第76話 再び交わる運命

「エミル。あせらなくていい。足をすべらせたら元も子もないからな」


 ジュードはそう言ってエミルの手を握りながら、朝焼けに染まる尾根を足早に下っていく。

 先頭を行くのはジャスティーナだ。

 そして最後尾をプリシラが走っていた。

 全員が緊張の面持おももちで山を下り続けている。 


 彼らを追って来る敵は王国兵たちだ。

 だが、早めに気付いたことが幸いして、敵とはまだ距離がある。

 あわてずに着実に山道を下っていけば逃げ切れるという目算がジュードにはあった。


「この先に谷間があって下を川が流れている。谷間には岩で出来た天然の渡し通路があって、そこから山のふもとまで向かうつもりだ。ただ、敵が間近に迫って来た場合は小船で川を下る方法で逃げよう。都合よく川漁師たちの船があれば、だが」

「川の先は?」


 プリシラの問いにジュードは走りながら答える。


「ビバルデの方角とは違うが、下流は共和国領に流れ込んでいる。そこまで逃げられればビバルデに向かうことは可能だ。少し回り道になるけど……」


 そう言いかけたジュードは思わずハッとして立ち止まる。

 彼の頭の中に呼びかけてくる者がいたからだ。

 突如として立ち止まったジュードを見上げるエミルも、彼とつないだ手を通して、ある女性の声を聞いていた。


『ジュード……ジュード……』


 ジュードがその声を忘れるはずもない。

 そして意思疎通をはかれる黒髪術者ダークネス同士とはいえ、ここまで鮮明に声が聞こえてくるのは、黒帯隊ダークベルトの中でも最も優れた黒髪術者ダークネスであるその女性以外にはありえなかった。


「ショ……ショーナ……」


 その名が自然とジュードの口かられる。

 そして思わずエミルの手を握る彼の手に力がこもり、エミルが痛そうな顔をした。

 ハッとしてジュードはエミルの手を放す。

 エミルは戸惑いながらジュードの顔を見上げた。


「ジュード……今の女の人は?」

「それは……」

「ジュード! 止まるな!」

 

 先頭で声を張り上げるのはジャスティーナだ。

 その声にジュードは気を取り直し、エミルを見下ろす。


「エミル。話は後だ。自分で走れるか?」

「う、うん」


 エミルは張り詰めた表情でうなづくと、今度はジュードに手を引かれることなく自分で走り出す。

 エミルはジュードの心に響く声を勝手に聞いてはいけないと考えているのだ。

 ジュードは幼いエミルがそのように気をつかいながら賢明に走る姿を見て、自分の動揺を抑えようと努めた。

 そして走りながら、心に届く声に応える。


『ショーナ……君なのか?』

『ええ……久しぶりね。ジュード。あなた、公国にいたのね』


 心と心がつながり、彼女の意識が声となって鮮明に頭の中に響く。

 そのなつかしい声にジュードは複雑な表情を浮かべた。


『俺たちを追って来ているのは君たちなんだな』

『ええ。単刀直入に言うわ。ジュード。プリシラとエミルを見捨てて、今すぐそこから逃げなさい』


 自分の頭の中にだけ響くその声が伝えてくるその話に、ジュードはまゆを潜めた。


『……それを俺が受け入れると思うか?』

『ワタシたちの部隊の先頭を行くのは……チェルシー様よ』

『なっ……』


 ジュードは思わず絶句する。

 チェルシーは王国軍の先頭に立ち、公国攻略の重責を担っているものとばかり思っていた。

 まさかこのような場所で自分たちを追ってくる急先鋒がチェルシーその人だと誰が思うだろうか。


『……何のためにプリシラやエミルをねらうんだ? 君たちの軍務には2人は無関係だろう?』

『他人の心配をしている場合じゃないわ。チェルシー様に見つかったら、あなた自身がどうなるか分かるでしょう?』


 ショーナの言葉にジュードは息を飲む。

 自分は脱走兵だ。

 チェルシーは自分を見つけたら必ず捕らえて厳しい処罰を与えるだろう。

 おそらく厳しい拷問ごうもんを受けて知っていることを白状させられた後、ジュードはジャイルズ王によって処刑されることとなる。


『君の立場で俺に逃げろなんて言うのはまずいだろう?』

『……そうよ。でもワタシはとっくに罪を犯している。あの日、あなたを逃がした時から、ワタシも反逆者なのよ』


 ジュードの脳裏のうりに10年前の出来事が鮮明によみがえる。 

 ショーナを誘って王都から逃げようとした。

 だが、ショーナはジュードだけを逃してくれたのだ。

 本来であれば脱走をくわだてたジュードを捕らえなければならない立場にありながら。

 

『あの時と同じように……俺を逃がしてくれようとしているのか』

『……勘違いしないで。あなたが捕らえられて、10年前のことを白状したら、ワタシは厳しい処分をまぬがれないわ。あの時のようにむち打ち程度では許されないでしょうね』


 むち打ち。

 その言葉にジュードは胸がズキリと痛むのを感じた。

 自分が脱走したせいでショーナは監督責任を問われてばつを受けただろうと思っていた。

 それでも事実をこうして聞かされると、やはり罪悪感がジュードの胸に色濃く刻まれる。

 そんな彼の心に追い打ちをかけるようにショーナは言葉を続けた。


『ワタシが助かるために、あなたにそこにいられるとマズイのよ。ジュード。あなたにもしもワタシを少しでも気遣きづかう気持ちがあるのなら、今すぐその2人を置いて自分だけ逃げなさい』


 ショーナの言葉にジュードは前を懸命に走るエミルの姿を見た。

 そしてその姿にかつて王都から必死に逃げていた時の自分を重ねる。

 彼の心は……微塵みじんも揺るがなかった。


『ショーナ……君には申し訳ないことをしたと思っている。俺につぐなえるならつぐないたいとも思っている。だが……俺は俺を頼ってくれるこの子たちを見捨てることはしない』

『ジュード。よく考えなさい。あなた自身の身に災厄さいやくが降りかかるのよ』

『分かっているさ。でも、かつて君は自分に降りかかる災厄さいやくいとわずに俺を逃がしてくれた。俺も同じさ。この子らを見捨てることは絶対にしない。ショーナ。すまないな。君には迷惑ばかりかけた。俺が君のためにしてやれることは多くないけれど、せめて……捕まって拷問ごうもんされても当時のことを白状しないよう、死ぬ気で耐えるさ。もちろんその前に、チェルシーに捕まらないよう逃げ切って見せるけどな』

『どちらも無理よ……』


 ショーナの声はあきらめの色を帯びている。

 それでもジュードは努めて明るく伝えた。

 

『ショーナ。あの時のこと。感謝している。何も恩返し出来ないけれど、君のおかげで俺のその後の人生は悪くない。ありがとう。すまない』


 それだけ言うとジュードは意図いと的にショーナとの意識のつながりを断ち切った。

 逃げることに集中するためだ。

 前を走るエミル。

 そして後方からついてくるプリシラをチラリと見た。

 まだ出会って日も浅い2人だが、懸命に走る2人を見てジュードはおのれの心を再確認する。


(俺には今、やるべきことがある。過去を悔いるのも嘆くのも全部後回しだ)


 そう心に決めると、ジュードは足を必死に動かして、朝陽に照らされる尾根を先へ先へと下っていくのだった。

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