第7話

 しん、と。数秒の間降りた沈黙を、鏈瑣れんさのはしゃいだ声が破った。辰蘭しんらんが言わんとすることを察したのだろう。地中から掘り起こされた錆びついた鐘を無理に鳴らすような、聞き苦しく割れた声だった。


「──そうか。桂花けいかの樹に樹精じゅせいはいなかったが、別の精怪せいかいかもしれぬ、ということだな!? 人の娘に仇なすモノなら喰っても良いな!?」


 そう──想う相手が何者かについて、ここまで皓君こうくんに問い質す機会がなかった。だが、良家に嫁ぐべく大切に育てられた深窓の令嬢が、いったいどこで男に出会えるのか、という謎がまだ残っている。


(桂花の樹精というのは方便だとして──事実、人ならざる存在に魅入られていたのでは?)


 りゅう家を最初に訪れた際、鏈瑣に調べさせたのは桂花の大樹だけだった。人の娘の心を奪うような精怪ならば、息を潜めて隠れるていどの知恵もあるのではないだろうか。


「お優しい御方でいらっしゃいますね」


 辰蘭の詰問の眼差しと、期待に満ちた鏈瑣のそれを華奢な身体で受け止めて、皓君は笑みを深めた。いとけない可憐さに似合わぬ、どこか色香の漂う笑みだった。


「後宮に仕えていた折も、寧妃ねいひ様にもたいそう心配していただきました。殿方は甘言を紡ぐものだと──無理もないことと存じます」

「では──」


 相手の男とやらに不審な点があったのか、と。身を乗り出した辰蘭を制して、皓君は澄んだ声で高らかに告げた。


「ですから、兄君様からお伝えしてくださいませ。わたくしは、幸せに暮らすことになるのだと……!」


 皓君の声が夜空に響いた、かと思うと、辺りに真昼の明るさが満ちた。まるで太陽が再び上ったかのような──違う、いつの間にか昇り切っていた月が、眩いばかりの輝きを放っているのだ。


(何ごとだ? これがだというのか……!?)


 目を射る光に目を細める辰蘭が見上げる先で、暗い空を丸く切り取る月の形が、水面に映った影のように揺らめく。どういうわけかさざなみ立つ輝きが、さらに乱れ──袍を纏った人影が飛び出してくる。


 その人物は、整った容姿の若い男だった。先の反ったくつが、辰蘭の目の前を通っていく。月から現れた青年は、滑るように宙を駆けていったのだ。


 立て続けに起きる不可思議な出来事に呆然としながら、辰蘭は恐らくはどうでも良いことを考えた。


(官服、か? だが、当代の朝廷のものではない……?)


 位階を表す補子ほしの意匠に見覚えがないとか、冠の形が古風だとかいうのは些末な問題だ。何しろ、若者が身に着けるものは、冠を留めるかんざしからくつに施された刺繍まで、月のような白い輝きを放っている。


 人間でないのは明らかだとして、邪悪なものにも見えない──それどころか神々しささえ感じるが、果たして見た目の印象を信じて良いのかどうか。辰蘭が迷う間に、今度は皓君が纏う領巾ひれが、彼の眼前に軽やかに舞う。


「皓君! この夜を待っていた……!」

「わたくしも。お待たせして申し訳ございませんでした」


 地を蹴って跳んだ皓君を、若者は宙に浮いたまま抱き留めた。ちょうど辰蘭の目の高さで、恋人たちが熱い抱擁を交わしている格好だ。たいへんに、目のやり場に困る。


「……なんだ。精怪でないではないか」

「だが、人ではなかろう!? 令嬢を連れ去らせて良いのか!?」


 鏈瑣がぼそりと呟いたのは、ある意味ではちょうど良かった。精怪なら喰えたのに、と言いたげな失望に満ちた嘆息は、聞き捨てならないことでもあったし。

 食ってかかるように問い詰めた辰蘭に、鏈瑣は軽く肩を竦めてみせた。


「喰おうと思えば喰えるが──広寒府こうかんふの官だぞ? 喰って良いのか?」

「──は? 広寒府こうかんふ、だと?」

「月の宮殿だ。先生が知らぬのか?」

「知っている、知っているが……!」


 辰蘭が絶句して目を剥いたところに、少し高いところからくすくすという笑い声がふたつ、降ってくる。言うまでもなく、皓君と月から現れた若者だ。鏈瑣の言葉を信じるなら、月の宮殿に仕える官、ということだが。


「我が家の桂花を愛でに、下界に降りてくださったのが切っ掛けでしたの」

「もっと早くに攫っていきたかったのだが、家のためにも親が勧める縁談を無下にはできないというから──万事丸く収まるように奔走してくれたこと、感謝に堪えぬ」


 確かに、伝説では月には桂の大樹が生えていることになってはいる。あるいは、劉家の桂花の見事さは月にまで香りが届くほどなのかもしれないが。そういえば、皓君は桂花の大樹に寄り添っていた、とも確かに聞いた。

 ならば──皓君は桂花などではなく、最初から遥か上空の月を想っていた、のだろうか。見つめ合って抱き合う恋人たちは仲睦まじく、心通わせているように見えるのだが。


(これは……身元確かな者だと言えるのか? 月にも官位があるものかどうか、どの役職にあるのか──聞いておくべきなのか?)


