第22話 三匹の猫
「はっきり申し上げますが、捜査も進展してないでしょう? 私が調べたところによると、あのオークションに出品されていた宝石の落札者は、あの宝石に加工をすると公表したらしいですね。万が一戻ってきたとしても、所有していた原形ではない。違いますか?」
「仰る取りです」
小夜子が言葉を挟んだ。
「もう良いのです。斉藤には思い入れもあったのでしょうけれど、私は興味も無かったので」
ここまではっきり拒絶されると考えていなかった伊藤は唇を嚙む。
美奈がお茶を運んできた。
ふと藤田が声を出した。
「皆さんはそのまま雇用継続なんですか?」
小夜子が答える。
「いいえ、全ての手続きが終わりましたらこの屋敷も手放します。山中さんには斉藤が保有していた株式をそのまま渡します。千代さんと美奈さんにも、それぞれ相応の退職金をお渡しする予定です」
「小夜子未亡人はどうなさるのです?」
「私は……幼少期に母と暮らした所に移り住む予定です」
伊藤が静かに聞いた。
「どこですか?」
「伊豆長岡の古奈ですわ。狩野川の近くの森に手ごろな土地が売りに出ていたのです」
「温泉地ですか。しかし余生と言うには若すぎる。何か始めるのですか?」
「いいえ、私は静かに暮らせればそれだけでよいのです。余生と言うには確かに若いですけれど、人様より余生が長いというだけだとお考え下さいな」
「エトワールと一緒にですか……」
「ええ、この子と一緒に」
「そう言えばエトワールの腹に傷がありますね」
小夜子がコロコロと笑う。
「まあ! さすがですね。避妊手術をしていただいたのです。子供が生まれても私一人ではどうしようもないですからね。これも引っ越しの準備のひとつですわ」
「なるほど……」
伊藤の頭の中で様々な仮説が組み上がっていく。
これ以上ここにいても仕方がないと判断した伊藤は、意を決するように口を開いた。
「取り下げの件、残念ですが了解しました。ただ、余罪などが出た場合は継続して協力をいただくことになります。引っ越し先の住所や連絡先は必ずお知らせください」
小夜子は声には出さず頷いた。
「私から連絡しましょう。引き続き斉藤小夜子さんの顧問弁護士を拝命しましたので」
橘弁護士が鷹揚に言った。
「そうですか。それでは我々はこれで」
引き下がるしか無かった二人の刑事は、苦虫を嚙み潰した顔でパトカーに乗り込んだ。
「小夜子は黒だな」
伊藤の言葉に藤田が目線を漂わせた。
「どういう方法ですか?」
「猫だよ。やっぱりエトワールの腹に隠して持ち出したんだ」
「そうなると医者が共犯ですか? ああ、植木屋も怪しいか……」
「市場獣医師は小夜子の実家である烏丸家の親戚だろ? しかし血縁があったというだけで交流は出てこなかった。それに小夜子の父親が死んだ後、兄である烏丸一也も死んでいる。死因は肺結核で、死亡届も正規のものだ」
「小夜子は市場医師が親戚だと知っているのですよね?」
「……市場動物病院に行こう」
藤田が運転するパトカーが、急ブレーキを踏んでUターンした。
市場動物病院は、斉藤邸がある代官山から祐天寺に向かう道路沿いにある。目黒川があるので多少迂回する必要があるが、車を使うなら五分もあれば十分な距離だ。
「この時間は休診ですね」
病院の駐車場にパトカーを停めた藤田が伊藤に言った。
「自宅もここだろ? いるんじゃないか?」
藤田が病院の玄関脇にある呼び鈴を鳴らした。
「はぁい」
間延びした若い女性の声だ。
「すみません、池波署の藤田と申します。先生はご在宅ですか」
返事は無く、その代わりに病院のドアの鍵を開ける音がした。
「ああ、刑事さん。お久しぶりですね、先生は今ゴルフの練習に行ってますよ」
「ゴルフ? ああ、近くに練習場がありましたものね」
「ええ、ここからなら歩いて行けますから。多分もう三十分くらいで帰ってくると思います。いつもそのくらいですから」
「待たせていただいても?」
「ええ、どうぞ」
看護婦のユニフォームの上に薄手のカーデガンを羽織った若い女性がにこやかに言った。
「待合室で申し訳ないですが」
もう一人の看護婦が缶コーヒーを二つ差し出す。
「あ……すみません。ありがとうございます」
何がおかしいのか、若い看護婦たちがキャッキャと笑いながら奥へ消えた。
「お前の若さと見た目でいつも助かっているよ」
伊藤の声に藤田が肩を竦めて見せた。
「お褒め戴き光栄です」
そう言いながらふと藤田が真面目な顔をする。
「あの写真……エトワール?」
藤田の声に伊藤が振り向く。
「どうだろう……あの手の猫は違いがわからんよな。エトワールじゃないとしたら……どこの猫だ?」
「植木屋の坂本さんも同種の猫のオーナーって言ってましたよね……くろべえだっけ」
「ああ、そうだ。そんな名前だった。しかし動物ってのは見ただけじゃ性別もわからんな」
二人の会話に、いつから居たのか先ほどの看護婦が割り込んだ。
「あれは先生の飼い猫ですよ。サイベリアンっていう猫種で、黒はとても珍しいんです」
思わず藤田が立ち上がる。
「先生もサイベリアンのオーナーなのですか?」
「ええ、それこそ先ほどお話しに出た坂本くろべえちゃんの子供です」
伊藤と藤田が顔を見合わせた。
「何歳ですか? まだ生きてます?」
伊藤の声に看護婦がムッとした顔をした。
「もちろん生きてますよ。今年で五歳になりました。とても美しい猫ちゃんです」
「名前は?」
なぜそこまで喰いつくのかと、戸惑う看護婦。
「ノワールです。フランス語で黒っていう意味だそうです」
「会えますか?」
看護婦が目を見開いた。
「それは先生に聞いてください」
三人の後ろでガチャリとドアが開く音がした。
「お待たせしました」
診察室から顔を覗かせたのは、この病院の院長である市場正平だった。
もうすでに何度か顔を合わせているのだが、小夜子の親戚だと思いながら見ると、目元などがよく似ているような気がする。
「すみません、休憩時間に」
伊藤が笑顔を浮かべてゆっくりと立ち上がった。
市場がひとつ頷いて、そのまま着席を促す。
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