4-5
ロバートたちとナゼールの間に、『それ』が立っていた。
──蒼い月光を浴びて、浮かび上がる影。
焦げ茶色の髪が風に靡く。その先端は、落ちた闇よりも深く染まっている。
浅黒い肌が蒼星の光を受け、濡れたように艶めく。
流衣の下で引き締まった肢体の曲線が浮かび上がる。
──ロバートの呼吸が止まる。
目の前の姿は、彼の記憶に深く刻まれたものと寸分違わなかった。
それは、あってはならないモノ。
それは、在るはずのないモノ。
それは──最愛の。
「……ねえさん」
ロバートの掠れた声に、女はゆっくりと首を傾けた。
まるでぜんまい仕掛けの人形のように。
不自然に、かくかくとした動きで。
女は微笑んだ。懐かしく、優しい笑顔。
だが、その口元がわずかに歪み、黒い液体が滲んだ。それは糸を引きながら石畳に落ち、白い泡を立てる。
セリカは荒い息遣いの中、ロバートのただならぬ様子に目を向けた。視線が女へと移ると、一瞬、息を呑んだ。
「ルシリアさん……?」
その声は、信じがたい光景に震えていた。それはセリカがロバートの記憶の中で出会った少女だった。
白く煙る地面に、女の裸足がそっと降りる。その足跡には黒い液体が滲み、じわじわと石材を侵食していった。
しなやかな指先が、虚空を撫でる。
『見つけた』
金属を擦るような音が、意識の奥に突き刺さる。
声ではない。言葉ではない。
それはロバートの思考に直接、染み込んできた。
『私のかわいい、かわいい弟』
女の唇は動かない。
それでも、囁きが響く。
微笑みを湛えた顔は凍りついたまま、不自然に傾いた首がゆっくりと戻る。
それに合わせるように、身体がぎこちなく回転した。
蒼星の光を受けて光輝く瞳。それは翡翠色の瞳、星の瞳。
だが、その奥は濁り、抑えきれない渇望が潜んでいた。
言葉を失うロバートの背後で、ナゼールの声が鋭く響いた。
「ロバート! 何を見ているか知らないが、そいつは『まがい物』だ! 見た目に騙されるな!」
影の術式を維持しながら、天竜種を押さえ込んでいる。
「こいつは『獣』の因子を宿した
だが、ロバートには違いが分からなかった。
目の前にいるのは──紛れもなく
ロバートの知るルシリア・L・ウェンロックの姿、そのままの──。
鎧が軋む音が響いた。
いつの間にか、ジャービルが槍を構え、ロバートと女の間に立ちはだかっていた。
「動くな」
低く冷たい声。
その背中には汗が滲んでいるが、槍の穂先は微動だにせず女の喉元を狙っていた。
鎧の下、わずかに強張る筋肉。呼吸すら正確に制御されている。
セリカは後ずさり、崩れた石壁に背を預けた。星の息吹が枯渇した身体はふらつき、壁に寄りかかることでかろうじて立っている。微かな震えが全身を走る。
ナゼールがセリカを見つめた。額から滴る汗を拭おうともせず、問いかけるような眼差し。
しかし、セリカはわずかに首を振る。金糸色の髪が肩で揺れた。
女は槍を喉に受けながらもなお、ゆっくりと前へ進んだ。その歩みは蛇のようにしなやかで、流衣の布が揺れながら肉体の起伏をなぞる。
ジャービルの槍が深く突き刺さる。だが──女は微笑み続けていた。
『ロバート、話をしましょう』
槍の穂先が首を裂いたまま、女は静かに言葉を紡ぐ。
緑がかった黒い体液がとろりと零れ、石畳をじくじくと侵していく。
ジャービルの鎧が微かに震えた。槍を握る指から、力が抜けていく。
「化け物が……」
それだけが、絞り出せた言葉だった。
女は槍を押しのけるでもなく、流水のようにすり抜けていく。黒い水溜りを点々と残しながら、ロバートたちへと歩を進める。
『ふふ、神代の匂いを
「待て!」
ジャービルが声を張り、女の肩に手を伸ばした。
その瞬間、焼けつく激痛。
