第37話 通れない廊下
アキの遅刻はそれほど珍しいことではない。
誰も咎める者はいない上、環も一々言及しない。それでも今日は環が疑問に感じるほどアキの到着が遅れていた──時刻にして四十分だ。
部屋の入口で荒々しく扉を開け、息を切らしているアキの姿を思わず二度見する環。彼女が寝坊することは珍しくないのだが、その場合はここまで焦って仕事場に駆け込んでこない。何とも図々しく、それでいてゆっくりとやってくる。
珍しいこともあるものだ。
「何かあったのか」
「何かじゃないですよ。先輩こそどうして無事にここへ辿り着くことが出来たんですか?廊下を見なかったんですか?」
アキは荒い呼吸を整えながら、思い出したように扉を閉める。
普段通りに来ればいいではないかと言いかけるもマイペースな彼女がここまで慌てているのだから何かしら事情が有るのだろう──心当たりが無いわけではないが、彼女の性格を考えると何か聞いてやらないと執拗に話しかけられる。
環が一先ず何があったのかと尋ねるとアキは質問を待っていたと言わんばかりに瞳を輝かせ、疲れなど忘れたように早足で自席に腰をかける。
そうして前のめりの姿勢で環に経緯を語り出した。
「廊下なら普段通り歩いてきたが」
「先輩も寮から来てるんですよね?確かに地下の寮からこの部屋に辿り着くまでまっすぐは歩けないですし、エレベーターだって直通じゃないですけど。私はこれでも道はきっちり覚えたはずなんですよ」
最近は寝坊以外で遅刻してないでしょう。
何処か誇らしげなアキに環はやや呆れ気味に話の続きを促す。
彼女の言う通り、この施設は複雑な構造をしている。従業員の居住スペースにあたる地下の寮から各々の職場に向かう道のりは複雑だ。初日にアキが社員に渡された地図を見ていたというのも決して大袈裟な話ではない。
直進できない、というのは一つのフロアに複数の通路が存在すること。とはいえ全てのフロアで通路と部屋の配置が同じということはない──これに関しては自分に必要な部屋とそこに至るまでの道のりだけ覚えていればいいのだが。
そしてエレベーター問題──例えば十階に用があるとしてエレベーターによっては行ける階に制限がある。地下から三階まで移動したとして、また五階の中を歩いて十階まで行けるエレベーターまで移動しなければならない。
これも暗記でどうにかなることだ。何度も同じ仕事場に通っていれば寮から仕事場までの道ぐらいは嫌でも頭に入る。実際アキも入っているからこそ「珍しく」遅刻をしたのだろう。
──そうなると思い浮かぶ遅刻の要因は限られてくるものだ。
「通行止めですよ。何ですかあれは。工事でもしてるんですか?」
「隔壁を見たのか」
「ええ、そうです。擦れ違った社員の方に聞いたら邪険にされたっていうか、その人も急いでたみたいで詳しいことは分からないんですけど」
やはりそうかと環は頷いた。
アキは大袈裟なジェスチャーを交えて自分の行く先に、普段通っている廊下が分厚い壁で塞がれていたことを目一杯に表現する──環はそれを知っていたからか特に驚くことはしなかった。それほど多いことではないが、長い事勤めていれば遭遇することもある現象である。
また社員が彼女をまともに取り合わなかったことにも納得がいく。何処の所属であったとしても事情を知っていれば封鎖された区画の傍に長居したい人間は早々いないだろう。もっともアキの目にはそれが迂回を余儀なくされ苛ついている様子に映ったようではあるのだが。
「普段通り静かだったし、きっと工事じゃないと思うんですよね。社員の方も『今急いでるの。それどころじゃないのよ』って言ってましたし」
「それは災難だったな」
「先輩がここに来る時は廊下とか封鎖されてなかったんですか?私の時はエレベーターが何台か止まってて、一部パスワード制に切り替えられててパニックになりましたよ」
「俺の所は無事だったな」
アキの質問に環は頷く。自分の時は何処も封鎖などされておらず、普段使っているエレベーターも稼働していた。
