七章 炊馬経子のアリバイ崩し

 別府たちはきのう、蛇崩町の南区画をとおり、北区画の下屋敷をおとずれた。一泊した宿屋は東区画だ。西区画へと行くのは、はじめてだった。

 思いかえせば、蛇崩町の入り口から行人坂までは商店が立ちならんでいた。鍛冶屋、呉服屋、八百屋、魚屋、行人坂の表通りには人々が集まり、てんやわんやと賑わっていた。

「しかし、西区画の裏通りに少しはいっただけで、様相がことなる。大店の商店はひとつもない。所狭しと長屋がひしめきあっている。裏長屋、棟割長屋、割長屋……」

 まるで武蔵国そのものがかわったようだった。ひとつ、ふたつ、木戸をこえるごとに高い建物はへっていった。ちいさな商店すら消えていた。

 細く曲がりくねった道がつづいていた。徐々に方向感覚がなくなってきた。

 

 城下町はほんらい、敵の侵攻を防ぐためにつくられるものだ。

 外側には土塁や石垣を巡らせ、表通りの両脇には家屋を隙間なく配置させるのだ。裏通りの道はあみだくじのようにくねり、分かれ道のさきを袋小路にしていた。

 重要施設に辿り着きにくいようにするためだ。

 安全への配慮はそれだけではなかった。

 町割ごとに柵や木戸をつくり、夜には門番を立たせていた。

 殺しが発生したときには、木戸をおろし、侵入と脱出を阻むことができるからだ。

 江戸の城下町でも蛇崩町は末端だった。身分の低い者が多かった。江戸城から離れるほど市場価値はさがり、貧民の割合がましていた。

 江戸は城下町の発展と同時に西へと延びていった。外側に建てられる長屋は、いまもなお、ねずみ算のようにふえていたのだ。


 別府は三つ目の木戸のまえに立っていた。

 一呼吸いれた。ふりかえった。

 ちょうど、鐘の音が鳴った。正午だ。

「ようやく弐番地だ。……九兵衛が凶器を捨てたあと、西区画にもどるのはむずかしいと云った意味がわかったよ」

 女中部屋のある長屋は西区画でも奥側にあった。下屋敷からはとおかった。別府は外壁のさきを見た。西区画は、更地も多かった。ひびわれた土壁、枯れた樹木、野良犬、敷地外の森には山賊がいるかもしれない。西区画の道順をとおまわりにすることで緩衝地帯にしているのだ。

 治安の悪い場所を意図的につくっているのかもしれない。だが、その守るべき下屋敷の女中を西区画に住まわしているあたり、大村家の財政は厳しいのかもしれない。

 別府は木戸の左側に、空き地があるのを見つけた。火事対策の火除地だ。非常事態が起きたときに避難する場所である。別府は地図を懐にいれた。

 炊馬経子はその空き地のなかですわっていた。

 役人にかこまれていた。おおきな石に腰をおろしていた。

 別府は周囲に目配せした。彼女に歩みよった。


「待たせてしまったか。下屋敷の件はすでにきいているか?」

「はい。蛇崩池が氾濫し、濁流に飲みこまれたと……。ほかにも殺しが起きていたこともきいています」

「だれが殺されたか、知っているのか?」

 経子は小鳥のように首を横にゆらした。

 別府はほかの役人をさがらせた。まえに出る。

 顔をちかづけた。

「大村菊太郎、大村昌村……そして、佐々木五郎が殺された」

 彼女の瞳がふるえた。佐々木の名前に反応したのはあきらかだった。

「そうですか、三人もお亡くなりに……」

「どうして、われわれが来たのかわかるか?」

「はい。蛇崩池の水門の件でありましょう。水門には歯止めの固定堰がありました。支柱のあいだに丸太をいれています。不意な事故を防ぐためでした。見知らぬ人の手では、なかなか壊せない」

