黒ノ翼

黒崎蓮

プロローグ:悪魔を捕まえた日

 彼女のその一歩を遅らせたのは自分だったと、今でも音無透夜は思っている。

 肌を刺すような冷たい冬の日。

 校舎の屋上、フェンスの淵に器用に立って、彼女はぴたりと静止していた。

 夜空色のセミロングの髪に、この建物に所属する者―すなわち中等学校の生徒だということを示す制服を身に纏った少女。

 あと一歩を踏み出せば、彼女は間違いなく死ぬ。

 高さ二十メートルから落ちれば、中学生の身体なんてガラス細工のように粉々に砕けてしまう。

 それは何としても避けたかった。

 自ら身を投げようとする人を放ってなんかおけないという、そんな大層な理由からではない。

 彼女だから、呼び止めたのだ。


「自殺は罪だって、学校で習わなかったのかい」


 透夜はいたって機械的に彼女に問う。

 闇夜色の外套、そしてフードの奥から同じ色の瞳を彼女に向けながら。

 この世界――いや、この‘社会’は、そういうことを無意識レベルまで刷り込んで教えているはずだ。

 人は暴力ではなく話し合いで問題を解決していける。

 愛は世界を救う。

 家族は特別な絆で結ばれている。

 努力は必ず報われる。

 人を殺してはいけない。

 いつかどこかで誰かが、自分を必要としてくれる。だから生きることを諦めてはならない――自分を殺してはならない。

 そんな‘正しさ’や‘理想’を、この‘社会’の住人は、意識が生まれる前から知っているはずだ。

 けれど。


「だって、そんなの……」


 そんなの、ぜんぶ嘘だよ。

 けれど彼女は言った。

 とても悲しげな、とても儚い笑みを浮かべて。

 眼尻に、眩い雫を浮かべて。

 背後に映る夜の街並みが、カラーボールのように彼女を照らすけれど、その笑みと雫の輝きはなぜか、透夜には何にも増して眩しかった。


「……その通り。よく見抜いたね」


 そしてゆっくり時間を置いて、確信を持ってそんなことを語り掛ける。

 機関の‘探索者’が事前に情報を教えなくても、透夜には彼女がどういった存在か分かる自信があった。

 ‘抹消者’たちの監視者ウォッチャーとして、同種の人間を見てきた透夜には見えたのだ。

 彼女の瞳に映る絶望とあきらめと――無数に存在する‘世界’という異常の一つが。


「この‘社会’は偽物だ。国も文化も言葉も精神も、そして心さえも、作られたものだ。でもだからこそ、きみが今打ちひしがれている悲しみも苦しみも、偽物だ」


 透夜は言って、フードを脱ぐ。

 見計らったかのように雲間から顔を出した銀色の三日月が、その顔を照らす。

 切れ長の目にはめ込まれた、透き通った夜色の瞳。宿る光は鋭かったが、顔立ちのせいでまだ幼さを隠せていない。

 癖のある黒髪は、雨に濡れた後のような艶があった。


「だから、僕たちの‘世界’においで。こっちならきみの居場所はある。きみが本当の意味で、きみでいられる場所を、本物を、僕たちは提供できる」


「……」


 差し伸べた手の先にいる少女は、震えていた。

 本物という言葉に、視線も、その足も震えていた。

 あと一歩、前へ踏み出すのか、後ろへ引き返すのか。

 死か、生か。

 二人の間に、冷たい風が流れる。遠くの喧騒も、風の音も、すべてが二人を包む張り詰めた沈黙に吸い込まれていく。


「……みんなそうやってわたしに近づいて、結局最後は拒絶するんだよ」


 長い沈黙の後、少女の答えは唐突に決まったようだった。

 いや、もはや何が起きても変わらなかったのかもしれない。

 彼女は足を踏み出した。

 一歩先の死へ。

 これで楽になれる。

 わたしはわたしを拒絶した嘘の世界の中で、消えていく。

 そんな声が透夜に聞こえた気がしたが、今度は止めようとはしなかった。

 止める必要が無かったのだ。

 そして少女も、自分のたった一歩が失敗したことを悟った。

 この一歩を踏み出すことをあらかじめ決めていたように、少女にもこの一歩が失敗することを、心のどこかで分かっていた。

 震えた心が、強く求めていたから。

 まだ生きていたいと。

 まだ飛ぶべき空があると、強く訴えていたから。


「――タイプ・ビースト。‘黒ノ翼’。異能者と断定」


 少女は背後で、機械的な男の声を聞く。

 振り返ればそこには、自分が何よりも嫌う自分の一部があった。

 自分を死ここまで追いやった翼。

 自分を死ここから救った翼。

 背中から生えていたのは異形の、漆黒の翼。

 三日月を背後に、黒い翼で浮遊する少女。

 今、地上の人が彼女のことを見たら、間違いなく‘死神’と呼ぶであろうシチュエーション。


「――クロハ」


 少女は背後で、男の声を聞く。

 その声に、久しく感じていなかった温かさを感じた。


「‘黒ノ翼’クロハ。これが今日からの、きみの名だ」


 クロハ。

 安直な名前だけど、なぜか妙にしっくりくる名前だ。

 そんなことを思った時には、少女は自分の元の名を思い出すことができなくなっていた。

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