二〇〇一年のプラネタリウム

松下 史加

1ー(1)春の雨


 どこで仕掛けるか。

 高校最後の五千メートルレース予選。団子になっていた走者がばらけて、ぼくは二つ目の集団の中にいた。目の前には函館の校名の入ったグリーンのランニングシャツ。その先に旭川の赤いシャツの走者。先頭集団からは数百メートルの差がついている。しかし、全体のペースからして、この集団を抜け出せば決勝進出の可能性がある。

 三千メートルを過ぎた。グリーンのシャツとの間が詰まる。赤いシャツはさらに後続を引き離す気配だ。

 自分のペースは落ちていないと感じた。余力もある。そろそろか。 

 ――ここだ。――

 腕をひときわ強く振り、飛び出す体勢に入る寸前のところだった。

 ほんの刹那――コンマ何秒という時間に、ぼくを捕えた躊躇があった。過去のレースで早く前に出過ぎ、ゴール前にスタミナが切れてしまった時のことが頭をよぎった。もう二、三百メートル、体力を温存しておけば、違った結果になったはずのレースだった。

 その記憶が、仕掛けようとしたぼくの脚を一瞬引き留めた。

 次の瞬間、身体から立ち上る熱気と熱気がぶつかり合うほど近く、横を抜いていった走者がいた。

 黒シャツの苫小牧。

 いっとき愕然とし、われに返って必死に追う。動揺がペースを乱した。残りの距離はあっという間に一キロを切ってゆく。

 あと二周……一周……ラスト半周。

 エネルギーのかけらも残さない勢いで、苫小牧の選手とほぼ並んでゴールに飛び込んだ。だが、相手の方がわずかに早かったことは結果を見ずともわかった。

 すべての予選が終わり、全員のタイムが出揃った。決勝への進出権を得た走者のうち、その最下位の者に、ぼくはなお二秒及ばなかった。



 全道大会会場から札幌中心部の宿舎に戻った夜、仲間と外に出て風に当たった。インターハイには中距離種目の女子一名が進むことになったが、男子は全敗だった。

「インターハイ、せっかくの札幌開催なのに。出たかったなー」

 歩きながら、後輩の一人が言った。別の一人がまぜっ返す。

「そうか? 全道も全国も同じ場所って、つまんなくねえか」

「だってさ。自分とこが日本の中心みたいな気になれるじゃん」

「『おおぞら』に五時間半乗って来るんだぞ。自分とこじゃねえべや」

「よその県から見たら、同じだべさ」

 同期の部員がぼくに話を振った。

須崎すざきがいちばん決勝に近かったよな。あれ、惜しかったよ」

「あのタイムじゃ、決勝に出てもインターハイには届かないよ」

 ぼくは答える。

「わかんねえじゃん。お前、はまった時にはすげえ粘りを見せたりするからさ」

 道端の自販機で、彼はビールを買った。

「先生に匂いでバレるぞ」

 ぼくが注意すると、

「もう、宿舎で沈没してるべ……」

 という答えが返ってきた。

 後輩たちには先に行ってもらい、大通公園のベンチに座って、彼がビールを飲み終わるのを待った。

「あとは受験勉強か……。なんか、実感が湧かねえな。須崎は、やっぱり北大?」

「いや……。模試の結果と相談だけど、俺、東京に行きたいと思って」

「そうなんだ? まあ、須崎なら、どっかには収まるっしょ。遊びに行くから、泊めてよ」

「気、早過ぎだべ」

 ぼくは苦笑を返した。そんなに早く頭を切り替えることはできない。それは彼も同じはずだった。ただ、自分に言い聞かせているのだ。これでけりをつけなければいけない、と。

 空を見上げると、雲間から星が見えた。

 東京が、ぼくがたどり着けるいちばん遠い場所のように、あの頃は思っていた。


 

