第3話 最初の人間
ヨロズハが木に塗りつけためかぶのネバネバが取れる頃、朝の陽光が彼女の寝顔を照らす。頬にほのかな熱を感じたので、彼女はすぐさま起きる。一瞬なぜ自分が森の中で寝ているのか分からなくなったが、すぐに旅に出ていることを思い出す。
「まずい。水の確保を忘れてた」
朱の髪一族の喉は黄金と同等の価値がある。そんなことを言われるほどこの一族の喉は重要だ。そのためヨロズハはいつも朝のうがいと水分補給を大切にしている。だが昨日はカゲクマと歌を交わすという体験があったことで完全に放念していた。その上昨晩喉の渇きに耐えられず水筒は空っぽだ。
「こんなことでは先が思いやられる!王にあわせる顔がない!」
そう叫ぶや否や脱兎の如くヨロズハは駆け出した。シチゴとゴシチも彼女の武官のような袍から抜け出して、並走しながらあたりをキョロキョロ見渡す。
ふと高いところを飛んでいたゴシチがキーと金切り声とともにヨロズハの頭をこづいた。
「水場があったか!ありがとう!」
ふよふよ浮かぶゴシチの後に続く。ツタの伸びた木の間を抜け、ぐちょぐちょのぬかるみを抜ける。すると彼女の耳に滝の音が聞こえる。微かに空気も冷たい。
「おぉ、綺麗だ」
永くを生きる大樹のようなゴツゴツした岩肌。苔むした岩肌。そこから流れ出る滝は彼女を魅了した。太い水の塊は水面を叩いている。
ヨロズハはそこで水筒に水を汲む。そして手をお椀のようにして口に含んだ。口の中で水を転がすようにうがいをし、吐き出す。朝の渇きが潤され、彼女は心が落ち着くようだった。
「……水浴びもするか……」
彼女の体にはじんわりと汗が滲んでいた。水を求めて水を失いそうになっている自分を自嘲しながら、彼女は袍に手をかけた。スルリと身に纏ったものを剥がすように脱ぐと、袍を置いて滝の方へと歩いていく。
彼女は細い腕を滴り落ちる水に伸ばした。冷たさに一瞬震える。前腕、二の腕、肩と濡らしていく。そして一気に頭から水を被った。ガシガシと頭を掻きむしるように頭を洗い始めた。体にも手を滑らせるようにして入念に洗った。
体の芯まで冷える前に滝から離れ、服に手をかける。スルリと袍に手を通したとき、がさりと近くの草むらが動いた。
ヨロズハはビクッと体を震わせ、屈んだ。そして素早く人前に出られるような格好へと服を直していく。
着替えが終わった途端に草むらから一人の男が現れた。
「……天の女性ではないぞ」
「水浴びしてたら良いってもんでもねぇべ」
ヨロズハは髪の毛から滴る水を手拭いで拭いながら、毅然とした態度で現れた男に話しかける。男は斧を持っていたので、盗賊の類であったら危険だ。そのためヨロズハは恐怖心を隠す。
しかしその必要はないとすぐに思い知った。男は近くの細めの木に向かって斧を振り始めた。
「木を穫りに来たのか」
「そうだべ。盗賊でも、天の女の人狙いでもないべ。そもそもオイラには妻がおるでな」
ドス、ドスと斧を男が十回ほど振る。すると木は傾き、地面を轟かしながら倒れ込んだ。それをヨロズハは何も言わずに見つめていた。最初に会った人間だ。是非ともこの男から歌を集めたいと思った。
「木を切り終わったら、あなたの暮らしや思いを歌にしてくれ」
「はぁ?どういうことだべ」
「私はマンヨウ王の命をうけ、各地の文化や考えを歌にして集める仕事をしている。それと同時にマンヨウ王の素晴らしさを各地で歌っている」
男はポリポリと頭をかきながら、唸った。側から見ればびしょ濡れの状態で歌を要求してくる女は厄介極まりない。男はため息をつき、懐から取り出したノコギリで倒した木を切り始めた。
「オイラは歌は得意ではねぇ。他をあたってくれ」
「私は多くの歌を必要としている。それに得意でなくても、才能が開花するかもしれない。是非歌ってほしい」
「オイラの歌なんか集めてもマンヨウ王様はきっと喜ばねぇだ」
しばらく問答が続く。歌ってくれ、歌えないと言ったシンプルな会話が交わされる。いよいよ男が木を細かく切り揃え、背負った。
「わりぃ。やっぱ他を……」
「頼むぅぅ!このとおり!」
ヨロズハは地面に突き刺さるような勢いで土下座をした。あまりの勢いととっぴな行動に男は目を丸くした。
「わ、わかった!頭あげてくれぃ!なんとか歌をつくって、歌うから」
ヨロズハとてこの男に執着する必要はないとわかっている。他の地に着いた時、そこで歌を集めたり、王を讃える歌を歌えばいいだけの話だ。しかし彼女にとって最初の一音とも言えるこの人間の男を外せば、幸先が悪いように思える。だから男の言葉に彼女は大いに安心した。
「感謝する」
「んだ。でもオイラそんなすぐに歌なんて思いつかねぇなぁ。平々凡々な毎日だ。オイラの村はイチの村だ。村さ帰ってから考えていいか?お前も宿を探すといいべ」
「わかった。そうしよう。歌を歌ってくれるまで私はイチの村を出ないぞ」
「執念というか恐怖を感じるだ……」
男は切った木を束ねたものを背負うと、ヨロズハに手招きをした。
「オイラはタダシ。おまえさんは?」
「私はヨロズハ。見ての通りの朱の髪一族だ」
「お偉いさんだでな。よろしく頼むべ」
二人はタダシの案内で、イチの村に向かって歩き出した。
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