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M06

珍客きたる

8月3日

8月3日 #1

 一歩踏み出した素足が何かを踏んだ気がした。

 ほんの一瞬、全神経がそこに集中してすぐに拡散し、刹那的な緊張感は溜め息にすり替わって口から漏れていった。

「……クソ」

 ヨガの『木のポーズ』みたいな角度に右脚を曲げて足の裏を覗くと、奇妙に捩れたゼムクリップの先が母趾球のど真ん中に刺さっていた。カーペットの毛足に紛れてやがったんだろう。先日までここに滞在していたヤツが、鍵をとでもしたのかもしれない。

 クソ、ともう一度吐き捨ててクリップの残骸をゴミ箱に放り、ベッドの上に放り出してあったシーツのパッケージを乱暴に開封する。

 洗濯機を回そうとしたら突然ぶっ壊れていて、しかもこんなときに限ってシーツのスペアがないもんだから、急遽ホームセンターまでクルマを走らせた。が、そこは、行けば行ったで何かと目について思わぬ買い物をさせられる魔境だ。

 おかげで大幅に予定が狂ってしまい、掃除機のかけ方も雑になってクリップが足に刺さった。洗濯する時間なんか昨日までにいくらでもあったのに、やろうと思うたびに明日でいいやと順延してきたツケがこれだった。

 とにかく、次の『客』がやってくる予定時刻が迫っている。手早くベッドメイクを済ませて、時刻を見ようと尻ポケットからスマホを抜き取ると同時にソイツが震えはじめた。画面にメッセージのプレビューが浮かんでいた。

 短い文字列を一瞥して部屋を出て、半地下のガレージに直結するドアを開ける。目の前に、見知った顔が長身美女と並んで立っていた。

 真夏だというのに、女は黒無地の長袖ワンピース。ふくらはぎまで覆う裾から下の足もとは、これも暑苦しい黒のショートブーツ。ヒールは大した高さじゃない。

 にもかかわらず、隣に立つ男よりも明らかに上背がある。見慣れた坊主頭のほうは百七十センチ台後半のはずで、現在、彼らの身長差はおよそ十センチ。つまりヒールの高さをマイナスしても、女は百八十センチほどになる計算だ。

 モデルか、スポーツ選手か。手足がすらりと長く、ストレートロングの黒髪が冷ややかに整った造作ぞうさくをこれでもかと引き立てている。

「よォ、サク。今日もくたびれた顔してんなぁ」

 坊主頭のほうが砕けた口ぶりを寄越した。メタルフレームの眼鏡をかけ、縹色の作務衣に草履をつっかけた男——室町むろまちいおりは、外観や姓名が古風というだけじゃなく正真正銘の坊主だった。

 幼稚園にはじまり、三十年来のつき合いとなる腐れ縁が実家の寺に入って、はや数年。僧名は『庵里あんり』などという和風なのか洋風なのかが判然としないネーミングで、現在では副住職を務めていた。

「今日もじゃなくて、今日はな。急に洗濯機が壊れて……って、まぁいいや」

 それより今回はまた、随分と綺麗どころを連れてきたじゃねぇか? そう出かかる声を飲み込んで女を見ると目が合った。

 肚の裡を窺わせない眼差し、ぞくりとするような美しさ。肌の肌理きめや陰影から受ける印象は、自分たちより少し若いくらいか。やたら端麗な顔立ちは、もはや色気がどうとかよりも、ひたすらユニセックスなマネキンじみた無機質さに満ちていた。

 生きてんのか——?

 眼球以外はピクリとも動かない顔面を一瞥して、桐島きりしま朔久さくは思った。──コイツはひょっとして、葬式の棺桶から拝借した死体に魂を吹き込んだ生ける屍アンデッドなんじゃないか?