 彼女はうつむきながら、淡々と話した。

「しかし、きのうの夜、蛇崩池はなぜか、氾濫してしまいました。混乱にじょうじて、殺されたのは大村家の者ばかりです。わたしたちが疑われるのはとうぜんだと思います」

「貴方は水門の仕組みを教えてもらっていたのか? 作間家の者からだと思うが……」

「作間藤三郎さんに教えてもらっています。いざとなったら、修理をまかせるためでしょう。支柱の場所も知っています。支柱さえ外せれば、溜めていた水は流れ出ます」


 意外にも彼女ははっきりと答える。

「わたしだけではなく、ほかの三人も壊せると思います」

 作間家の者ならば、水門の破壊は可能である。予想どおりだ。

 しかし、厄介なのは、どの人物も殺人の実行が不可能だった点である。

 どうやって、彼らを殺したのかを見つけなければならない。

 別府はすでにその方法を思いついていた。糸口は濁流だった。

「じつは東区画の小道で凶器が見つかった。小刀と木刀、組紐だ。木刀には佐々木の手形がついていた。赤い血痕がこびりついていた。殺害時のものだと考えられている」

「そうですか……だったら、殺されたときに抵抗して……あとで焼香に行ってもいいですか? 知らない人でもないですし……」

「構わない。あしたにはなるがな。ただし、そのまえに貴方の疑いを晴らさなければならない」

「わたしの疑いですか?」

 別府はそばの役人に目線をおくった。

 犯行推定時刻と凶器の発見された場所、そして木戸のしまる刻限が伝えられる。

「でしたら、わたしが三人を殺すのはむずかしいですよね。三人を殺してから、西区画へともどるには時間が半刻、足りません」

「もちろんだ。ただし、貴方の犯行を不可能にしているのは凶器の発見でしかない。凶器の発見が余分な半刻をつくっている。逆に凶器さえどうにかすれば、成立できる」

 別府は上空を飛んでいる鳥を見た。

 三羽、滑空していた。

 カラスよりもおおきい。鷹だ。

 蛇崩町は鷹狩りの名所としても有名だった。

「犯人が凶器をもっていったと考えるのは、鷹がキツネを狩るために四肢をふりながら走っていったと考えるようなものだ」

 別府は軽口を叩いた。

「もっといい狩り方がある。だれもが知っている方法だ」

 上空の鷹は羽を折りたたんだ。

 はなたれた弓矢のように形状をかええた。

「鷹は地面ではなく、そらを利用する。羽があるからだ。きのうの下手人は水門を破壊した。そやつにも鷹のように羽があったのではないか?」

 上空の鷹は獲物をつかんでいた。町の外へと勢いよく飛んでいった。


 別府は密室殺人のために水門を破壊したと考えていた。

 しかし、水門から流れた濁流には、ほかにも利用する手段がある。凶器の移動もまた、蛇崩池の濁流を利用できるのだ。濁流と風呂敷は下手人にとってのそらと羽だ。

 ふたつの凶器は風呂敷につつまれていた。

 風呂敷は上流から流れてくる桃だ。だれかが見つけ、桃が割られるまで待てばいい。風呂敷からは経子の犯行が不可能だという証拠が生まれる。

「ここに町内地図がある。下屋敷は北側、凶器の発見された場所は東側だ。よく見ると、ひとつの道に繋がっている」

 人差し指を地図の北側から東側へと動かした。

「濁流は南のほうの離れ座敷まではとどいていなかった。途中から外へと流れ出していたからだ」

 敷地内の崖側には外壁が建てられておらず、濁流は竹の柵をとおり、ゆるやかに排水されていた。

 泥水は東区画へとふりそそぎ、ちいさい滝のようになっていた。

 その滝は小川となり、蛇崩町の外へと吐き出していた。

「貴方は佐々木五郎、大村菊太郎、大村昌村と殺したあとにその凶器を風呂敷につつんだ。濁流が敷地内をとおり抜けるのを待ってから、風呂敷を東区画のほうへと流したのではないか?」