 皓君が攫われていくのを黙って見送った、と報告したら、梓媚しびは納得するだろうか。それとも怒るだろうか。


「皓君は必ず幸せにするゆえ、案じずとも良い」


 月の官だという若者は、辰蘭の困惑を読み取ったように軽く微笑むと、鏈瑣のほうへ視線を向けた。そして、皓君を片腕に抱えたままではあったが、恭しく拝礼する。


「貴方様にこのようなところで拝謁するとは、思ってもおりませんでした」

「要らぬことは口にするな。礼というなら食い物を寄こせ」


 敬意を示した若者に応じる鏈瑣の不機嫌な声は、縄張りを侵された野良猫が唸るようだった。美しい唇を歪めて毒吐どくづかれても、若者は苦笑を浮かべただけだったが。


「お戻りになるのをお待ちしております。貴方様のいらっしゃらない天は暗くて寂しゅうございますから」

「言われずともいずれ戻る。こちらはこちらで楽しくやるし、そちらはそちらでせいぜい盛大に華燭かしょくてんを挙げれば良い──だから、構うな」


 猫と見えたのも一瞬のこと、低く命じた鏈瑣の視線は鋭く、虎や狼の獰猛さを思わせた。思いがけない剣呑さに辰蘭は小さく息を呑んだし、皓君も恋人に縋りついたほどだった。


「寿ぎをいただき、光栄至極に存じます。それでは、失礼させていただきます」


 月の若者も、問答無用、の気迫を感じ取ったのだろうか。再び丁寧に拝礼すると、辰蘭たちに背を向けた。皓君を抱いて、地を蹴るような仕草を見せる──と、ふたりの衣装がふわりと舞い上がる。月の面が再び漣立って、恋人たちを呑み込む。


 そして、瞬きするほどの間に、月は何ごともなかったかのように静かに輝いていた。見渡す限りに人気はおろか人家の灯りも見えない、ひたすら荒涼とした原野の夜が、辰蘭たちを押し潰そうとしていた。月官の若者の眩い衣装が消えた分、闇がいっそう濃く重く感じられたかもしれない。


 そんな闇の中でも、鏈瑣の白い顔は地上の月のごとくに眩しく浮き上がって見えたのだが。

 美しい姿と裏腹な軽薄な調子で、化物は笑う。


「まったく、疲れさせられた。ゆうれい殭屍きょうしでも出たら喰っても良いか」

「ああ。出たら、な」


 短くあしらってから、辰蘭は今度こそ龍淵りょうえんの城壁に向けて歩き出していた。月が出ていてなお夜は暗く、足もとは怪しいが──鏈瑣がついているなら、人も獣も精怪も、恐れる必要はないだろう。


 一歩ずつを探るように踏みしめながら、辰蘭は月官の若者の言葉を思い返していた。まるで、鏈瑣と知己であるかのような。それも、あのように敬った態度で接するということは──


(かつて、ぎょくの国の夜はもっと明るかったという)


 思い出すのは、古い伝説だ。

 夜空にひと際眩しく、不吉な輝きを放つ凶星きょうせいがあったという。しばしば下界に降りては乱を招き民を苦しめたゆえに、極の太祖たいそに封じられたという。以来、凶星が災いをもたらすことがなくなった代わり、空の輝きがひとつ喪われたのだとか。


(皇帝の権威を高めるための創作だと思っていたが──)


 鏈瑣は、後宮に封印されていた。つまりは、皇宮こうぐうの最奥に。ほんらいは厳重に管理されるべき封印が、代を経るごとにその意味を忘れられ、今になって梓媚に発見された、などということは、あり得るのだろうか。


(まさか、な)


 星にまつわる伝説など、縊鬼いきだの樹精じゅせいだのに増して荒唐無稽な夢物語だ。鏈瑣は、妹に押し付けられた騒々しい化物に過ぎない。見目麗しい癖に無神経で騒がしく、無作法で大喰らいの。


 どうせ夢のようなことなら、今少し美しい物語を考えたかった。


広寒府こうかんふというのは──どのようなところなのだろうな。令嬢は、幸せに暮らせるだろうか」


 口に出してみると、それはそれで馬鹿げたことのように聞こえたが、鏈瑣は笑わなかった。彼にとっては、当たり前のことなのかもしれない。


「地上からわざわざ妻を迎えるなど滅多にないことだ。それだけ気に入ったということではないのか」

「そうか」


 先ほど、鏈瑣が若者を喰おうとしなかった理由を確かめられた気がして、辰蘭は頷いた。


「それなら、良かった」


 言葉とは裏腹に、彼の心は闇に呑まれるように重く沈んでいくのだが。


(劉家の令嬢は、何もかもを捨てて愛する男のもとに行った。──梓媚も、そうしたかったのだろうか)


 無論、実家のことは考えたのだろうし、皓君が思いを遂げられたのは鏈瑣という人外の手札があったからでもある。辰蘭もさんざん振り回された。だが、妹が後宮に入るかどうかという時に、彼はここまで奔走することはしなかった。その姿を、梓媚もも見ていたのに。


(そうだ……私も、もっとなりふり構わず足掻くべきだった。そうすれば、芳霞ほうかは私を信じてくれた……?)


 今になって気付いたところで、彼女に問うことはできない。ただ、後悔が胸を苛むだけで。心の重さと痛みに耐えかねてそっと零した溜息は、夜の闇に紛れていった。


 近々、妹としっかり話したほうが良いかもしれない、と辰蘭は思った。

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