第5話 妖獣の群れに捧ぐ歌一首
テンツキ山はイチの村を抜けた先にある。頂上には雲がかかり、麓からではよく見えない。そんな山を登るヨロズハとタダシは息を切らしていた。
「はぁ……はぁ……す、すごいべ。あっという間に中腹だべ」
「でもそろそろ呪術の効果も切れる。馬のタテガミも切れてるからもう早足の呪術は使えない」
馬のタテガミの毛を靴の中に入れる。そして特殊な力の入れ方をすると発動する呪術だ。馬のように脚力が上がり、素早く駆けることができるようになる。タテガミは時間が経つほどに細くなっていき、五分ほどで消えてなくなってしまう。
すっからかんになった袋をヨロズハは再びのぞいてみる。しかしタテガミの毛一本ももう残っていない。彼女はため息をついた。
やがて呪術の効果が切れる。今まで速度で無視できていた妖獣の脅威へも警戒しなくてはいけない。二人はあたりを見渡しながら、歩いていく。
ゴツゴツした岩の飛び出た斜面を登り、蔦を切り裂いて進む。数分でヨロズハは足が痛くなってきた。少し顔を歪ませる彼女に気づいたタダシは口を開いた。
「休憩するべか」
「いいのか。奥さんの元に早く行かなきゃなんだろう」
「ヨロズハの助けがなきゃオイラ先に進めねぇ。さっきも呪術のやり方教えてくれたしな。そんなお前さんが疲れてんなら止まるしかねえ」
タダシは近くの大木のこぶに腰掛けた。ヨロズハは少しためらって、近くの岩に座った。
「なんでオイラを助けようとしてくれたんだべか。オイラからでなくても歌は集められるべ」
その答えについて、ヨロズハはずっと考えていた。ここまで山を登ってきたが、少しだけ理由がわかったような気がしていた。
「……私はマンヨウ王が好きだ。そんな王様が優しくあるなら、私もそうありたいと思った」
「そうだべか。オイラも妻みたいに手先が器用になりたいと思ったことがあるだ。マンヨウ王と比べたらお前さんは怒るかもしんねぇが、オイラにとっては妻は好きで憧れの対象だ」
ヨロズハは少し目を丸くした。こんな気持ちは自分だけが抱くような妙なものだと思い込んでいた。しかし目の前の男も、好きの対象に憧れ、近づきたいと思っている。その事実に彼女は少しだけ驚いていた。
「憧れ……でもマンヨウ王のようになりたいなんて……不遜ではないかとも思う」
「そういう時は相手の立場になってみるだ。オイラみたいな平民はそうやって生きてるだべ。マンヨウ王は……ヨロズハが優しくなったら怒るべか?」
「怒らない……多分お喜びになる……」
タダシの言葉が胸に染み渡るように気がした。ヨロズハはマンヨウ王が大好きで、尊敬している。十年前に拾われて手厚く保護されて、仕事を与えてもらってからずっとそうだった。それが憧れへと変化してもなんらおかしくはない。そのことに彼女は気がついた。
二人の頭上、風に木々がざわめく。リスが木からジャンプし、落ち葉に着地する音が聞こえる。少しの静寂の後、ヨロズハは立ち上がった。
「行こう。タダシの妻が心配だ」
「んだ。行くべ」
二人は再び歩き出すが、呪術による加速はもう見込めない。自分たちの足で、岩場を乗り越え、落ち葉をザクザクと踏み荒らす。
数時間歩く。ヨロズハは足音が心なしか大きく、多くなっているように気がした。二人は立ち止まり、あたりをキョロキョロと見渡した。もうあたりは暗い。獣や妖獣の時間だ。そんな中、うまそうな人間が二人歩いている。それはもう獲物と言っても過言ではない。
ヨロズハの右前方から四足歩行で狼のような容貌の妖獣、アオタテガミがこちらを睨んでいた。一つの視線にヨロズハ達が気がつくと、一つ、二つと舐めるような視線が増えた。ギラギラ光る黄色の目は木の影の暗闇に浮遊するようにしている。
あたりをアオタテガミに囲まれた二人は背中合わせになった。互いの焦りが伝わってくる。
「困ったべ……!斧で追い払えても一体か二体だ。何か追い払う呪術はないべか?」
「ない!」
ヨロズハは簡潔に答えた。それは焦りの印だ。彼女は頭をぐるぐると超速度で回している。どうすれば助かるか。その答えを出すために受け答えに使っている頭の容量はないのだ。
めかぶのネバネバを使った呪術は確かに防御の力はあるが、今から袋から取り出して、塗りつける時間がない。他の呪術も道具こそあれど、用意ができない。用意なんぞしていたら二人は確実に噛み破られてしまう。
そんな中、彼女は一つの藁に縋ることにした。その藁は彼女の最も得意な藁である。すなわち歌だ。
「ゴシチ、シチゴ。喉に宿れ」
主人のやらんとしていることを察知した二体は服から抜け出ると、すぐにヨロズハの喉に潜り込んだ。妖獣へと言葉の伝わるモードに切り替わった彼女は口を開く。宝石のように透き通った声が彼女の喉から発せられる。その言葉は直接アオタテガミの脳へと響く。
「王は言う 今この時食べ 今この時眠る その至極……されど……学ぶ君 その心尊く その心高く 永遠となる」
短絡的なエサや快楽を求めるのではなく、先々のことを見据える。そのことを歌った。ヨロズハは妖獣のその日暮らしの在り方を疑って見せたのだ。
アオタテガミは流れ出るよだれを止めて、互いに顔を見合わせた。そしてだんだんと一箇所に集まり始め、考え込むようにし、唸り声で互いにコミュニケーションをとり始めた。
「タダシ!その日暮らしをアオタテガミ達が省みそうだ!今のうちに逃げよう!」
「ん、んだ!」
二人はその日暮らしについて考える妖獣の一団がはるか後方に見えなくなるまで山を走り、登った。数分走り、肩で息をするようになった頃、二人は止まった。
「はぁ……はぁ……すごいべ。ヨロズハのおかげだ」
「お、王の言葉を歌にしたんだ。目の前の快楽ではなく、長きにわたってタメになることをするように、と。アオタテガミにも通じて良かった」
二人は手巾で汗を拭いながらまた歩き始める。
次の朝を通り越して昼になる頃、二人の前に木造の家が現れた。石造りのカマドからは煙が上がっている。家の壁は緑色の混じった白塗りで、一部が障子で開閉できるようになっている。
「つ、ついた……妻の家だべ」
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