第六章 「底辺職」

「底辺職」

 午前五時半。


 一人の女性が、布団から体を起こす。



 その女性・五味栗江の朝は、早い。



 六畳一間の安アパート、風呂もトイレも共同で家賃は文字通りの底値。

 もちろん伴侶などいない。


「あーあ……」


 彼女は今日も目を覚ますや否や顔を洗い、冷蔵庫を開けてパンを取り出し適当にトースターに突っ込む。おかずと言えるのは賞味期限が二日切れたハムと、切りもしていないキュウリとレタスだけ。別に料理をサボる気もなく、ただその暇さえもなかっただけ。

 乱れに乱れた伸び放題の髪の毛を適当に撫でて整えたふりをするだけの彼女の睡眠時間は、四時間半。

 別に寝坊をしていた訳ではなく、そこまでしなければ終わらないような仕事を抱えていたからだ。


 眠い目をこすりながら机の方を向くと、封筒に詰められた紙が栗江を見上げている。自分たちの出番が相当に後な事を知ってか知らずが恨めし気に栗江を見上げるその封筒に目をくれる事もなく、栗江は腹を満たすためだけに存在する代物を口の中に放り込む。

 味など、正直分からない。もう一時間半もすれば、出なければならない家。帰って来られるのは午後四時だが、それでもその後のこの紙束との会合を考えると栗江の体は重たくなる。


 それこそギリギリまで切り詰めているのにちっとも貯金などできず、文字通りの自転車操業。それこそ暇さえあれば寝て体力を回復するしかないのが彼女だった。

「まったく……どうして計算ができなかったのか……」

 誰に聞かせるでもなくグチグチ言いながら、食べ物が乗っていた皿を流しにぶち込む。そしてそのまま適当に洗剤を付けて洗い流し、いつも通りの場所にしまう。さすがに食器までは共用ではないが、それこそ一枚一枚が彼女にとって貴重品であり、それこそ失いたくない宝だった。

「ああもう早く行かないと…」

 化粧さえもまともにせず、歯磨きと着替えの二つだけで朝の支度を終わらせて部屋を出るその姿は、実に情けないそれだった。

 

「もう少しでも勉強が出来たらこんな事せずに済んだのかな……」


 仕事場へのバスに乗り込む彼女が考えるのは、自分の程度の低さばかりだった。子どもの時、勉強しないで遊んでばかりいたからか。それとも、嫌な事から逃げ回ってばかりいたからか。こんな暮らしをしているのに親姉妹たち誰も援助しようとせず、たまに金を送って来るのは仕事先の人間と言う名の雇い主ばかりだった。

「今度刈谷さんにパソコン借りようかな…いやでも、その借り賃なんか財布に入ってないんだよね……」

 無料送迎バスの中でうつむく彼女の財布には、余計な金は全く入っていない。それこそ昼飯代がほぼ全てであり、少しでも高い物を頼めば即足が出てしまう。そんな彼女に向けられる視線は、軒並み冷たい。

 同業者として、五味栗江の職場を知っているくせにだ。




 その仕事が終わって帰って来た栗江は、少しばかり汚れた服を脱ごうともせずに、机に向かった。朝に残しておいた封筒の中身と向き合い、それらを完成させると言う「アルバイト」が残っている。

 そのアルバイトをしなければ、彼女の生活は成り立たない。

 いや成り立つが、貯金などできない。過酷な労働環境を思うと貯金がなければ余裕はないし、さらに栗江自身の夢も叶えられない。

「何がかっこよすぎるだっての…こちとら目一杯やってるのに…」

 アルバイトと言うのは、この紙に絵を描き、送る事だった。

 もちろん適当に描いていればいい訳ではなく、なるべくクライアントの要求に遭った通りのそれでなくてはいけない。一応昨日と言うか昨晩、夜遅くまで起きて一枚完成図は描いたものの、それをコピーするだけならば苦労などない。それこそ誰にでもできる仕事だ。

 そう、誰にでもできる仕事だった。


 そんな誰にでもできる仕事をここまで真剣になってやるのも、栗江が蔑まれる理由だった。

 実際コピーするだけならば十分もかければ終わる事を、何時間もかけて真剣にやる。

 それは怠慢と言う物であり、せいぜいが好事家だった。


 いや、好事家の方が怠慢であるより性質が悪かった。


 確かに出来が良ければ良いだけ財布は膨らむが、その額は僅かでしかない。そのわずかな金銭のために何時間もかけてやるなど、あまりにも浅ましくみみっちいと言う次第だ。


「えっと…なるべくうすらハゲにして、メガネのレンズは分厚くして、顔はニキビ跡の塊にして……」

 さらに体型は丸々と太らせ、呼吸の荒そうな口にしなければいけない。



 そして最大の問題は、彼の服だ。下半身は適当なジーンズでいいとしても、上半身の模様が問題だった。

「私だって大嫌いだっての、こんな女。文句ならば業者に言えばいいじゃないの、私がまるでそんな趣味だと思われるだなんて風評被害よ、ああやめてやりたい……」


 フリフリの極彩色の、脚どころか下着まで見えそうなほどのミニスカート。それと同じ色の髪の毛に、服の主と違ってバカでかい目。そして何より、やけに強調されたバスト。

 小学校時代から恐れるべき存在、憎むべき存在として忌み嫌って来た存在に、食べさせてもらっている。




 だから栗江は、この町における「底辺職」の人間であった。

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