「そ、そんな、ありえません。とんでもないことです」

「しかし、実行できるはずだ。濁流は屋敷すら破壊するのだ。ふたつの凶器を運ぶことくらいは造作もない。北前船と役割はかわらない。しかも、貴方は作間家の者だ」

 蛇崩池の水流を利用する仕掛けを思いつきやすい人物でもある。

 彼女の返事はなかった。ことばにもならないことばが出ている。否定のことばに内容を含められないようだ。

 そのときに異を唱えたのは経子ではなく、別府の仲間のほうだった。

 未堂棟が左目をひらいている。


「――西区画と東区画は左右対称のつくりになっているのですか?」

 続け様に云った。

「――発見された木刀の長さは三尺です。小道だと狭くて、とおりきれないでしょう」

 十六回目と十七回目だった。

 別府と経子、ふたりとも虚をつかれた形となった。

 彼女は救いの手を握った。


「そ、そうです。こちらの同心様の云うとおりです。町内の東西の区画は同じつくりになっています。試してください! あそこの西区画の道をとおれないのならば、凶器を風呂敷にいれて、水流に運ばせることはできません」

 別府は地図を広げた。対称となる場所を探した。

 ふたりを空き地に待たせた。さすまたを木刀のかわりにする。

 動かなかった。

 曲がり角はおろか、直線の道もとおらなかった。

 別府は引きかえした。

 彼女に凶器を水流で運ぶのは不可能だと伝えた。


「この地図が古い場合もある。東区画の確認はさせる。しかし、まずないと考えていい。小刀はとおるが、木刀はとおらない。それに長さだけの問題ではないな」

 別府はあたらしく気づいた点を彼女に伝える。

「さすまたをかわりにして思ったのだが、発見された木刀は樫でつくられていた。おもかった。もしも水上に浮かべるつもりだったら、もっと軽い木刀を選んだはずだ」

 経子は樫の木刀ということばに反応した。

 しかし、じっさいに声を発したのは、またしても未堂棟だった。


「――そもそも下手人はどうして樫の木刀を使ったのでしょうか。木刀のなかでも、おもくて長い。練習用に使われる木刀です」

「……おそらく佐々木の私物でしょう」

  経子の声だ。

「どうして彼の木刀だと思うのだ?」

「この区画のさきに道場があるのです。佐々木はちいさいころからかよっていました。蛇崩町にもどってきてからも、顔を出していました。わたしの住んでいるところがちかくて、ですので……」

 彼女は顔を赤らめた。

「道場内で木刀を見たことがあると云うのか?」

「ええ。もしかしたら、素振りをするつもりで、もっていったのかもしれません」

「そうなると、下手人が用意したものではなく、彼の木刀を現場で見つけて、殺害に使った可能性があるということか。小刀も佐々木のものを使ったかもしれない。しかし……」

 当時の状況は、すべて計画的な殺しを示していた。

 ……現場にあった佐々木の持ち物を使うのは、あまりにも場当たり的ではないか。


 この不一致はなんだ。ちぐはぐしている。

 むしろ、結果的に場当たりに見えていると考えたほうがうなずける。

「……わたしの疑いは晴れたのですか?」

「いいや。もう少し話をききたい。そもそも、貴方の話をききにきたのは、佐々木と貴方が古い付き合いだという噂をたしかめるためだ。まちがっていないか?」

「はい。そのとおりです。佐々木はかつて、蛇崩町の棟割長屋に住んでいました。彼の父親が亡くなってから職を求めて、出ていってしまったのです。幼いころはよくいっしょに遊んでいました」

 彼女はなにも隠していない様子だった。よく見ると、両目の涙袋が腫れていた。佐々木が死んだ事実を知らせるまえに、役人から被害者の名前をきいていたのかもしれない。

「下屋敷の女中のあいだでは、貴方が菊太郎にいいよられていたと噂されていた。まことか? 佐々木があいだにはいり、揉め事になったともきいている」

「少しちがいますね」

「どういうことだ?」

「たしかに菊太郎様はわたしを離れ座敷につれていこうと、手を引いたことがあります。遠巻きに見ていた者がいたのでしょう。五郎……、佐々木五郎が止めたのは事実です。ですが……」

「揉め事ではないと云うのか?」


「はい。佐々木は菊太郎様の利得にならないと云って、とめたのです。耳打ちしていました。菊太郎様はわたしから顔を隠すように引きかえしていきました。佐々木がわたしをかばったわけではないです」