「ッ……!」
手を引くと、小手の布地が腐食していた。裂けた隙間から、生身の手が覗く。血が滲み、火傷のように赤く爛れていた。
「悪い子、おしおきが必要ね」
嗄れた声が響いた刹那、風が裂ける。女の腕が横へ薙ぎ払われていた。
ジャービルの身体が宙を舞う。まるで巨人に叩きつけられたかのような衝撃。
灰色の鎧が弧を描き、瓦礫の山へ叩きつけられた。石片が雨のように降り注ぐ。
塵の向こう、女は蛇のような動きでロバートへと歩み寄る。その軌跡には、黒い腐食の痕が点々と続いていた。
「ロバート!」
掠れた声が響く。
「ルシリアさんは……
ロバートの喉が痙攣するように震えた。ひどく渇く。
生命の色とは、体内に残留する星の息吹のことだ。体内に留まり、その個体の性質にそまった星の息吹のことだ。
「分かっている……分かっているんだ。でも、目の前にいるのは、間違いなく姉さんの……」
瓦礫の山から、鎧の軋む音が響く。ジャービルが歯を食いしばり、全身を震わせながら立ち上がろうとする。
「ロバート、あれはお前の姉じゃない、俺たちの知っているルシリアじゃないんだ!」
『さて、誰が本物で誰が偽物なのかしら』
女の声が意識を突き刺す。すり足のように静かに、肢体を艶めかせながら近づく。黒い液体が首から零れ、甘い香りを帯びた瘴気が滲む。
『ねえ、覚えてる? あの日のこと』
ロバートの瞳がわずかに揺らいだ。
女はゆっくりと腕を上げ、まるで愛おしい者を抱くような仕草を見せる。
『あなたをここまで守ってきたのは、誰だと思う?』
微笑んだまま、女は手を差し伸べた。
その指先は異様に白く、しかし爪は漆黒に染まっている。
「っ……」
ロバートの喉が詰まり、言葉にならない声が漏れる。
目の前の彼女と、記憶に残る清らかな微笑み──その
『ふふ、怖がることはないわ』
女は一歩、また一歩とロバートへ近づく。
その動きには、人ならざるもののしなやかさがあった。空気が粘つくように重くなり、甘い香りが絡みつく。
『早く……私の中へ……永遠に一つになりましょう?』
囁きが耳ではなく、頭の中に直接響く。次の瞬間、彼女の口元から黒い雫がとろりと零れた。
『ねえ……もっとよく見て?』
首筋に開いた傷口からも、同じ黒い液体が溢れ出している。
『この火照る身体は、全て、あなたのために用意したの』
流れる体液が、布地をじわりと染める。
『そんな顔しないで……ほら、私の声が……あなたの奥に響いてるでしょう?』
耳を塞いでも意味がない。声は、思考の奥底へと絡みつく。
「やめて……」
セリカの声が掠れたが、女は聞こえなかったように進み続ける。
『もっと……近くで……』
女は影のように音もなくロバートへ歩み寄る。口元から零れる黒い体液は、石畳へと落ち、蒼星の光を受けて不気味な輝きを放ちながら白い泡を立てて石材を溶かしていった。先ほどまでの傷跡は跡形もなく消え失せ、その肌には生命とは異なる艶が宿っていた。
『ロバート……私の声が聞こえる?』
体が大きく歪み、肌の下で何かが蛇行するように動く。黒い体液は石畳を侵食しながら、その量を増していく。
『私も……止めたくて……でも、止められなくて……村が……村が燃えて……』
体が大きく歪み、肌の下で何かが蛇行するように動く。しかし、その瞳の奥には何の感情も宿っていない。ただ底なしの深淵が、まるで全てを飲み込もうとするように広がっているだけだった。
「もう……やめて……」
セリカの掠れた声が響く。しかし、女の不気味な変容は止まることを知らず、その姿は更なる狂気の色を帯びていった。
『小さい頃、よく手を繋いでいたわね……覚えてる?』
