は首を竦める。
「……一度で合格する必要もあるまい。まだ若いのだから」
これもまた、何とも傲慢に聞こえる言い分ではあっただろう。
彼と桂磊は、最初の受験で会試にまで進んでいた。まあ合格はしていないのだが、それも答案の不出来によるものではなかった。そう、それに
『
受験を放棄した者からの気休めなどさぞ癇に障るだろう。浩雨からはまた棘のある言葉が返されるのだろう、と。辰蘭は肩を強張らせて待った。だが、浩雨は声を荒らげることなく、眉を寄せて声を低めた。
「それが、次の機会が得られぬかも、という事態になっているのだ」
「何……?」
意味深かつ不穏な物言いに、辰蘭も思わず声を潜める。
「……不合格で心が折れた、ということはないのだろうな?」
「ああ。そのように思い上がれるほどの逸材ではないからな」
林浩雨のもの言いには、やはり
合格そのものは当然、あとは
前途有望な若者は、普通なら科挙及第へ熱意を燃やすもの。親類縁者も一致団結して応援するものだ。国としても優秀な人材を求めるのは言うまでもない。
にも関わらず、受験できない事情があるとしたら。辰蘭自身のような例外を除けば──
(不正による受験資格の剥奪、か? だが、浩雨の弟ともあろう者が……?)
不躾な疑問を、辰蘭はあえて口にしなかった。だが、目の色で分かったのだろう。林浩雨は小さく頷いた。そして、忌々しげに吐き捨てる。
「試験後に、提出した答案の写しを書かせられるだろう。間違いなく本人が書いたものだと証明するために。だが、それらに大きな齟齬があった──すなわち、浩季自らが書いたのではなく、替え玉に受験させたのではないか、との疑義が呈されたのだ」
「それは──」
絶句する辰蘭に、林浩雨は冷ややかに嗤った。理不尽な疑いに笑うしかない、とでもいうかのようだった。
「最初は、私が弟の代わりに受験したと疑われたぞ。幸い、人と会っていたので潔白を証明できたが。だが、答案の齟齬については説明できておらぬ」
林浩雨の焦った様子も刺々しい態度も、ようやく腑に落ちた。科挙における不正は重罪で、一族にも累が及ぶもの。兄のほうも、前回の合格は本当に実力だったのかと痛くもない腹を探られることになるのだろう。
林家が窮地にあること、それ自体は理解できるが──
(なぜ私を訪ねた? 桂磊がどう関わるというのだ?)
辰蘭が内心で首を捻っていると、横からぎしぎしと軋むような声が上がった。
「ちょっと待て。答案の写しとはどういうことだ?」
言いつけた通り黙っていたので忘れかけていたが、鏈瑣も話を聞いていたのだ。
熟れた果肉を頬張りながら、鏈瑣は言葉を紡ぐ。信じがたい行儀の悪さに林浩雨が顔を顰めるのもお構いなしだ。
「科挙の答案は、何やら厳重に取り扱われるのだとは知っているぞ。提出したのを取り返して見直すことなどできない……のだよな?」
「ああ──その通りだ。審査官ですら原本を手にすることはなく、専門の官による写本を見て吟味するのだ。筆跡で誰の答案だか分かってしまうかもしれないからな」
科挙の手順になど一切の興味がないであろう化物の疑問は、状況の整理に役に立たないこともなかった。
出自に問わず才ある人材を登用する制度である以上、また、合格者には多大なる名誉と成功が約束される以上、科挙における不正は重罪に問われる。また、そもそも不正が見過ごされぬよう、何重もの警戒と対策が敷かれている。
たとえば、受験生は下着の中を探られ、持ち込んだ
「ならば、その写しをどうやって書き出すのだ?」
「一言一句を覚えておくのだ」
替え玉受験も警戒される不正のひとつ。その対策が、合否の発表前に受験生に答案の写しを作らせ、提出された内容と照合する、というものだ。
「は?」
辰蘭と林浩雨にとっては、改めて説明するまでもない当たり前のことなのだが。説明を受けた鏈瑣は整った顔を引き攣らせ、悪声をますます軋らせた。居心地悪げな
「科挙の答案というものは……長いのではないか……?」
「たかだか数千字だぞ。
「十字!?」
さらりと告げた辰蘭と、うんうんと頷く林浩雨を見比べて、鏈瑣は呻いた。
「……化物?」
化物に言われたくない、という反論を、辰蘭は辛うじて呑み込んだ。客がいる前で言えることではないし、今はほかに話すべきことがあるのに気付いたのだ。
「己の答案を暗記することもできない者が、郷試に臨めるはずがない。──では、答案の入れ違いが起きたと考えられよう。そこのところの抗議はしたのか? ほかにも答案と写しが一致しない受験者がいたのではないか?」
多少は前向きな問いかけのはずだった。だが、林浩雨は首を振った。
「当然、問い合わせた。が、答案が違っていたのは浩季だけだった。しかも、提出されたという答案は
「礼部侍郎? そこまでの話になっているのか?」
礼部は
(──まさか)
目を見開き、顔を強張らせた辰蘭に、林浩雨は口元を苦く歪めて頷いた。何を思いついたか分かっているぞ、と言いたげに。
「そうだ。弟の答案は桂磊のものと入れ替わっていたのだ。奴が死の直前まで綴っていた、遺作とも呼ぶべき執念を込めたものと……!」
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