「菊太郎のほうをかばった……。貴方はそう思ったわけだ」

「はい」

「顔を隠すように、か……。気になるな。彼がなんの話をして、菊太郎を引きさがらせたのか、きいていないのか?」

「教えてくれませんでした。知らなくていいことだ。一点張りです。彼はわたしが下屋敷にいることも嫌がっていました」

「不躾だが、貴方と佐々木はふかい関係ではなかったのか?」


「……ただの昔なじみです」

 経子の黒い瞳は辺縁にさがっていった。

 表情は憂いにみちていた。

「わたしは被害者の、彼のちいさいころを知っているだけで……」

 喉から絞り出される声量は徐々にさがっていった。ぴんと張っていた両肩も垂れさがっている。細長い指をからませ、腰のまえで弱々しく握られていた。

「彼とは下屋敷でしか会いません。今際の際も見ていませんし、どう殺されたのかも知りません……。おわかりになるでしょう。わたしは、ただの女中のひとりなのです」

 和柄の着物はちぢこまった身体をとおり抜け、真下にさがっていった。肩脱ぎとなる。きめ細かい肌があらわになった。

 彼女は恥ずかしさなどをみじんも見せない。

 ただ、悲観に暮れていた。

 会いたい、見たい、知りたいが恋愛の病だと云う。

 別府には彼女が恋のさがを抱いているように見えた。少なくとも経子にとって、佐々木はただの知り合いではなかったのかもしれない。

「昔はもっと親しみのある人でした。しかし、佐々木は蛇崩町を出ていってから、かわってしまいました。長屋の生活は彼にとってはつらいものだったのかもしれません」

 下級武士はさんぴんと呼ばれ、貧乏であることを揶揄されていた。

 武士は食わねど高楊枝。歌舞伎でも使われる有名なことばだ。

 食べ物がなくても気位は忘れないという意味だが、当時、困窮する武士が非常に多かったことを示している。武士といえども屋敷ではなく、長屋で暮らすものも多かった。身体を壊し、死に絶える者も数え切れない。

 佐々木の父親もそのひとりだったらしい。


「幕臣に仕えていれば、父親も死なずにすんだ。彼が蛇崩町を出るまえにきいたことばです。大人になった彼は大村家に仕え、金銭と地位をえることに執着するようになっていました」

 別府は経子の話に思いあたるものがあった。

「もしかしたら、佐々木の指示ではないのか?」

「指示? なんの話でしょうか……」

「水騒動だ。佐々木は昔なじみの貴方から藤三郎の話をきいていた。水番人の仕事によって、多額の扶持がもらえることを知っていた。水まわりの管理は一生、つづけられる。いい機会だと考えたのかもしれない」

「あっ……」彼女は口を抑えた。

「佐々木ならば、水番人の仕事を奪い、大村家のたくわえをふやせることを知っていた。とうぜん、彼の地位の向上にも繋がる。だから、藤三郎を殺害する手はずをととのえたのではないか?」

「それではわたしのせいで……」

「真相はわからない。事実だとしても、ちいさいころに話したならば、仕方ない。貴方のせいではない。ただ、これで佐々木が殺される理由が出てきた。復讐だ」

「……復讐」

「彼は水騒動の一端を担っていた。下手人はそう思っていたにちがいない」

 別府は片手をふった。

「問題はだれが殺したかだ」

 襟を正した。気持ちを仕切り直した。

 彼女の瞳を正面から見つめる。

「もちろん、貴方の疑いは完全には晴れていない。凶器の移動は不可能でも佐々木と共謀して、ふたりを殺害することはできる。それならば、余分な時間を短くできる」

「わ、わたしはさきほど云ったように……彼とはなんの関係もないのです。下屋敷で女中することを嫌がられたくらいです」

「貴方以外の証言はとれていない。偽りかもしれない」

「佐々木にきけば……」云いかける。つぐんだ。

「問題の相手は死んでいる。死人に口無しだ。げんに大村家に仕える者のなかでは、貴方と佐々木の関係がとりざたされている。周囲の噂が正しかった場合、佐々木との共犯はもっとも考えやすい」