指先がロバートの顎に触れようとした瞬間──眩い閃光が走る。黒い指が何かに弾かれたように宙を舞い、女の表情が一瞬で歪んだ。ロバートの胸から迸った翡翠色の光は、まるで
『ああ……! 忌々しい光が……!』
艶めいていた微笑みは一瞬で消え失せ、瞳は獣のように赤く染まった。白い歯が牙のように尖り、喉から獣じみた唸り声が漏れる。
『そう……あなたね』
砂を噛むような低い声は、もはや人の声とは思えないほどに歪んでいた。引き
女の視線は次にセリカへと向けられた。今や翡翠色の瞳は獲物を捕らえた獣のように揺らめき、その中には限りない飢えだけが渦巻いていた。ゆらりと身体を起こすと、その姿は蒼星の光を吸い込むように黒く歪んでいく。
「近寄るな!」
ロバートの声が虚しく響く。セリカを守ろうとして一歩踏み出そうとするが、彼の足は震え、その場に崩れ落ちた。女はもはやロバートの存在など眼中にない。
『うふふ……あなたなのね? 私から全てを奪った子は……』
女の身体が波打つように揺らめき、その輪郭は闇に溶けるように不定形となっていく。蒼星の光の下で、黒い体液を滴らせながら一歩ずつセリカに近づく。その足跡には白い泡を立てる水溜りが点々と続き、石材を腐食させていった。
「は、なれ……て……」
セリカの声は震えていた。疲労で力の入らない身体は、ただ壁に寄りかかることしかできない。女の体は歩むたびに形を変え、ところどころで内なる闇が透けて見えるほどに歪んでいく。
『あなたに……私の心が分かる?』
女の声は甘く、優しく、しかし底知れない渇望を宿していた。
『この飢えも……この渇きも……全て、あなたのせいなのよ』
女の声が次第に歪み始める。その身体からは黒い靄が立ち上り、蒼星の光を飲み込むように広がっていく。歩みを進めるたび、石畳は泡立ちながら溶け、その跡には漆黒の水溜りが残されていった。
『可愛い子ね……ロバートの力……もとはあなたが持っていたものね?』
女は片手をセリカの頬に添えた。その接触部から白い煙が立ち上る。
「っ……ああっ!」
すでに裂かれた衣服の隙間から、女は首筋へと指を滑らせた。その指先からは黒い体液が零れ落ち、皮膚に触れた瞬間から赤い痕が浮かび上がり始める。
『印を刻む場所は、ここね……』
女の指が鎖骨の下を這うように動く。裂かれた衣服の隙間から覗く白い肌に、黒い体液が滴り落ちる。その体液は皮膚の上を蛇のように伝い、触れた場所に赤い痕を残していく。
「くっ……!」
セリカの肌には次第に蛇行するような赤い文様が浮かび上がっていく。まるで生きた呪印のように、その痕は脈動を打ちながら広がっていった。
『さあ……命を頂くわ』
セリカの刻まれた呪印から、黒い靄が立ち上り始めた。女は首筋に描かれた紋様に唇を寄せ、まるで生命を啜るように靄を吸い込んでいく。
「や、め……」
唇が触れた場所から、赤い痕が根を張るように広がり始める。まるで血管が浮き上がるように、その痕は不規則に蛇行しながら周囲の肌を侵食していく。触れられた場所から、セリカの肌は病的な白さへと変わっていった。
女は片手でセリカの金糸色の髪を掴み上げ、もう片方の手で蝋のように白い顎を掴んだ。力なく項垂れた顔を持ち上げると、セリカの唇から透明な靄が漏れ出す。
ゆっくりと──女の唇が近づいていく。
セリカの意識が遠のく。その瞳は力なく閉じかけた。
その時。
ロバートは音を聞き逃さなかった。瓦礫と煙に包まれた街の向こうから、確かな鳴き声が届いていた。
「ホォーーーーン」
長く伸びる音は、紛れもなく
力を失ったセリカの視界が、かすかに焦点を結ぶ。女とセリカの上に、巨大な影が覆い被さっていた。
轟音と共に地を揺るがす衝撃。巨大な三趾の脚が閃光のように伸び、その爪先は女の胴体を真っ二つに貫いていた。
