第2話

 ***


 僕は昔から何でも出来る人間だった。


 だけど、何でも出来るからと言って、努力しなかったわけではない。大きな声では言えないけれど、毎日夜遅くまで勉強もして、朝早く起きて運動をした後に机に向かってから、登校するようにしていた。もちろん、睡魔に襲われる時もあったけれど、澄ました顔で授業を受けた。僕を頼りにする声があれば、迷わずに手を貸した。

 そうやって、血のにじむような努力を続けて、今の僕を築き上げて来た。


 生徒会に立候補した時も、成績優秀な僕に対して、誰も文句を言う人はいなかった。むしろ、僕なら安心して任せられると、期待を一身に受けて見送られたほどだ。

 最初は期待に応えるべく、必死に行動した。生徒会としての行動が、誰かの力になるのだと思うと、とても嬉しかった。


 だけど、上に立つことで気付いてしまった。

 生徒会としてやっていることは、意外と雑用が多い。請け負った雑用を誰かに割り振れば、こんなしんどい思いはしなくてもいいのだけど、自分自身でやった方が効率的で早かった。


 誰かに指示をして優雅に椅子に座りながら出来上がりを待つ――、そんなのは妄想に過ぎなかった。

 上の役職に就いていることを周りのみんなは羨ましがるけれど、実際は汗水垂らしながら校舎を駆け回るだけだ。僕からすれば、何も考えずに学校生活を送っているみんなの方が羨ましい。


 何をやっているのだろうと思うけど、このステータスを手離したら、誰も見向きもしないのではという強迫観念が襲って、やめることは叶わない。

 僕は必死に努力して、ようやく誰かに認められる。そんな、ちっぽけな存在だ。


 けれど、世の中には、何も努力せずに誰からも好かれる人間がいる。

 たとえば、人当たりの良いあいつは、他人の懐に入り込むのが上手い。気付けば、誰もがあいつに心を許している。苦労とは無関係の笑顔を見る度に、少しだけ胸がざわついた。


 生徒会の仕事や更には部活の引継ぎなども重なって、ここ最近は、上位の成績をキープすることが難しくなっていた。ライバルだと思っていた同級生にも抜かされるだけでなく、眼中になかった同級生までにも抜かされ、僕のプライドはズタボロになっている。


 成績のこと、生徒会のこと、大学のこと、部活のこと、人間関係、誰かからの期待――。


 考えれば考えるほど、僕という存在から掛け離れているような気がして、逃げるように目の前のことだけに没頭した。

 何もすることがないと、悩みに頭が支配されてしまい、発狂しそうだった。自分の部屋でのんびりなんて、とてもじゃないけど出来ない。実際、満足に眠れない夜を、いくつ越えただろう。


 だから、動く。

 動いて、努力して、繕って、平気なフリして――、なんとか一日を乗り越える。


 他の方法は知らなかった。越えられない壁があったら、努力をすれば何とかなると思っていた。


 だけど、僕は今思い知らされている。努力だけでは、どうしようも出来ないことがあるんだということを。


 妥協を出来る性格ではなかった僕は、届かないと知りながら、無駄な努力を続けた。努力が結ぶものは、何もない。費やした時間全てが、泡沫に消える感覚は、まさしく虚無と呼ぶに相応しい。