「しかし、佐々木は死んでいるのですよ。下手人に殺されています。まさか、わたしが殺したと云うのですか?」

「そのとおりだ。貴方はまず、佐々木に菊太郎と昌村を殺害させたのではないか。一人目の菊太郎は絞殺だったが、彼はその絞殺にも、木刀を使ったのかもしれない。組紐をくくりつけて、絞殺の支えにしたのだ」

 江戸時代後期にはまいぎり式と呼ばれる、縄の回し方が編みだされていた。発火に使われる方法だ。ほんらいは支え木に縄を巻き付け、回転させることで、摩擦熱を与えるものだった。

「佐々木は首に組紐をかけ、終点を木刀とむすんだ。まいぎり式のように回転させ、菊太郎を殺害した」

 風呂敷のなかの木刀には佐々木の掌紋がのこっていた。この理由も説明できる方法だった。

「人間は首のまわりを圧迫されると鼻血が出る。木刀の手形は佐々木が殺されるときについたのではなく、菊太郎を絞殺するときに、彼の鼻血が木刀についたのだ」

 さきほど、未堂棟は樫の木刀を下手人が選んだことに疑問をもっていた。たしかに撲殺にはむかない。しかし、絞殺には向いているのが木刀だ。

 太い木刀ならば、人の手では折れない。木刀と組紐を使えば、直接、被害者にふれられることはない。被害者の抵抗によって、爪を立てられることもないのである。

「佐々木は最後に昌村を刺殺した。ふたつの凶器を風呂敷にいれる。外へと運び、土間にもどってきた。しかし、彼にとって、予想外だったのは貴方の存在だ。貴方は土間にいた」


「行っていません。丑の刻には眠っていました」

 別府は首を横にふった。

「おそらく、佐々木は貴方に偽りの証言をさせ、現場にいなかったことにするつもりだった。しかし、貴方は土間にあらわれた。驚く佐々木を殺した」

「土間には目撃者がいたのですね? わたしではないと申してくれるのではないですか?」

「たしかに瑞木が犯行を見ている。しかし、下手人の顔は見ていないらしい。貴方ではないとは断言できないはずだ」

「そんな……」

「ほかにいいぶんがあるならば、きこうではないか?」

「わたしは殺していません!」

「ほかに云うことはないか?」

 別府は彼女を追いつめていった。経子は目線を左右へと動かした。

 ほかの役人はさすまたを地面に立たせ、微動だにしなかった。

「ど、同心様、わたしではありません。信じてください」

 経子は未堂棟の服の裾をつかんでいた。別府は彼女を引き剥がそうとはしない。別府もまた未堂棟の反応を待っていたからだ。別府は容疑者を過剰なまでに責めたてる。同心の役割でもあるが、未堂棟の示唆を誘導するためでもあった。

 未堂棟はけっして無実の者を見捨てたりはしない。

 かならず反応を示すはずだ。

 しかし、未堂棟はまだ口をひらかない。


 彼女とは反対のほうを向いていた。視線の先は裏路地だった。

 あまりにも一点を見ているので、別府も目線のさきを追った。

 ひとりの男が歩いていた。両肩に桶をのせていた。

 まさか……。彼は……。


 瑞木新七だ。水屋の仕事のために西区画に来ていたのである。

 瑞木の姿の全貌があらわれた瞬間、未堂棟の左目がひらかれた。

 十九回目だった。

「――無月の夜に大村昌村さんを殺したのならば、濁流が不可欠です。佐々木さんが凶器を運んだと考える場合、蛇崩池の氾濫はわれわれの想定よりもはやく起きていなければなりませんからね」

 

 別府の仮説が正しければ、佐々木が最後に殺されたことになる。

 二十回目もつづけられる。

「――町外れに凶器を置き、下屋敷にもどってくるまでに半刻以上はかかります。殺人が逆順だったとしても、昌村さんが密室内で殺されている以上、蛇崩池の泥水がみちたあとでなければ、成立しません。佐々木さんが殺されたとき、すでに敷地内は氾濫していたのか、その確認によっては、佐々木さんが暗躍していたという前提は不可能になります」