ラケルタは勢いを止めることなく、爪を引き抜くと同時に尾を振り上げ、女を崩れかけた建物へと叩きつけた。石材が軋むような音を立て、建物の輪郭が大きく歪む。そして、女の体が外壁を打ち砕いた衝撃で、建物は内側から崩れ始めた。
一瞬の静寂──しかし次の瞬間、積み上がった瓦礫が爆ぜるように四散した。
大量の黒い体液を胴の穴から吹き出しながら、女が立ち上がる。三趾の爪が貫いた跡は大きな風穴となり、その穴からは止まることなく黒い体液が溢れ出している。だがその姿は歪な生命力に満ち、翡翠色の瞳は獲物を捕らえた獣のように輝いていた。
女は四つん這いの姿勢で地を這うように身を屈め、セリカに向かって飛びかかろうとした──その刹那。
黒い影が蛇のように伸び、女の四肢を絡め取っていく。瓦礫の陰から、壊れた建物の隙間から、石畳の継ぎ目から、無数の影が這い寄る。しかし女が身を捩ると、影と共に石畳が捲れ上がり、瓦礫までもが宙を舞う。影は女を縛り付けようと這い寄るが、その度に地面ごと引き剥がされていく。
「ここはあたしに任せな!」
ナゼールの低い声が響き、杖を軽く振るった。
「ラケルタ! あんたのご主人をつれていくんだよ! そこのお嬢さんもな!」
「セリカ!」
ロバートは駆け寄り、力を失ったセリカを支え上げる。ラケルタもまた素早く近づき、長い首を下げて二人の前に立ちはだかった。
「掴まれ!」
ロバートの声にセリカが弱々しく頷く。ロバートは片手でセリカを支えながら、もう片方の手でラケルタの手綱を掴んだ。慣れた動きで鞍に飛び乗ると、セリカを前に座らせ、しっかりと支える。
「洟垂れ! 受け取りな!」
ナゼールは巻状の手紙をロバートめがけて放り投げた。手紙は風を切って回転し、ロバートの掌に収まった。丹念になめされた羊皮紙は薄く透けるほど繊細で、深紅の封蝋が施されている。
「今から転移門を開く!」
「なんだそ──」
ロバートの言葉は途切れる。ラケルタはすでに走り始めていた。ロバートは前のめりに倒れかけるセリカの腰に腕を回し、しっかりと前に座らせる。
ラケルタの背後、影を引き千切るように、女の腕が伸びてくる。胴の穴から黒い体液を噴き出しながら、その指先は鋭い爪となってラケルタの尻尾に迫る。
「こいつめ!」
ナゼールの杖が再び閃く。石畳が波打ち、そこから宙空に円盤状の影が現れた。それは地面から一尺ほどの高さに浮かび、まるで水面のように揺らめいている。その向こう側には別の場所が見えたが、円盤の外周に近づくにつれて映像は歪み、闇と光が混ざり合うように霞んでいた。
ラケルタは一瞬、足を緩めた。鏡鉄鉱の瞳が不安げに円盤を捉え、首の筋肉が強張る。目の前の異界への入り口は、走竜種の本能的な警戒心を呼び覚ましたのだ。
「飛び込みな!」
ナゼールの声に、ラケルタの瞬膜が三度、素早く開閉した。しかし背に乗せた主の重みと、セリカの命の重さが、その躊躇いを打ち消した。
黒い体液を撒き散らしながら、女の手がラケルタの尻尾まであと僅か──。
「ロバート! ここは俺たちに任せろ!」
ジャービルの声と共に、銀色の光が迸る。投げ放たれた槍は、空気を震わせながら、女の胴を再び貫いていた。
「ぐっ……!」
黒い体液を豪雨のように噴き出しながら、女の体が大きく後ろへ跳ね、その手がラケルタの尻尾をかすめる。
「行くぞ!」
ロバートの声と共に、ラケルタは鋭い鉤爪で石畳を蹴り上げ、影の円盤へと飛び込んだ。裂かれた白い鱗から血が零れ、石畳に紅い軌跡を描く。
黒い体液を撒き散らしながら伸びた女の手は、次の瞬間、転移門が光の粒子となって霧散し、空を切っていた。
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