 愚にもつかない疑念を嗅ぎ取ったのかどうか、室町が意味ありげに唇をニヤつかせて軽い口調を投げてきた。

「じゃ、よろしくな」

 旧友がそれだけ言って姿を消したあと、桐島のもとにはマネキンと沈黙が忘れ物のように残された。

 まぁ、どんなに薄気味悪かろうが、いつもと同じように対応するだけだ。

 顔のひと振りで女を屋内なかに入れてドアを施錠する。ついさっきスタンバイが完了したばかりの『客室』へ引き返す間、もちろん会話はなかった。

 部屋に入ると、彼女は入口のあたりで足を止めてゆっくりと目を巡らせた。これから数日、下手すれば数週間を過ごすことになる環境をAIでチェックでもしているんだろうか? ——つい、そんなふうに勘繰ってしまうと風情。左手に提げた小ぶりのボストンが、これまたユニセックスなデザインの黒革で、チラリと見えた高級ブランドのロゴもあってか、マネキン然とした佇まいをさらに助長していた。

 桐島は事務的な説明やサニタリースペースの案内をさっさと済ませ、晩メシの時間を告げて部屋をあとにした。

 これまで泊めた中でダントツすぎる容姿に少々調子を狂わされたけど、女が何者でどんな事情があるにせよ、自分の意志でやってきた客は手がかからなくていい。



 東京都練馬区——二十三区のうち北西の端に位置する区内でも、さらに少し歩けば埼玉県という境界エリアの某所。そこかしこに農地が残り、公園は広く、家々の敷地も都心とは比較にならない余裕がある。

 そんな長閑な住宅地の一角に建つ年季の入った一軒家は、こぢんまりとした庭を持つ二階建てで、ガレージにはコンパクトカーくらいなら二台まで駐車が可能だった。

 三年前、長年ひとり暮らしをしていた母親の他界を機に、桐島はこの実家に戻ってきた。それまで住んでいた新宿御苑の賃貸マンションとは比較にならない延べ床面積は、狭苦しい1Kに馴染んだ身体には未だにどこか心許ない。

 が、せいぜい二十五平米やそこらの専有面積に毎月十数万円も払い続けたなんてどうかしていたと自分でも思うし、職場まで遠くなったことも大して影響はなかった。

 生業とするDTPデザインは、名ばかりのアートディレクター職に就いてからというもの、自分がやるべき仕事がめっきり減ってしまった。

 小規模な事務所であっても若い戦力たちは優秀で、営業兼務の社長が取ってくる案件を捌くには事足りる。結果、桐島は出勤の意義と反比例して在宅日数が増え、都心に住み続ける意味がなくなった。

 現在、出社は週一回。以前の五分の一日だけ早起きと満員電車に耐えれば、コスパの悪い家賃を払う必要もない。しかも会社がテレワークシステムなんてものを導入していないから、作業やオンラインの打ち合わせがない日は実質フリーだった。

 おかげで、副業のためにホームセンターまでひとっ走りもできる。——いや、無償だから副業というよりボランティアか。

 桐島が実家に戻った三年前、人づてに聞いたと言って室町が訪ねてきた。

 小、中、高校と進むにつれて少しずつ疎遠になっていった幼馴染みは、大学以降は年単位のスパンで連絡を取る程度の関係が続いていた。

 それでも旧友が地元で坊主になったことは知っていたし、引っ越しのゴタゴタが落ち着けば連絡するつもりではあった。たまたま室町のアクションのほうが早かったというだけだ。

 満開の桜が散りはじめていたその日、ピンク色のパーカーに紺色のジャージ姿でふらりと訪ねてきた眼鏡坊主は、数年のブランクなんか度外視の口ぶりでこう言った。

「よォ、サク。しばらく見ない間に随分とくたびれた顔になってんなぁ。だから言ったろ? 山手線の内側なんかで暮らすもんじゃないって」

 言われた記憶はこれっぽっちもなかったけど、面倒だから曖昧な相槌を返しかけたとき、一瞬早く室町の声が続いた。

「なぁここ、お前ひとりなら部屋余ってるよな? 俺に貸してくんないかな。ついでに、部屋だけじゃなくて手も貸してくれると助かるんだよなぁ。謝礼は特に考えてないけど、お前が死んだらタダで葬式やってやるからさ」

「──」

 桐島の脳内には、言いたいことと訊きたいことが山ほどあった。

 が、ひとまず呑み込んで、もっともな疑問をひとつだけ口にした。

「何のために?」

「いやちょっと、生き物を預かってもらおうかなと」

「もしかして、寺で保護動物のボランティア活動でもやってんのか? 犬とか猫の」

「んん……まぁ近いっちゃ近いし、確かに保護動物ではある」

 友人は宙に投げた目をこちらに戻すと、軽く肩を竦めてみせた。

「犬猫じゃなくて、迷える子羊だけどな。要するに人間だよ」

「室町——」

 少し考えてから桐島は言った。

「俺は宗教は詳しくねぇけど、迷える子羊ってのはジャンルが違うんじゃないのか」

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