「だったら、目撃者にきけばいい。瑞木、ちょっと来てくれるか?」

 別府は瑞木新七を空き地に呼びよせた。

 彼は目を白黒させていた。びくびくと歩いてきた。

 ふたたび顔を合わせるとは思っていなかったにちがいない。

 別府は順を追って、瑞木に説明した。

 経子が疑われている事実、西区画の木戸のしまる刻限、佐々木の犯行のあとに彼を殺したのならば、経子の犯行が可能になる点、彼はうなずきながら理解をふかめていった。

「いちばんの問題は蛇崩池の氾濫にある。われわれの調べでは大村昌村は密室内に浸水が起きたあとに二階窓の外から刺殺されている。現場に見つかった血痕もそれを示している」

「そんなことが……」

「逆に考えれば、大村昌村は蛇崩池の氾濫のあと、敷地内の土倉に濁流が押しよせていないと殺せなかったことになる。そして、佐々木が下手人だった場合でも、土間にもどってくるには半刻以上かかる」


「……わかりました。佐々木さんの殺されたときが、氾濫のまえか、氾濫のあとかによって、彼女との共犯が成立するかがきまるわけですね」

「ああ。氾濫のなか、佐々木がふたりを殺害し、そのあと、経子に殺されたのならば、三人を殺した時間を短縮できる。経子は木戸のしまるまえに、かえることができるのだ」

 別府は人差し指を立てた。

「もしも、氾濫の起きるまえに佐々木が殺されていたのならば、密室外から、大村昌村を殺すことはできない。とうぜん、彼女は木戸のしまる時刻にはもどれない。経子の犯行は不可能になる。だから、貴方にききたい。じっさい、どちらだった?」

 瑞木は答えに迷っている様子だった。自分のことばで経子の疑いにおおきな影響をおよぼすのである。逡巡するのは普通である。

 彼は同心の顔色を伺うように声をひそめた。


「……同心様はわたしが下手人を見たときの証言をおぼえているでしょうか……わたしの最初のことばです」

「ああ、水が流れこんできたと云っていた。……いいや。待てよ」

 別府は右手で顎のさきを滑らした。

 一言一句が頭に蘇ってくる。


 ……水が流れこんでくる。

 直前に、さ、佐々木さんが……。


「貴方は水が流れこんでくる直前に佐々木が殺されたと云っていた。氾濫の予兆よりまえに、佐々木が殺されたという意味だったのか?」

「ええ、そうです……わたしの記憶では、氾濫よりもっとまえ、崩壊音がするまえに、下手人と佐々木さんが争っていました。まァ、わたしも混乱していたので、正確におぼえているわけではないのですが……」

「いいや、どちらかといえば、そちらのほうがしっくり来る。おまえはそのあと、下手人が少し考えてから、敷地内に逃げていったと答えていたな」

  別府は自問自答するように云った。

「考えていたのではなく、待っていたのかもしれない」


「どういうことですか?」

「浸水がはじまるのを待っていたのかもしれない。おまえは下手人が逃げていったと証言した。すでに浸水が起きていたとしたら、敷地内を自由に走れなかったはずだ。水音もきいていないのだな?」

「ええ。きいていません」

「ならば、敷地内に大水は、まだ溜まっていなかったことになるな」

 別府の眉はあがった。

「われわれは土嚢を置くことで敷地内を移動できた。この差異からも、まだ敷地内に濁流がはいっていなかったことの裏付けになる」


 ……つまり、佐々木の殺されたとき、濁流は押しよせていなかった。

 それが証明されたのである。

 別府は途端に、柔和な笑みへとかえた。肩をわざとらしくすくめる。


「下手人はやはり佐々木、大村菊太郎、大村昌村の順番で殺し、凶器を運んだことになるな。この順番では、どう急いでも、間に合わない。時間が足りない。西区画の木戸は封鎖されたあとになる。ゆえに、貴方が殺すのは不可能になる」