環には心当たりがある──というよりかはこの施設の日常なのだ。どういった要因でどの道が閉ざされているかというのは必ずしも同じではない。今日は偶然アキの使うルートが封鎖されていただけだ。一々話題にしないだけで環もこれまでに何度も彼女のように迂回させられている。ある程度キャリアの長い従業員であればこの現象を「ああ、またか」と受け入れ、面倒な遠回りに舌打ちの一つでもする程度であろう。
パスワード制への変更に関しては同意せざるを得ないが……これに関しては環も一回社員に面倒な仕様はやめるよう直談判したことがあるのだ。何度か強めに頷いた
納得のいく回答を得た自分でもこれに関しては面倒極まりないと思う。
」
「それで、この面倒な通行止めの理由はなんだと思います?……ああ、言わなくていいですよ。どうせ話したくないと言うんでしょうし」
「そういうわけではないんだが」
「異星人の襲撃が遭ったとか、変なウイルスでもばら撒いたとか……色々考えてみたんですけど。そういう突発的なトラブルにしては慣れすぎている印象を受けたんですよね。移動する人達の様子もそもそもの隔壁やエレベーターもこれを見越してのことじゃないですか?」
失敗例がないとそれをケアする発想は生まれないじゃないですか。そして理由無しに障害を作ることだってないんですよ。
──ごもっともだ。
アキは腕を組み、背もたれに凭れかかりながら小さく唸っている。普段から要らないことに頭を使っている方だとは思うが、今日は普段以上に考え込んでいる様子だ。
観点としては非常にいいと環は思う。異星人絡みであればそもそも避難勧告が来ているだろう。そして都会の人間の大半はパニックの一つも起こすことがない。ウイルス……というのは些か映画の観過ぎと思わなくもないが、観点としてはあながち間違ってはいない、というのが環の評価であった。
「結論を言わないと気持ち悪いですね」
「そうだな」
「私達の仕事でも散々危険な物と鉢合わせしてきましたよね?そういうことが外でも起きているんじゃないですかね。或いは異星人を飼っているとか、要因はいくらでも考えられますけど。警備職員の存在とかあからさまにきな臭いじゃないですか」
長い時間同じ職場にいると、職場の欠点が可視化できるようになる……というのは何も環だけの話ではないようだ。かつて共に仕事をした前任者もアキと同じことを言っていた。判断材料という名のピースを集めるのにそれほど時間はかからないらしい。ここにいれば、誰でもいつかは辿り着く結論である。
アキの推測は概ね正しい。正解に程近い。環も初めは理解出来なかった。
敵性兵器の影響を受けた事物を蒐集するなど正気の沙汰ではないのだ。気の狂った資産家が趣味でやっているというのなら未だしも、一企業が事業としてそれを行っているのだからどうしようもない──表向きにはリサイクル事業。更に言えば敵性兵器に汚染された物体の回収事業。そして危険性の排除と安全性の確保、その研究。
危険がいつでも横たわっている環境下であれば、この企業が手を付けずともいつか誰かが始める事業ではあっただろう。
必然であったとはいえ実際に巻き込まれると狂っているとしか言いようがない、というのは環の感想だ。恐らく事態はアキの想像を超えて凄惨である。
「否定も肯定もしてくれないんですね。いいんですよ、別に私は逃げも隠れもしないですし。きっと外では誰もまともに信じてくれないようなものなんでしょう」
「ああ」
「そこは肯定するんですね」
だからといって生活していく以上は簡単に辞めるわけいかないんですよね。
アキのこうした言葉を聞くのは何度目になるか──前任者もそうだった。
危険と隣り合わせになっていても、その存在に気付けたとしても逃れられることとイコールではない。それは事情は異なっているが、環にも言えることである。
環は漠然と地下に横たわる親友の姿を思い浮かべていた。
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