第2話 未遂

 直したいということは直っていないということで。


「ご機嫌のようで?」


 校舎の廊下を歩いている折、横合いから掛けられた言葉の意味を俺はすぐに理解した。


「またやってた? 俺」


「ちっさくな。なんの曲よ」


 次の授業は移動教室で、隣に並んだきし一成かずなりも向かう先は同じだ。選択した科目によって二手に分かれるクラスメイトたちだが、岸とはこの後には机も並べることになる。クラスの教室とは違う席順が俺と岸とを今の関係にしたと言っていい。


「アニメのだよ」


「へぇ。なんの?」


「言ってもわからないだろどうせ。『パンタレイ』って知らないだろ?」


「万物流転だろ? Panta Rhei」


「いやそういう……単語の意味じゃなく」


 顔だけじゃなく頭もいいところが岸のいいところで悪いところだ。垢抜けた金髪が似合いの優男といった風貌に加えて勉強も運動も上から数えた方が早いから、相応に彩り豊かで綱渡りな日々を過ごしているらしい。かの『雪姫』といい昨今の神様は二物も三物も与えて波乱を起こすのがお好みのようだ。


「冗談だって。ま、向井の言うとおりさっぱりわからなかったけど。パンタ・レイ? 面白いのか?」


「めちゃくちゃ面白い」


「いつもそれだもんなぁ」


 岸は肩を竦めるが、主題歌を鼻歌に乗せるような作品なんだからそう言うに決まっている。


 いつも、の如く続けて布教活動をしようとしたところ、岸は別の集団に呼ばれて行ってしまった。校舎内の近い距離の移動だから、もう目的の教室には着いたのだ。着いて早々に別クラスの女子グループにお呼ばれする岸を俺は名残惜しく見送ったというわけである。


「ちっ。布教失敗か」


 いつか必ず俺のいる沼に引きずり込んでやると決意を込めて、女子たちと楽しそうに会話している背中を睨みつける。なにか察知したらしい岸が一瞬こちらを見たので笑顔を返しておいた。どう見えたのかは岸の引き攣り笑いに推し量れよう。


「向井……だっけ? 相変わらず顔怖いね、睨んでたよこっち」


「はは。おれが向井のことほっぽってこっち来ちゃったから拗ねてんのかもね。ああ見えて友人想いの良い奴なんだよ?」


 嘘だぁ、という俺を顔怖いと評した女子の驚きと疑念とのミックスには俺自身も同意したい。拗ねてねーし。あと友達想いとかでもない。てかああ見えてってなんだああ見えてって。フォローありがとなイケメン野郎。


 しばらくして予鈴が鳴った後、ようやっと左隣の指定席は埋まったのだった。


 授業は滞りなく進行し、今日はここまでと教師が去れば俺としてはいち早く本来のクラスに戻りたい。岸はまったくそんなことはない。


「じゃ、先戻るわ」


「おーす」


 毎度のこととなった短いやり取りが合図であるかのように俄かに騒がしくなる岸周辺から逃げるように俺は教室を後にした。


 別に女子が嫌いなのではない。会話も出来ないほど苦手でもない。ただ俺は俺の分を弁えている。


 女子に友人と呼べる相手がいないのはもちろん、男子でもクラスメイト以上と明確に胸を張れるのは数人程度。俺が学校という環境に築くことが出来たのはそんなちっぽけなものだけだ。


 そこにもしかしたら、特大の爆弾が一つ加わるのかもしれない。


 そんな予感を覚えてしまう決意の表情で、貫崎原かんざきばらゆきはこちらを見ていた。


「はぉえ?」


 あんまり力強い眼差しに気圧されて情けない声で鳴いた俺は、ひとまず周囲の確認をしなければならない。


 前方視界内人影なし。右、左、後方にも人っ子一人ありはしない。間違いなく、貫崎原さんの目線は俺を見ていた。


「あの、なにか?」


 決して竦んだわけではないが足も止まってしまったので、断じてビビったわけではないが小声で用件を尋ねる。


 返答がないのが間違っても怖いわけではないけど冷や汗かきそう。若干、自分の体感を信じられないからたぶんと付けるが、たぶん三十秒ほどは重い沈黙が場を包んでいたと思う。


 俺が喉を鳴らさないためにもう一度声を絞り出そうとした、ほんの僅かに早いタイミングで貫崎原さんが口を開いた。


「つ、つ――」


 けれどもだ。つっかえがちな様子の貫崎原さんが意味のある音を成す前に俺の後ろから笑い声が届いたのだった。それは俺と同じように移動教室から自クラスに戻る人たちで、声だけの判断だから間違っているかもしれないが同じクラスの生徒も含まれていた。


 途端、貫崎原さんの肩が跳ね、迷いが露わな視線をあちらこちらに散らした後、振り返って足早に去っていった。さながら昨日の俺のようである。反転撤退という行為のガワだけだけど。


「お、どしたの向井? こんなとこに突っ立って」


「人生ってもしかして何があるかわからなかったりするか?」


「するする。本格的にどうした?」


 岸の肯定に、俺はいよいよ溜息を吐き出した。


「なんの話? これ」


 名前もわからない他クラスの女子の疑問が廊下に響く。俺が知りたい。


 ポンと肩に手が置かれた。


「まぁとりあえず……邪魔になるから脇に避けるなりしとこう」


「だな」


 まったくご尤もな指摘を受け俺はしばらくぶりに足を動かした。気分は本当に、久しぶりに歩いたくらいの感覚だったのだ。

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