「それでは、わたしは……」

「いまの段階では下手人ではない」

「よかった。気が気でなくて……」

「だったら、わたしもお役目ごめんでしょうかね。退散してもよろしいですか?」

「ああ、悪かった。だが、これからどこに行く?」

「ああ、わたしは……」


「このさきの道場に行くのですよね」経子が答えた。

「佐々木のかよっていた剣術道場か? なんのために?」

「水桶のなかの水を補充するためです。今後はどうなるかわかりませんが……」

  とおい目となった。

「大村家が上水の管理をはじめてから、西区画のほうでは水不足の地域がふえているのです。その穴埋めですね」

「たいへんだ」別府は眉をひそめた。

「まァ、陸田や水田のほうに優先的に水をまわしているようですからね。農作物に問題が起きていないのはよかったです」

「……農作物と云えば、作間政信はどうなのだ。ふたりから見て、彼はどのような人物に見える?」

「下手人になりうるかという意味ですか?」

「ああ、答えにくいだろうが……」

「そうですね……わたしは政信さんが殺したのではないと思いますよ」

「どうしてだ?」

「彼は大村家の者に斬られたことがあって……」

「きいている」

「その怪我のせいで、足が不自由になっているのです」

「歩けないのか?」


「いいえ、そこまでは……。ただ、走るのはむずかしいと思います」

「だったら、春終わりや秋の収穫はたいへんではないか?」

「町の人に手伝ってもらっているようです」

「政信は指示を出すだけなのか?」

「いいえ。上半身は無事ですし、年齢はうえですが、まだまだ若々しく、力強いように見えます。収穫物を運ぶときは、牛馬を使っています。牛や馬の扱いは普通の人よりも上手いですよ」

「馬にのることもできるのか?」

「ええ、お侍さんよりも上手かもしれませんよ。鞍がなくても、落馬しませんからね」

「そうか。わかった。ふたりとも引きとめて悪かった。だが、あまりとおくへと行かないようにしてくれ。事件のことで思い出すことがあるようなら、役人に云うように」

「わかりました。失礼します」


 経子は疲れ切った身体を休めるためか、女中部屋のあるほうへと歩いていった。

 瑞木は南側に身体を向けた。

 正面の長屋に高い屋根が見えていた。剣術道場かもしれない。

「経子は下手人ではなかった」別府はつぶやいた。

「しかし、収穫はあった」

 決意をあらたに、行人坂にもどることにした。

 蛇崩町の入り口の宿駅ならば、駕籠もとまっているはずだ。

 こんどの目的地は町の外だ。

 作間政信である。

 馬か駕籠が必要だった。遠出になる。


 表通りにはあいもかわらず八百屋や米屋が立ちならび、賑やかな喧噪につつまれている。魚屋の生け簀には、ドジョウやアユがほうりこまれている。

 ちかくの蛇崩川から捕まえているようだ。

 すれちがう者のなかには手ぬぐいと桶をもって、湯屋へと向かう者もいた。

 少しでも汗をとめたいにちがいない。刻限は正午をまわっていた。太陽の日差しはひときわ強くなっていた。町屋の二階には洗濯物が干されている。

 蛇崩町の出口まで一筋の白い幕がつづいていた。

 まるで青い花弁に、白い縦線のはいった朝顔のようだった。

 おしべとめしべにあたる部分には門がそびえている。

 その場所は蛇崩町の入り口でもあった。

 吉原の大門ほどではないものの、一丈ほどの門が建っている。三メートルほどの高さである。大門を出ると、左側に馬や駕籠をとめる問屋場がある。

 右側に役人のつめる大番所があった。この一帯が宿駅と呼ばれている。

 宿駅には駕籠と馬が二頭、とまっていた。

 別府は腕を組んだ。どちらを使うか悩んだ。

「未堂棟を馬にのせるのは不安か……」


 別府は駕籠をたのむことにした。ちらっと馬を見る。江戸時代とはいえ、やすやすと馬がいるわけではない。しかし、街道に面した宿屋ならば、話はべつだ。

 馬を常備しているところもある。借りることもできるはずだ。


「政信は走れない」

 別府は腰紐を強く締め直した。


「しかし、彼はふだんから牛や馬を使っていた……。もしも、政信の泊まっていた宿屋に、馬がいたとしたら、あるいは……犯行が可能になるかもしれない」

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