 何をやっているのだろう。

 だけど、周りの視線が、僕を止めさせてくれない。お前ならもっと出来ると、そう暗に言われている気がする。


 努力を続けてようやく現状に踏みとどまっているのに、努力することさえ止めたら、僕は僕でいられない。


 ――いや。


 そもそも僕って、何だろう。


 そんな根本的な疑問が、心の奥から湧きあがって来る。

 誰かの期待に応え続けることで僕は僕を保って来たが、何もしなくなった時の僕を、恐ろしいほどに実感出来なかった。誰かの想像する僕を、僕は演じて生きている。


 そう言えば、ここ数年、自分が心からやりたいと思ったことは出来ているだろうか。分からない。考えたら、余計に苦しくなる気がした。


 だけど、考えまいとすればするほど、終わらない問いが僕に襲い掛かる。誰かに相談出来れば心の重荷は軽くなるのかもしれないけど、僕のちっぽけなプライドが許さなかった。


「……大丈夫?」


 そう眉根を寄せながら心配する人もいたが、「……平気」と僕は軽く一言言うだけで躱す。「何かあったら言って」という声も、どこか上からの物言いに感じられて苛立った。


 お前みたいな奴に、僕の気持ちなんて分からない。


 そう叫んでやりたかったが、常識を詰め込んだ理性が何とか押しとどめてくれた。


 だけど、自分の想いを、自分の中で抱え続けることは負担なことだ。

 いつしか僕は、楽になることを望み始めた。

 いつも自分に無理強いしながら生きるのではなく、もうちょっと効率よく生きて、ありのまま生きたかった。


 どうしたらいいのだろう。僕は、どうありたいのだろう。


 眠れない夜を越え、眩しすぎる朝を越え、周りに怯えるばかりの昼を越え、逢魔が時である夕を越え、僕はある選択を思いついた。


 職員室に忍び込んで、次のテストの模範解答を盗み出そう。そうすれば、面倒くさい努力をすることなく、現状を維持することが出来る。いや、解答を丸暗記して満点を取れば、現状を脱することだって可能だ。

 それから、どうせなら窓ガラスの一つでも割って侵入しよう。


 この時の僕は、自分の思いだけを顧みて、一般的な考えは失くしていた。パッと思い浮かんだことが、魅力的な答えに思えて仕方がなかった。


 そうか。僕は一度真面目な人間から脱したかったんだ。それでいて、何も努力せずに、皆から慕われたい。


 ようやく答えに辿り着いた僕は、暗い部屋で一人笑いを零していた。悩んでいたのが阿呆らしくなるくらい、単純な答えだ。


 そう思いついたら、行動するのは速かった。


 時間にしたら、夜の十時は回っていたと思う。正確な時間は分からない。だけど、先生は誰もいないと思っていた。日中すれ違う先生の中で、そんな夜遅くまで高校に残って仕事をしているような、真面目な人はいないと思っていたからだ。

 万が一のことを考えて、黒のジャージと黒いニット帽で全身を覆い、玄関に収納されている工具箱からトンカチを音もなく拝借すると、家を出た。両親はテレビに夢中になっていて、僕が自分の部屋から出たことさえ気が付いていないはずだ。


 夜の住宅街は、静寂に包まれていた。

 心地よい秋の夜風が、僕の頬を撫ぜる。ただの夜風なのに、普段と違う時間というだけで、少しだけ心が動く。

 だけど、僕の頭を冷やすには、全然足りない。


 この息苦しいだけの人生を抜け出すには、どこかで博打に出る必要がある。大丈夫。現行を見られない限り、僕が犯人だとバレる要素はどこにもない。もう優等生を演じるだけの自分は、嫌だ。


 時間は遅いというのに、僕の目論見とは異なって、時々誰かとすれ違ってしまった。酔っぱらって足取りがふらついている人、あまりの疲労からか猫背になって歩いている人。そんな人達とすれ違う時でさえも、僕はニット帽を更に目深に被り、誰にもバレないようにする。気を付けすぎて困ることは、どこにもない。


 そして、ようやく校門の前に着いた。正門から見る校舎は、灯りが点いている様子はなく、しんと静まり返っていた。


 門を軽くよじ登り、校庭を思い切り突っ切って、校舎の一階の前へと立つ。


 手にはトンカチ。息は荒く、手は震えている。全てを断ち切るように、思い切り振りかざした。窓の割れる音が豪快に響き渡る。それと共に、僕の心の中の何かも割れた気がした。


 割れた窓ガラスを見て、心の中がスッキリとしていることに気が付いた。吹っ切れた、のだろうか。分からない。灯りのない暗い校舎の中では、自分がどうなっているか把握する術はない。体の内から熱い何かが溢れている気がするけど、その正体も分からない。血だろうか、それとも――、そんな疑問さえも払拭するような高揚感が、僕を満たしている。

 得も言えぬ感覚から抜け出せなくて、暫く呆然と立ち尽くしていた。窓ガラスを割ったことで、変な達成感を得てしまい、当初の目的を忘れかけていた。


 そして、気付けば、僕の目に、瞼を閉じてしまいたくなるほどの眩い光が差し込む――。


 心臓が警鐘を上げた。ヤバい、と気付いた時には、もう何もかもが遅かった。

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