「……海広みひろか」

「……父さん?」

「うん。今、横浜に来てるから。元気かと思ってさ」

「電話なら、どこからかけたって同じっしょ」

「そんなことねえわ。近くまで来たから、かけようと思ったんだ」

 郷里の人たちに特徴的な、疑問形のように語尾の上がる抑揚が耳を打つ。東京に来てまだひと月も経っていないというのに、たまらなく懐かしい。

「どうよ、大学の方は」

「別に。普通」

「声、変だな。体調か。面白くねえことでも、あったか」

「両方かな」

「言ってみれ」

「…………」

 喉の奥に小さな塊が詰まっていた。呑み下して口を開く。

「陸上部のセレクション、受けたんだけど、熱出てて」

「風邪か」

「たぶん。……それで、あんまりうまく行かなくて。通ってたら、今日中に電話、あるはずだったんだけど。なかった」

「間違いないのか」

「掲示も出てるはずだから。明日、見てくる」

「駄目だったら、残念だろうけど。走りに大学行ったわけでねえべ? せっかくだから、新しいことも探してみれ」

「うん」

「熱、下がったのか」

「まだ少しある」

「寝とけ」

 電話を切りかけた父に、急いで訊いた。

「次、いつ帰るの」

「六月だわ。夏、お前が帰省するなら、どこかでは会えるだろ」

 受話器を置いた後、カーテンの隙間から暗い外を見た。街の灯の連なる先、まだ見ぬ横浜の港で船を降り、電話をかける父の姿を想像した。

 ――心配させてしまった。――

 目を閉じてうなだれた。大学合格というゴールの先にも、一本の決まったコースが見えると思っていたのに、視界は四月にして不良だった。



 午後の大学キャンパスには糸のような雨が降っていた。

 敷地奥の学生会館へと歩きながら、東京の雨が冷たくないのは不思議だと感じた。ぼくがそれまでの人生で知っていた雨は、霧の水滴が重力に負けて落ちてきたといった風情の小糠雨か、風とともに叩きつけてきて、短時間のうちに引き上げてしまう、年に数回の大雨だった。故郷の町では寒さはほぼ止むことのない感覚で、いつもは衣服の外側に漂っている冷気を雨は肌身にひたひたと寄せ、時に皮膚の内側にまで深く浸み込ませてくる。

 けれども今、目の前に降る雨は違う。細く優しくて、傘を持つ手の甲に落ちかかってもすぐに体温と同じぬくみになってしまう。入学式の日、枝が重みでしなりそうなほど一杯に咲いていた桜の花や、濡れて青い匂いを放つキャンパスの緑と同じく、この雨も異国のものだった。

 学生会館の前に立つ。ここに、サークルの部室が集まっている。傘を閉じて中に入った。

 古い建物だ。ロビーにも階段脇の壁にも、何年前のものなのか、ぼろぼろになった政治的主張のビラがあちこち貼りつけられたままになっていた。音楽サークルの練習の音が響いている。二階の陸上部部室の前へ行き、ドア脇に掲示された合格者名リストを確認した。

 ――やっぱり、ないか。――

 電話がつながらなかったか、補欠にでも入っていないかという一縷いちるの望みも絶たれた。

 ――これから、どうしよう。――

 階段を下りて、とぼとぼと玄関に向かった。扉を押し開けて出た時、ふと人影に視線を引き寄せられた。

 ひさしの下に女の子が一人、横顔を見せてたたずんでいた。ライラックの花の色のカーディガンと、蒼ざめて見えるほど白い面差しが雨模様の陰りの中に浮かんでいる。

 傘、ないのかな、と思った瞬間、彼女がこちらを向いた。

 周囲の音がかき消えた。

 彼女は泣いた後のように見えた。とび色の瞳にも長い睫毛まつげにも、涙の潤みが宿っている。けれども、ぼくを打ったのは何よりもその目の光だった。悲しみや弱さのために涙を流したとは思えない強さがあった。唇は結ばれ、頬は内側から燃えるようだ。沈んだ色の景色の中で、彼女だけがくっきりとした輪郭を持って見えた。

 彼女が不審そうに首を傾げた。自分が相手を見つめていたことに気づき、あわてて言った。

「……傘、必要なら。入って行きますか」

「どこまで」

「構内なら、どこでも」

 彼女は観察する目でぼくを眺めてから、口元を緩めた。

「教務課まで、入れてくれる?」

 雨は強まっている。彼女が傘の下に入ると、ふわりと温もりが流れてきた。黙って教務課の方へ歩き出す。

「一年生?」

 彼女に訊かれ、はいと答えた。

「同じね」

 意外な答えに彼女を見ると、視線が合った。彼女は微笑んだ。ぼくの緊張をおかしがっているようだ。肩までの長さに切り揃えた髪が彼女の動きに合わせて揺れ、艶めいた。

「それじゃ、ここで。ありがとう」

 教務課のある建物の入口で彼女は傘の下を離れ、背を向けようとした。

「待って」

 ぼくはとっさに、傘を閉じて彼女に押しつけた。

「これ。使っていいから」

「でも、濡れるでしょ」

「慣れてるから、いい」

 ウインドブレーカーのフードを引き上げ、雨の下に駆け出した。

 上級生かと思ったのは、彼女が大学の景色に馴染んで見えたからだ。ぼくも含め、地方出身の新入生には高校の廊下や体育館の匂いが染みついているようだったが、彼女はそうした野暮ったさとは無縁だった。東京か、近隣の都市の出身なのだろうと想像した。

 せめて所属を訊けば良かったと、帰宅してから悔やんだ。専門が異なれば、偶然再会できる可能性は低い。

 ――学生会館に行けば、また会えるだろうか。――

 ほんの数分、肩を並べただけなのに、もう忘れられなくなっていた。

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